大中寺年表[11代〜20代]
[11代]
龍嶽礼和尚(りゅうがくれいおしょう)
慶安2年(1649)
龍嶽和尚が寺社奉行へ出した文書に「大中寺は、大義和尚開基の地であり、実庵。春叢。嶽叟。精印五代以降は、中興宝珠護国禅師である。」とし、開基より慶安まで三百十余年を経た古跡であると記す。
慶安2年(1649)
龍岳和尚 末寺・松寿院の本尊 薬師如来の開眼。「胎内銘あり」
慶安2年(1649)
家光公より11石7斗の御朱印を受ける。以後家茂公に至る九代の朱印状の写し現存。
栄岩和尚(えいがんおしょう)
[12代]
万治3年(1660)
5月16日 栄岩座元禅師 遷化
万治3年(1660)
6月16日 秀多首座禅師 妙心寺後版寮の官職を取る。12代より14代の三師合同の古位牌が本堂に祀られているので、先代 友道和尚の代には12代と14代は世代に加えていなかったが、ここでは遷化順に世代表にその名を記す。古位牌中「座元禅師」のつくのは三師のみ。他は「和尚禅師」である。妙心寺の確かな法系に組み込まれる(最宗和尚)以前は、混沌とした時代が感じられる。現代と違い寺は、僧坊の生活が営まれていたものと思われる。
[13代]
清岳座元禅師(せいがくぞげんぜんじ)
万治4年(1661)
3月13日 清岳和尚 遷化
寛文6年(1666)
6月1日 龍岳和尚 遷化
[14代]
文英座元禅師(ぶんえいぞげんぜんじ)
寛文12年(1672)
文英和尚 遷化。東沢田 雲蓋山(うんがいさん)玄機庵の開山。
[15代]
別春和尚(べっしゅんおしょう)
示寂年不詳
墓石なし
[16代]
最宗祖乗和尚(さいじゅうそじょうおしょう)
万治3年(1660)
6月16日法系第一世・最宗和尚 妙心寺前版寮 第一座となり、同年林鐘吉辰妙心寺の洪洲元収和尚より伝法の法語を受ける。寺宝の九条の伝法衣は最宗和尚の時代のものか。頂相の袈裟と色目が似る。
天和3年(1683)
4月吉日 祖俊首座 大中寺住山 最宗祖乗和尚より印可状を受ける
[17代]
台叟栄才和尚(たいそうえいさいおしょう)
元禄12年(1699)
3月4日 妙心寺後版首座となる。
3月16日 妙心寺前版第一座となる。
正徳元年(1711)
正月 絵図に御泉水載る
正徳2年(1712)
8月21日 大輝和尚へ中御門天皇より禅師号の宣下
白隠禅師と交友関係あり。禅師の語録の中に黄河和尚に関する記述あり。花園大学図書館今津文庫本及び陸川文庫1483の『荊叢毒蘂』(けいそうどくずい)の中に大中寺に「衆寮アリ」と記す。『闡提毒語集』(せんだいどくごしゅう)の書き入れ本の中に「沢田大中寺黄河和尚、禅師の法友ナリ(今津文庫本)」「沢田ノ大中ノ黄河和尚。是も歴々ノ老宿。老漢の芳友ナリ(陸川文庫)」とあり。
正徳2年(1712)
石造観世音菩薩像 台叟和尚銘文
正徳5年(1715)
9月良辰 冶檀和尚への伝法法語
正徳5年(1715)
10月8日 冶檀和尚 妙心寺後版首座となる。
10月16日 冶檀和尚 妙心寺前版第一座となる。
正徳5年(1715)
6月23日 台叟和尚 遷化
[18代]
黄河冶檀和尚(こうがちだんおしょう)
享保元年(1716)
美濃の雲水であった沢門宗仁和尚が白隠禅師35歳の春に『正宗賛』の講議を請う『白隠和尚年譜』
享保4年(1719)
仲冬上浣 加藤家墓石銘
享保15年(1730)
12月8日 出山仏の掛け軸のお裏に「雲山和尚画 出山仏像置之 黄河」とその名を記す。
享保18年(1733)
玄機庵の小鐘銘に「現住大中禅寺比丘 奇英謹記」とあり。奇英は世代にその名を留めないものの寺中重要な役位にあったものと思われる。
享保20年(1735)
5月16日 遷化
[19代]
春国流芳和尚(しゅんごくりゅうほうおしょう)
現存の古位牌は春国和尚より一霊一位牌となる。
けだし本堂の位牌はこのころ作られたものと思われる。
延享2年(1745)
2月19日 旧慈光院什 庚申塔兼石灯篭 中沢田道尾連中(現在世代の墓域にあり)
宝暦10年(1760)
7月11日 東嶺禅師40歳を迎え『毒語心経』を開講。白隠禅師76歳が陪席する。平成4年本堂の8枚の襖の下張りより発見された『心経会雲水名簿』現存
明和元年(1764)
奉納西国坂東観世音菩薩供養塔 閏逢〓灘(どんたん)大呂上浣日 後藤姓
明和9年(1772)
2月24日 春国和尚 妙心寺後版第一座から妙心寺前版第一座となる。
[20代]
沢門宗仁和尚(たくもんそうにんおしょう)
再中興 本堂 客殿 建立 現在の不動明王新彫 庭園修築 桃壑和尚との共著『大中寺庭園記』あり。
「奉呈沢門和尚」で始まる現存の扁額の文中に「堂閣久しき故に及びしを逐年総て一新云々」とあり、沢門は備前岡山と縁のあることが知られる。
安永9年(1780)
2月9日 妙心寺後版首座となる。
安永10年(1781)
2月6日 禅叢首座 妙心寺後版首座となる。(職状参照のこと)
安永10年(1781)
2月27日 沢門和尚 妙心寺後版第一座より妙心寺前版第一座となる。
天明3年(1783)
正月 寺社奉行へ提出の絵図
天明4年(1784)
3月10日 春国和尚遷化。
天明8年(1788)
11月 隣地の農家より出火。仏殿、庫裏類焼。本尊不動明王は、持ち出す暇なく焼失。
寛政2年(1790)
8月付けの絵図に客殿、庫裏載る。
寛政6年(1794)
現存の大きな古い掛け軸箱の蓋裏に「沢田山主 得中新添」とあり。得中は世代にその名を記さないまでも寺中において重要な役位にあったことが知られる。
寛政8年(1796)
『大中寺庭園記』の中に「宝殿を造建し恵林寺に倣い池を殿後に移す」とあり。
寛政9年(1797)
仲冬 井上幸助筆の涅槃図を迎える。
寛政11年(1799)
12月4日 沢門和尚遷化 59歳
寛政11年(1799)
5月7日 忠道和尚 豊後の国 海部(あまべ)郡木佐上村(現大分市)の百姓 太田清兵衛の三男として生まれる。
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