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  フェイドアウト             原作 周防 元水     

第4話 澪筋      

 世津のいた新居町は、神事の余韻が収まって静けさを取り戻していた。新月での暗夜は夜空さえも隠すように想われる。込み上げるものを抑えきれず、私は町外れの丘で一人になるのを待ち暗夜を見上げていた。漆黒の闇の中で時を過ごすと、私は想い出の中に懐かしい世津の声を聞いていた。

「ほら応えてくれるのよ。」
 見えない星を見上げる世津が傍らに居る。二人はベンチに座り長い時を過ごした。辺りの灌木は艶やかさと引き換えに無彩色の世界を丘に敷き詰める。高木は揺れもせず夜空を覆いつくし飲み込むように生き物を静まり返らせている。湖岸の夜景が少しずつ光を失いやがて路上のシグナルだけがぼんやりと瞬き始めると、山道の街灯も灯を落とし山々は深い闇に覆われていく。全てがそこに在った。自らでしか認めることが出来ない慚愧の世界、その全てがそこに在った。
 

 翌朝の電話に世津の小さな声がした。湖に行きたいと言う。人の目を避けるように逢った二人は、午後には小舟で湖上に出ていた。ひとしきり湖内を廻り波静かな場所に落ち着いた。午後の光りが傾く中、二人は最後の想い出となる美しいものを見ていた。夕焼けの美しさは寂しげな世津と重なり、深く見付けにくかった自分を気付かせ、また、全てに終わりのあることを暗示する。押し留めることの出来ない自分を感じる中、湖上が光りを失いやがて暗夜を迎えた。
 いつしか私は世津の気持ちを忘れていた。湖上は煌めきを既に失いぼんやりとした数える程の彼岸の如き灯りに支配されている。その僅かな灯りを遮る様に何か浮遊物が移動していくのを感じると、遠離る幻影としてそれを見送っていく。暫くこの様なことを繰り返していると涙は突如としてやってきた。涙は無の世界に自身を溶け込ませていくのに似ている。虚構は崩壊しあるがままをあるがままに受け入れる。それは実に心地よく、心の奥のものを波間に垣間見せてもくれる。暗夜の瀬のシルエット…それは躊躇う様に時をかけ彼岸の灯りの中に消えていった。自身の心の在処を捉えたと想えた私はその心地よさに浸り見送って涙した。
 世津、これ程までに私は自身を失うことは無かった。

 
 潮が止まり船のもやいが緩み始める。クリークに目をやったとたん私は私の偽善の血が一気に引くのを覚えた。バウの白い椅子。ライトに浮かび上がる無機質な瀬。白い靴。錯綜した思考の中でそれらが光りとなって一つに結ばれると、私は私のあるだけの声を振り絞り叫んでいた。 …深遠の闇。 …光り。 時空は歪みその激しい渦は全てを呑み込み、やがて穏やかになっていく。目前で世津は消えた。
 いつしか私は見境をなくし暗夜の湖上をさまよっていた。主を失った小舟は既に姿を消している。胸まできた潮は、私の意識を次第に遠ざけ幻影さえあてがう。 ………。 手を伸ばしすがるように追う。 …ざざ、ざざと波の音がした。どこか聞き慣れたその音は岸辺の波打つ音のように想え、私は世津の名を呼びつつそこに近付いていく。 …遠く闇が全てを覆いつくし感覚さえ奪っていた。世津の名は次第に小さくなりやがて脚が地の感触を失うと私は静かに湖上に漂い澪に引き込まれていった。

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