建立のいきさつ 第三章
夢窓国師修禅の地・愛鷹山
年譜によれば国師は、正和二年(1313)元翁・不二・祖用等七、八人の弟子を伴い、幽栖の地を求めて山梨の浄居寺を出で、遠州に向かっています。川瀬一馬氏は、その道すがら国師一行は、上九一色村〔雲亀山永泰寺〕・西湖・裾野〔霊亀山興禅寺・曹洞宗〕そして愛鷹山中〔沢田山大中寺〕・多比〔大円山龍雲寺〕に足跡を残したのであろうとその著『夢窓国師 禅と庭園』の中で記しています。川瀬氏は興禅寺の名を挙げておられないが、私は同寺※が国師開闢(かいびゃく)の伝承をもち、現に位牌を祀り、不思議にも大中寺と同じく山清水を引き庭を潤していた歴史があることと、元は富士山を仰ぐ景勝の地に本堂があったと思われるという住職・松本好道師の談話をお聞きして、ここに挙げた他の寺と同じくこの時に国師が立ち寄ったと考えています。また沼津市大岡の潮音寺は、夢窓国師の弟子・文紹禅師が文和元年(1352)に開創と伝えられています。このことも沼津と国師の法縁を物語るものでしょう。『潮音寺明細取調牒』明治13年
大中寺はもともと真言宗でありましたが〔本尊は大聖不動明王〕、国師が愛鷹山中に足跡を記したことにより、禅宗と縁が結ばれたと考えられています。歴代の住職は昔からこの山居の地こそ、禅宗大中寺の故里であると信じてきました。しかしながら、この山居と大中寺がどのような関係であったかは、詳しくは解りません。ただ『駿河記』文政五年(1822)には、現大中寺が「この処より一里ばかり奥山に在し、夢窓国師の庵室を寺とせしなり」と記述されています。 ※興禅寺に現存の位牌には「當山開闢夢窓正覚心宗普済国師」と刻まれている。 夢窓国師の好んだ地相を備えた山居
国師は谷間に遠望がきき、背後に山を背負い、滝の流れ落ちる景勝地を好んで山居の地としました。その意味では、愛鷹山中の山居のあたりは、正に国師の好んだ地相の条件を満たし、今日なお国師の美意識に相応する清浄な雰囲気を湛えています。
没後650年をへだてた今、愛鷹山中に当時の山居の地を確定することは困難をきわめますが、現在は枯れ沢となっていても、遠く鎌倉時代には、雑木林におおわれていたであろうこの一帯は、約一キロほど下流にみられる伏流水のような豊かな山清水が音をたてて流れ下っていたものと思います。 今日でも大雨の後、山居に足を踏み入れれば、枯れ沢はあたかも一幅の名画のような雄大な清らかな流れに変わり、普段の景色からは想像ができないほどの水流を湛えます。さらに南に開けた方角に一筋に山を下れば中沢田に至り、駿河湾を隔てて同じく国師を開山とする多比の龍雲寺に繋がります。 片浜教育振興会の協力
平成十三年は国師没後650年にあたり、大中寺では遠忌の法要を勤めました。その記念に、この夢窓国師の顕彰碑の建立を計画したところ、顕彰碑は先に完成したものの、建てさせていただく土地が決まらず、年月だけが過ぎてしまいました。それというのも、当初希望した土地は三ヶ町の境界がいりくみ、所有者の確定が困難だったからです。残念なことに、地元金岡地区とは縁を結ぶことができませんでした。結局、現在地を管理する片浜教育振興会〔理事長 菅沼 孝 氏〕の心温まる協力をいただくことになりました。計画から実に五年を経て、顕彰碑の建立が実現しました。大中寺では、世々を経て顕彰碑の建立をお許しいただいた片浜という美しい名前とこのたびの温情を物語っていく所存でございます。京都、高山寺様式の笠塔婆の顕彰碑のために、清水承元寺の重松輝宗師が親しく筆を採ってくださり、新宿町の内村みな刀自が信心の施主となって下さいました。信心の真をもって刻んだ石工は小諏訪川口良文氏です。
※この文章を書くのにあたり、川瀬一馬著『夢窓国師禅と庭園』(講談社昭和42年発行)、高橋友道著『大中寺と沼津御用邸』(昭和51年発行)を、参考資料としました。
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