建立のいきさつ 第二章
夢窓国師引水の伝承をもつ「あげ溝」について
沼津市立高尾園の東の谷あいから山清水を引き入れた「あげ溝」と呼ばれる灌漑用水は、沢田小学校の西側を走り、田端の町内を潤し、大中寺へも流れ込んでいます。この「あげ溝」の水は、口碑として夢窓国師が杖をもって「これへこれへ」と指し示せばその跡を山清水が流れ従ったという伝承をもっています。「あげ溝」を確認できる文書の最古のものとして、正徳元年(1711)の古絵図が残っています。また『大中寺庭園記』寛政八年(1796)には、夢窓国師が泉水を引き、本堂前に心字池を穿(うが)ったと記されていますが、実際にこの「あげ溝」が、何時(いつ)、誰によって作られたのか、常日ごろから私は心中に、疑問としてきました。その疑問に一つのヒントを授けてくれたのが山梨県への国師の遺跡を巡礼した旅でした。
放光寺を訪ねる
平成12年5月27日のこと、夢窓国師が最初に開かれた浄居寺(じょうごじ)の跡を訪ねたく、大中寺花園会では、バス一台を仕立てて、恵林寺の裏手に位置する真言宗の古刹・放光寺の参拝に出かけました。なぜ真言宗の古刹をお訪ねしたかと申しますと、山梨県の教育委員長を務めておられる清雲俊元師が当寺の住職をされ、私とは旧知の間柄で、他宗の方といえども夢窓国師に精通されておられたからです。
放光寺と笛吹川
当日、清雲俊元師は実に丁寧に我々一行に国師の旧跡・浄居寺の跡を道案内し、詳細に解説してくださいました。その時、高台の浄居寺の跡に立ちながら、放光寺や恵林寺の庭園を流れ、かつては向嶽寺の境内をも潤していた豊かな水は、放光寺より1.5キロほど上流の笛吹川から取り入れられているという説明を師より受けたのです。私は何度も放光寺や恵林寺を訪ねていますが、庭園を流れる水がどのような経路で流れ込んでいるかということはあまり考えてみたことがありませんでした。私には大変な驚きでした。水の取り入れ方が大中寺と同じだと思ったからです。加えて夢窓国師と水について思いをめぐらすようになりました。
大中寺と葛原沢(くずはらざわ)
平大中寺の境内を流れる山清水は葛原沢(くずはらざわ)から取り入れた人工の流れであり、放光寺の流れもまた笛吹川からとりいれた人工の流れだったのです。それを知った時には、長い間胸に引っ掛かっていた疑問が氷解したのでした。水は放光寺を潤して恵林寺へ流れ込んでいます。放光寺は恵林寺開創以前からの真言の名刹であり、放光寺の人工の流れは当然のこととして鎌倉時代にまで遡る歴史があるというのです。
善得寺にも存在した用水ついて
今川家の菩提寺であった富士市の善得寺の研究のため、平成16年2月、富士市浅間町の仁藤宏之助氏が大中寺を訪ねてこられました。その折の雑談の中で「あげ溝」に話が及んだ時、仁藤氏より善得寺にも大中寺とおなじような用水があったことを教えられました。静岡の臨済寺に残る『臨済寺文書』天文二十三年(1554)によれば大中寺は善得寺の末寺であると記載されています。臨済寺の開山の太源崇孚(たいげんそうふ)・雪斉長老(せっさいちょうろう)は大中寺の中興でもあり、また太源崇孚自身、しばしば善得寺へ足をはこんでいました。その孫弟子にあたる沢田出身の大輝和尚が清見寺と大中寺を輪番で住職した法縁のことを考えますと、この善得寺の用水も大中寺の「あげ溝」理解に何らかのヒントを与えるものと思われました。このように近在の灌漑用水の歴史を勘案してみますと、「あげ溝」は既に室町末期には大中寺に存在していた可能性も考えられるわけです。
慕古心(もこしん)ということ
現在の大中寺の場所は、川瀬一馬氏『夢窓国師禅と庭園』(講談社 昭和四十二年発行)によれば、国師が好んで庵を結んだ他の地と比べて特別景勝の地ではないために、実際に国師は住まなかったであろうと述べられています。その意味では大中寺は夢窓国師を勧請開山(かんじょうかいさん)と申し上げるべきかもしれません。浄居寺の跡に立ち、清雲俊元師の話を聞きながら、笛吹川からの引水を実見した大中寺の歴代の住職が、国師を慕うあまり、恵林寺と同じような庭園への引水をかねた灌漑用水を引こうと考えたのではないかという推測がごく自然に浮かび上がってきたのです。
放光寺や恵林寺の庭の流れが作られなければ、大中寺の「あげ溝」も存在しなかったことでしょう。今回のような機会にめぐりあう時、法を慕う「慕古心」ということが切に思われます。実際に夢窓国師が開山したか、しなかったかではなく、何よりも大切であることは、開山と信じている人がいるか否かであると教えられました。「あげ溝」の雛型を知り、大中寺歴代住職の篤い開山国師への思いを抱いた生涯が偲ばれました。 |
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