大中寺年表[21代〜当代]
[21代]
桃壑全察和尚(とうがくおしょう)
享和3年(1803)
沢門和尚との共著「大中寺庭園記」あり。磬子現存(恩香殿にて使用)
文化2年(1805)
11月大吉祥旦 奉納大乗妙典六十六部供養塔 植松久兵衛 即心造立之
文化4年(1807)
3月7日 桃壑和尚 妙心寺後版首座となる。
文化4年(1807)
3月16日 桃壑和尚 妙心寺前版第一座となる。
文化7年(1810)
忠道和尚 11歳 大分市大字 細の延命寺の綿山和尚(仙涯和尚の法嗣(はっす))のもとで得度。
文化11年(1814)
4月12日 月庭和尚大分に誕生
文政2年(1819)
2月 現本堂前机 東沢田 古池勘左衛門の寄進。
文政3年(1820)
3月より忠道和尚 沼津市三枚橋の蓮光寺において妙喜禅師に就いて修学。21歳。
臘朔 妙喜禅師 大中寺の鎮守の名号を書く。祖憩の名前出づ
文政3年(1820)
12月25日 朝6時半頃 西久保の民家より出火。
本堂 庫裏 鐘楼 宝珠庵 悉く類焼。西久保の末寺浄福寺へ難を避ける。
文政4年(1821)
2月 寺社奉行提出の絵図現存
文政5年(1822)
2月28日 僅かに茅宇を結んで帰山。
文政6年(1823)
11月8日、村内より再び出火。浄福寺も焼失。留置する4百年来襲蔵の什宝 珍器古文書の類一時に灰塵に帰す。
文政6年(1823)
「林鐘良辰 桃壑新添 椎路邑 松寿庵公用」の書付を持つ桐机(現存)
文政7年(1824)
12月4日 桃壑和尚 遷化。
[22代]
忠道宜誠和尚(ちゅうどうぎせいおしょう)
再中興 大分出身、太田清兵衛の三男。沼津蓮光寺・妙喜禅師の徒。諸堂再興、大鐘新鋳。椎路 龍雲寺復旧。よって檀徒は和尚の像を刻み安置し、仰いで中興となすに至る。著『忠道和尚詩偈集』あり
文政10年(1827)
祖憩は文政3年(1820)に、鎮守の名号を妙喜禅師に依頼しているところからしてこの頃 大中寺で重要な役位として活躍しその後 他寺へ出世か。大中寺の世代には載らず、また墓も存在しない。
文政10年(1827)
11月15日 忠道和尚 大中寺へ入寺。
天保2年(1831)
3月8日 祖憩 妙心寺の後版首座となる。
3月20日 忠道和尚 妙心寺の前版第一座となり大中寺へ晋山。
天保7年(1836)
昭和55年解体の前客殿兼庫裏の建築
天保8年(1837)
半鐘の鋳造。(現存)
天保11年(1840)
梵鐘の鋳造。この鐘は戦時供出
天保12年(1841)
仏殿と鐘楼門(現存)の建築。大中寺最初の山門である。
弘化元年(1844)
蓮光寺より妙喜禅師を拝請して入仏供養を執行。
祖録を開講する。
[23代]
月庭玄教和尚(げっていげんきょうおしょう)
大分出身、小野伝三郎の8男。現本堂を建立。田地を収得し寺運大いに興隆す。真覚を名のる。晦巌・仙涯両師に参じ妙喜和尚に師事する。
弘化4年(1847)
忠道和尚 東椎路にある末寺 松寿庵へ隠居 東椎路には清見寺末の龍雲寺があり、和尚はその頽廃して無住であることを痛み、苦心計画。これを復旧。庵原郡小島、龍津寺徒 豊谷和尚をして住職せしめた。よって檀徒は和尚の像を刻み安置し、仰いで中興の祖となすに至った。『忠道和尚詩偈集』
弘化4年(1847)
正月17日 妙心寺後版第一座となる。
2月15日 妙心寺前版第一座となる。月庭和尚大中寺晋山
嘉永元年(1850)
蓮光寺 妙喜和尚遷化。
嘉永4年(1851)
月庭和尚、倉庫を新築する。
嘉永6年(1853)
5月12日 月潭玄璋和尚(木村氏) 現沼津市原に誕生
安政元年(1854)
11月4日 大地震のため築後12年の仏殿は潰滅。庫裏は傾頽し他の堂宇は 倒れるか或いは傾く。山門のみは安全であった。
安政6年(1859)
月庭和尚仏殿(現本堂)再建。前庫裏を修理し倉庫を新築する。江藤俊平は金灯篭一対 銅三具足を池田吾平は、厨子入り地蔵尊を新彫寄進する。(地蔵尊は現存せず)
安政6年(1859)
2月15日 月潭玄璋和尚 大中寺にて月庭和尚を師と仰ぎ得度。
元冶元年(1864)
8月18日 仏殿落成入仏供養 小田原永久寺の潜龍窟 宙山禅師を屈請して臨済録を開講。
[24代]
月潭玄璋和尚(げったんげんしょうおしょう)
明治元年(1868)
原 一本松、木村清七三男。月潭玄璋和尚の住職の時代皇室との関係深まり度重なる行啓を仰ぐ。
月潭玄璋和尚 沼津兵学校分校である東沢田敬身舎、沼津中学校、静岡の宮原義塾に修学。
明治5年(1871)
美濃郡狩野村の天沢寺において修学。後に瑞龍僧堂にて修禅。
明治8年(1875)
2月27日 月庭和尚 住職辞任 月潭玄璋和尚住職就任 22歳 月庭和尚は、現戦死者墓地・つまり元宝珠院跡にあった白雲軒へ隠棲。
明治9年(1976)
12月26日 月庭和尚 玉鳳院塔主職となる。
明治11年(1878)
11月30日 月潭玄璋和尚 住職差免
明治12年(1879)
5月13日 月潭玄璋和尚 故あって藤枝の普門寺の住職に就任。
[看護]
達禅禅磨和尚
明治12年(1879)
達禅禅磨和尚(月庭和尚徒) 住職に就任。明治24年に的場の養光寺へ入寺(大中寺の世代には加えず)
明治14年(1881)
1月18日 忠道和尚遷化 82歳
明治14年(1881)
月庭和尚 山門の下より村道に達する72間に敷石を布設する。
明治15年(1882)
忠道和尚 妙心寺東堂職を追贈される。
明治15年(1882)
10月8日 大眉和尚誕生
明治16年(1883)
1月15日 月庭和尚 妙心寺東堂職となる。
明治18年(1885)
7月30日 月庭和尚遷化 73歳 和尚の法を稟(う)ける者は恵鶴・恵久・月潭玄璋・恵海の四人あり。恵鶴は、清水町的場の養光寺に住持し師に先立って寂す。(明治9年2月3日・37歳)恵久は徳源僧堂の蘇山禅師に師事し僧堂に病死。(明治元年3月29日・27歳)恵海は明治8年2月27日、伏見の玉井寺に出世する。
明治20年(1887)
春 達禅和尚 花御堂(現存)を新調
明治20年(1887)
6月27日 月潭玄璋和尚 妙心寺準堂職となる。
明治24年(1891)
5月19日 月潭玄璋和尚 藤枝 玉林寺を兼務。
明治24年(1891)
達禅禅磨和尚 的場の養光寺へ移る。
明治24年(1891)
月潭玄璋和尚 大中寺の住職に再住。
明治25年(1892)
3月10日 小松宮彰仁親王 お成り 園中お散歩
明治25年(1892)
5月23日 月潭玄璋和尚 本山住持職となる
明治26年(1893)
8月 月庭隋尼 智清 雲板を寄進。
明治27年(1894)
2月 日清戦争始まる
明治28年(1895)
2月26日 月潭玄璋和尚 花園天皇五百五十年遠諱の役位となる。
明治28年(1895)
4月 日清戦争終わる
明治29年(1896)
8月11日 月潭玄璋和尚 宗会議員となる。
明治29年(1896)
沼津離宮完成
明治30年(1897)
3月13日 大正天皇(17歳)園中御逍遥 本堂にて磬子及び法鼓を鳴らされる。
4月 行啓を記念した東屋落成(蘿亭)
明治31年(1898)
1月2日 大正天皇 愛鷹山御遊猟の折、御休憩 西郷 大山 奥各大将 侍従武官長黒田中将陪従。この年より梅園の造園始まる。
明治31年(1898)
11月2日 月庭和尚 妙心寺の住持職を追贈される。
明治33年(1900)
大中寺梅園完成。
明治36年(1903)
2月23日 大正天皇(22歳)貞明皇后(18歳)御観梅
妃殿下 東屋のへいらを賞される。
明治37年(1904)
1月15日 大正天皇御観梅 早梅 千両各一枝お持ち帰り「龍潜梅」
明治37年(1904)
1月28日 大正天皇 沼津停車場より御徒歩にて御観梅
この日「大中寺観梅」の御製なる。時に殿下24歳「大正天皇漢詩御製集」
明治37年(1904)
7月 日露戦争始まる(翌年9月終わる)
明治40年(1907)
月潭玄璋和尚 菴原村 松雲寺住職となる。
明治41年(1908)
10月 現在の根方線完成。
明治41年(1908)
12月15日 月潭玄璋和尚 開山国師五百五十年遠諱の役位となる。
明治42年(1909)
2月16日 皇孫三殿下 御観梅 園中御遊戯 本堂にて磬子法鼓(けいすほっく)を打ってお慰み 住職は13年前の御父殿下を追憶感涙を催す。
明治42年(1909)
2月22日 昭憲皇太后 御観梅 現在地にあった前白雲軒にて御昼餐
明治42年(1909)
3月3日 皇孫三殿下 御学友陪遊 お遊戯のお慰み
明治42年(1909)
4月9日 昭憲皇太后 羽二重壱巻御下賜(五三桐牡丹金彩糸刺繍七条袈裟)白雲軒に渡御 御昼餐 御観桜 筍御狩 「昭憲皇太后御集」に筍の歌出づ
明治42年(1909)
12月23日 徳源寺住職となる。(原 植松家の菩提寺)
明治42年(1909)
恩香殿落成(平成12年重要建造物に指定)
明治43年(1910)
2月6日 皇孫三殿下 御学遊八名陪従 御観梅のお慰み
明治43年(1910)
2月7日 昭憲皇太后 白羽二重御下賜 御観梅 山主へありがたき御諚(ごじょう)をたもう。
明治43年(1910)
2月23日 皇孫三殿下 園中御遊覧 迪宮、淳宮両殿下は、ご学友とお寺を抜け出され、西沢田の子ノ神社で遊ばれる。光宮殿下は、供武官と東椎路までお散歩。
明治43年(1910)
4月13日 昭憲皇太后 御観桜 筍御狩
明治44年(1911)
2月7日 昭憲皇太后 御観梅
7月12日 皇孫三殿下 御学友八名御観梅園中お散歩。
3月20日 昭憲皇太后 豊後梅御叡覧
4月2日 昭憲皇太后 御観桜 筍御狩
8月 中洲翁 東屋を蘿亭と命名。
明治45年(1912)
3月18日 閑院宮載仁親王(小松宮彰仁親王の弟君) 立花少将、鍋島男爵、他三名隋従 梅園御遊覧。
明治45年(1912)
4月7日 御観桜 筍御狩
大正2年(1913)
2月4日 (秩父)淳宮殿下 (高松)光宮殿下 御学友八名御観梅
大正2年(1913)
4月10日 昭憲皇太后 御観桜 筍御狩
大正3年(1914)
7月 第一次世界大戦始まる
大正4年(1915)
4月10日 昭憲皇太后 沼津御用邸において崩御
宝寿 65
大正5年(1916)
8月 韓国王世子李垠(ぎん)殿下 お成り
大正6年(1917)
1月28日 久爾宮殿下 御観梅
大正7年(1918)
8月20日 (秩父)淳宮殿下 (高松)光宮殿下お成り
大正7年(1918)
11月 第一次世界大戦終わる
大正9年(1920)
1月16日 昭和天皇 19歳 御観梅
大正11年(1922)
2月17日 山階宮殿下 お成り
12月10日 月潭玄璋和尚 遷化70歳
[25代]
大眉敬俊和尚(たいびけいしゅんおしょう)
大正11年(1922)
熱海・医王寺 奈園定達の第三子、釈大眉。国泰寺管長。著書多数。禅風高揚に一生を捧ぐ。その生涯は『雲関広録』に詳述。
大正12年(1923)
6月8日 貞明皇后より白羽二重壱匹御下賜(古代紫法衣)
7月25日 大眉和尚、晋山。
9月1日 関東大震災
大正14年(1925)
5月3日 両陛下より金銀三脚香炉と金一万疋の御下賜
昭和2年(1927)
3月30日 澄宮殿下(三笠) 朝香宮孚彦(ことひこ)王 朝香宮正彦王 三殿下お成り
昭和10年(1935)
4月2日 照宮成子内親王 お成り
昭和13年(1938)
2月25日 孝宮和子内親王 お成り 薔薇花一束を献上
昭和14年(1939)
9月 第二次世界大戦始まる
昭和16年(1941)
12月8日 太平洋戦争始まる
[26代]
大愚友道和尚(たいぐゆうどうおしょう)
昭和19年(1944)
新潟県南魚沼郡出身。高橋長松・ツナの五男。保育園開園。『雲関広録』『徑山禅師語録』出版。著『大中寺と沼津御用邸』
8月15日 大眉和尚 大中寺退山。
友道和尚 大中寺晋山。
昭和20年(1945)
8月15日 太平洋戦争終る
昭和21年(1946)
9月12日 大眉和尚 国泰寺入寺。
11月21日 貞明皇后 行啓
12月18日 白絹壱疋御下賜(鶯色地老梅金繍七条袈裟)
昭和22年(1947)
貞明皇后の御下賜金を基に、戦時供出してなかった梵鐘を再鋳。
昭和24年(1949)
秋 貞明皇后御歌碑建立 (開山六百年記念)
昭和26年(1951)
3月 大眉和尚 国泰寺退山。
昭和26年(1951)
5月17日 貞明皇后崩御 宝寿66
昭和39年(1964)
5月18日 大眉和尚遷化 83歳
昭和51年(1976)
5月14日 遷化 66歳
[27代]
当代
昭和51年(1976)
6月19日 大中寺住職拝命。
昭和53年(1978)
4月1日 東宮大夫 安嶋彌氏より東宮両殿下のお手紙を拝受
平成19年(2007)
9月23日 本堂「平成大改修の落成式」
平成21年(2009)
12月9日 バンコク・ワット サケト法王猊下の80歳をお祝いして造られた仏像80体のうちの一体がお寺にいらっしゃいました。
平成24年(2012)
9月16日 開創700年・報恩慶讃法要
平成27年(2015)
10月6日〜8日 大授戒会(だいじゅかいえ)
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