大中寺年表[1代〜10代]
[1代]
夢窓国師(むそうこくし)
建冶元年(1275)
伊勢の人。はじめ天台真言を修学。のち禅宗に帰し一山一寧、高峰顕日(仏国国師)に就学。南禅寺、円覚寺の住職。北条貞時、後醍醐天皇、足利尊氏等の帰依をうけ、七代の天皇から国師号を贈られる。
観応2年(1351)
西芳、天竜、瑞泉、恵林各寺に残る名園を築造。著書『語録二巻』と『和歌集』及び、仮名の法語である『夢中問答集三巻』『谷響集一巻』。
正和2年(1313)
愛鷹山中の山居にて修禅。その縁によって当山の開山となる。[詳しくは
夢窓国師顕彰碑
をご覧ください。]
延文5年(1360)
畠山国清が伊豆奈古谷へ国清寺を建立する。
貞治2年(1363)
須津 天寧庵開基 大勲策禅師は野州 雲巌精舎(雲巌寺は夢窓国師の師、仏国禅師・高峰顕日の開山)より来たりて一宇建立。善得寺の前身。
[2代]
補茂和尚(ぶもおしょう)
応永11年(1404)
墓石なし(従来大中寺では、補茂和尚を世代に加えていなかったが、『駿河記』にその名前の記載がある為ここに記す)
応永11年(1404)
安永9年(1780)4月に沼津寺社御役所に提出した現存の大中寺文書には「応永十一年(1404)之鐘銘御座候 凡四百年余と相見申候」とある。しかし『駿河志料』には、応永十六年夏日に鐘を掛けるとあり、大中寺文書と年号を異にする。
応永16年(1409)
国清寺は一時、鎌倉佐介谷へ移り11年にして伊豆へ戻る。
応永32年(1425)
『駿河記』所載の梵鐘銘に「応永三十二年(1425)乙巳九月二十四日記之 第二世小師比丘 補茂」とあり。
宝徳2年(1450)
から
文明2年(1469)
この間に大中寺の開山塔が作られたと思われる。
[3代]
大儀和尚(たいぎおしょう)
示寂年不詳
墓石なし 10月24日
[4代]
山印和尚(さんいんおしょう)
示寂年不詳
墓石なし 某月8日
[5代]
実庵和尚(じつあんおしょう)
示寂年不詳
墓石なし
[6代]
春叢和尚(しゅんそうおしょう)
示寂年不詳
墓石なし
[7代]
嶽叟和尚(がくそうおしょう)
示寂年不詳
墓石なし
[8代]
精印和尚(せいいんおしょう)
示寂年不詳
墓石なし
[9代]
太原崇孚和尚(たいげんそうふおしょう)
明応5年(1496)
墓石なし
中興。勅謚 宝珠護国禅師。雪斎長老という。今川家の家臣 菴原左衛門尉の子として誕生。幼くして駿河の善得寺に出家。義元とは兄弟弟子の間柄であった。初め富士郡の善得寺で修行。のち建仁寺に移る。妙心寺にて霊雲院の大休宗休につき嗣法。
永正17年(1520)
6月1日 伊豆の国、河津の向陽院の磬が作られる。大中寺所蔵として『駿河記』に載る。因みに末寺・浄福寺、隣寺・永正寺の山号は向陽山という。
天文5年(1536)
義元の帰依により臨済寺を今川家の菩提所とする。
天文8年(1539)
清見寺復興。
また太原和尚は大中寺や承元寺(清水承元寺町)、今林寺、長慶寺、一乗寺などを中興し結成寺(静岡市内牧)、菜流寺(静岡市油島町)などの勧請開山となる。また駿河の他に遠州の定光寺、三河の実相寺などを再興する。竹千代(16歳後の家康)を臨済寺にて教授。今川義元の軍師あるいは執権として信玄の姉と義元を結婚させた。
天文19年(1550)
天文23年(1554)
妙心寺奉勅住職『言継卿記』『御湯殿上日記』善得寺にて、武田信玄、北条氏康、今川義元を会談させた。(三国同盟)
天文23年(1555)
駿河で一番古い出版物『歴代序略』の刊行 。
天文23年(1554)
この頃 『臨済寺塔中・末寺帳』が作成され、今川義元、これを披見する。『臨済寺文書』
弘治元年(1555)
10月10日 太原崇孚遷化する 60歳『清見寺太原崇孚頂相賛』。これより先、遺戒一巻を認め、弟子の東谷宗杲・景〓玄洪が隔年輪番で臨済寺・善得寺に住持するよう、定める『護国禅師三十三回忌拈香拙語併序』
[10代]
大輝祥暹和尚(だいきしょうせんおしょう)
墓石なし
中興 勅諡自覚聖智禅師。沢田の出身。姓は藤氏。清見寺にて太源和尚の弟子、東谷和尚につき修行する。秀吉、家康に帰依を受ける。清見寺中興開山。
永禄元年(1558)
12月17日 今川氏眞 大中寺に諸役を免除する。『大中寺文書』
永禄3年(1560)
『駿河国臨済寺塔中 末寺帳』に大中寺は善得寺末寺として載る。
永禄9年(1566)
11月17日 今川氏眞 大中寺に寺領等を安堵し祥暹蔵主を看坊にする。『大中寺文書』
永禄10年(1567)
7月15日 臨済寺東谷宗杲が大輝祥暹に道号を授ける『大輝祥暹道号頌』
10月10日 東谷宗杲 沢田郷下山名の内などを大中寺に寄進。『清見寺文書』
永禄12年(1569)
正月18日 臨済寺領書立の中に大中寺は大輝和尚の御番地であり善得寺の末寺であると記す。
年号不祥
武田信玄が大中寺への破壊狼藉を停止する。『清見寺文書』
元亀2年(1571)
清見寺へ住山。
元亀3年(1572)
2月22日 今川氏眞 大平の臥雲庵領を義元公の供養料として大輝和尚に寄進。『大中寺文書』
元亀4年(1573)
10月6日 武田勝頼 大中寺領十一貫七百文を大輝和尚に寄進。『大中寺文書』
天正5年(1577)
3月 松寿院の磬子(現宝珠庵で使用)作られる。駿東郡と記されたものの中で三番目に古いものといわれている。
天正8年(1580)
1月 妙心寺へ入寺開堂。
天正12年(1584)
12月 過去帳に記された大中寺什物の説明の写しに、前妙心現清見大輝の署名あり。
天正19年(1591)
2月 妙心寺再住。
天正20年(1592)
11月 霊雲院の輪番を勤める。文禄二年(1593)10月まで。
慶長6年(1601)
三島の代官 井出志摩守 11石7斗の御朱印をとるよう家康公に申請を勧める。『大中寺文書』
慶長14年(1609)
清見寺の席を説心座元に譲り性海庵に隠栖。
寛永9年(1632)
『寛永9年(1632)十二月旧記』の『国清寺古往之末寺−仏真余光−』の中に大中寺の名前あり。
<前のページへ
次のページへ
>
目次へもどる
Copyright © 2002-2008 Daichuji All rights reserved.