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 の木

原作 周防 元水   
第2話

 野山を駆けるこの声は、都では「稲河声」と呼ばれ、古くから現れていた。農民の政への意思表示として、これまでしばしば用いられたと聞く.。人目を避け河原で行われた寄合が「稲河声」の始まりである。
 夜半に声なき声が地を這うように広がる。見えざる「稲河声」は、時の流行の末法思想と結び付き、物怪となって為政者を悩まし続ける。魑魅魍魎に取り憑かれた公卿は物忌に走り、よって都はもう長い間政が滞っていた。
 隋より移入された律がある。その規定を修正した格とその施行規則である式は、「稲河声」を規制している。都ではこの異国の格式を適用し農民を押さえ込んでいく。強訴や逃散との関連を問い、見せしめとなる律の適用と徹底した相互監視による農民管理を行なったのだ。
「稲河声」は都では次第に現れなくなった。
 都より遠く離れたこの地では、律が殆ど機能していない。格式等皆無に等しいと見えて、農民の行動はかなり大胆である。奥羽のこの地で「稲河声」に巡り会い、寛和は思った通りだと頷いた。
 宮前の北、大郷では「ほ〜う〜う」と言う長い長い声が、野を渡り歩くという。低く唸るような声だと言うから、目前の「稲河声」と同じである。
 物怪が住むと言うのが川縁である。その川縁が、あちらもこちらもこの有様であるから、地方貴族は寄り付かなくなっていると言う。吉凶を重んじる貴族であるから当然である。やがて、「稲河声」の現れた水田は、不吉の兆候として地方貴族ばかりか村人にまで酷く忌み嫌われていく。こうして「稲河声」は逃散と共に各地の口分田を荒れ地とし租の対象から外していく。
 「稲河声」がよく現れる陸前一帯は、村を支配する氏集団の衰退が予想以上に進んでいると見ていい。氏を束ねる官吏の不手際は疑いようもなかった。

 獣のような声は、谷田の田一枚一枚に渡り歩いている。少しずつその声は調子を変えている。緊迫感が寛和に伝わってくる。よそ者への警告が発せられているのだ。物怪の様はにわかに人の気配にとって代わり、寛和の周りに忍び寄ってくる。様子が変わった。身の危険を予感した寛和は、物見から身を引いた。
 五番灯籠へと急ぎ戻る寛和の背に何やら人の声がした。
「……」

 熊野岳が象徴する陸奥は、今、最も難しい時を迎え、伝わってくる気配が尋常ではない。
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