建立のいきさつ 第一章
夢窓国師について
 南禅寺・天龍寺・相国寺・恵林寺等そして大中寺の開山と仰がれる夢窓国師〔建治元年(1275)感応二年(1351)77歳〕は伊勢に誕生され、山梨に人となりました。はじめ天台・真言を学び、のち禅に帰依し、一山一寧・高峰顕日に就学されました。北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏等の帰依をうけて、七代の天皇より国師号を賜りました。
 国師は、円覚寺の仏光国師〔無学祖元〕の弟子である那須の雲巌寺の仏国国師〔高峰顕日〕の法を嗣がれ、鎌倉末期から室町初期を代表する仏教界の指導者となりました。また天龍寺・西方寺・瑞泉寺・恵林寺等に残る名園を築造しました。著書に『語録』『夢中問答集』『臨川寺家訓』などがあり、日本庭園史の上にも確かな足跡を残されています。
大中寺の夢窓国師の塔所(たっしょ)〔墓碑〕について
 現在、大中寺の塔所におまつりされている夢窓国師の墓碑は、不思議なことに明治初年に境内の北辺の丘にあった金迦羅松(こんがらまつ)、制多迦松(せいたかまつ)という二大巨松の根元よりはからずも発見されたという因縁をもっています。その経緯は先師高橋友道師の書かれた『大中寺と沼津御用邸』(131頁〜133頁)に詳しくかかれていますのでここに引用します。
 この住持(じゅうじ)世代(せだい)の塔所(たっしょ)は、のちに本堂西の墓地の西北隅に老松があり、その根元(ねもと)に移された。のち更に、大眉先師の代に現在のところに新たに区域を画定(かくてい)して、出現の開山塔を中心に住持世代と、それに近在の旧末塔頭(きゅうまつたっちゅう)の亡僧(もうそう)の塔をも、あわせてこれをまつった。
 この小高い丘には、世代塔所(せだいたっしょ)のほかに、古い檀家(だんか)の墓地もあったということだ。この丘には一番高いところ辺に、二本の金迦羅松(こんがらまつ)、制多迦松(せいたかまつ)と名付けた巨松があった。この金迦羅、制多迦は本尊不動明王の両脇侍童子(りょうわきどうじ)の名である。この二本の松は江戸時代、沢門(たくもん)和尚の大中寺二十四勝(しょう)の記(き)にも、あげられてある名木であったが、うち一本は、明治以前にすでになくなっていたようだ。残る一本はすこぶる大きなもので、周囲が五人でかかえる程もあり、枝葉(しよう)の勢いは今の諏訪部源作家の前庭を、おおっていたと、今は故人(こじん)の古老たちは語っていた。しかも東海道往来の道すがら、沢田(さわだ)の大中寺の松として、目印になったというから、巨松の面目が想像できよう。明治初年、故(ゆえ)あって、これを伐採するの止むなきに至った。時の住持はこれを痛惜して、地に伏して慟哭(どうこく)したということである。
 この巨松の根元、地下十尺のところから、はしなくも出現したのが開山国師の塔である。出土の次第は玄璋(げんしょう)和尚が丁寧に筆太の字で、これを一枚の和紙に書きとめてある。この塔は至って簡素なつくりで表面に、
『當寺開山特賜正覚心宗普斉玄猷佛灯國師夢窓禅師疎石大和尚』
とあって、「朱字歴歴(れきれき)読むべし」で、出土のときは刻字(こくじ)は朱であかくうずまっていたものだ。それが風雨およそ百年、わたくしの小僧時代はまだ、ところどころに朱がかなりはっきり見られたが、今はもう何も残っていない。古朴淡雅な書である。国師は前にもしるしたように七朝の帝師と仰(あお)がれて、南北七朝の朝廷(ちょうてい)から、国師の謚号(しごう)を賜(たま)わっておられる。その七番目の「大圓国師」の大円が、この塔には欠(か)けている。してみると仏統国師と大円国師の謚号(しごう)の中間の年代にでも、この塔がいとなまれたものだろうか。それにしても、大事な開山国師の塔がどうして松根の地下十尺のところに埋没していたものだろうか。いかに、寺門衰微(すいび)のときがあろうとも、まことにゆゆしき不思議のことといわねばならぬ。今はなきその巨松、祖塔出土の欝蜜(うつみつ)たる林下には、楞伽窟(りょうがくつ)宗演禅師の筆による大自然石の「夢窓塔」が、国師現前(げんぜん)するがごとく蔭をふかくして立っている。ちなみに、国師は京都嵯峨、渡月橋畔の臨川寺で示寂(じじゃく)され、寺内の三会院(さんねいん)に全身を奉じて埋葬されていることは知られるとおりである。
 ここでも触れられているように、私※も仏統国師と大円国師の賜号の中間の時代に大中寺の墓碑が営まれたと考えるのが妥当だと思います。ちなみに後花園帝の宝徳2年(1450)に仏統国師とおくりなされており、大円国師とおくりなされたのは、後土御門帝の文明元年(1469)のことです。この墓碑が大中寺と夢窓国師との因縁を伝える一番古い史料となっています。
 大中寺は、記録に残っているだけでも、江戸時代に二度の火災に見舞われている寺です。室町時代には幾多の戦乱に巻き込まれたことでしょう。そのため連綿と各時代の古文書がくまなく現存しているというわけではありませんので、650年間の寺史を詳細に叙述することはできません。残された数少ない古文書の中で、大中寺の開山は夢窓国師であるとの文言を見いだすことができるものとしては『大中寺庭園記』寛政八年(1796)、沢門和尚・桃壑(とうがく)和尚の共著があります。ところが、龍嶽和尚が寺社奉行に提出した慶安二年(1649)の文書には、開基は大義和尚と記されています。これらの二つの記録をどのように考えればよいのか一考を要するところですが、上記の墓碑の存在により十五世紀には、既に夢窓国師を開山とする伝承が大中寺に存在していたことを物語っていると思います。

※大中寺と同じく夢窓国師を開山と仰ぐ沼津・多比の龍雲寺の開山塔には「開山仏統国師大和尚」と刻まれている。
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