区 | 字名の起源 |
1区 | @小山(おやま) この地に男山、女山、子山の三山があり、各々神を合祀して三嶽神社を称し、御山(おんやま)と言っていたのが、小山(おやま)と呼ぶようになった。 |
2区 | @松下(まつした) 午頭天王社の上に松の大樹があり、通行する人や巡拝の人々の休んだ地でもあるので、松下と呼ばれるようになった。 A横代(よこじろ) 代(しろ)とは田を表す言葉であるので、松の下で一休みした人が田の中の道を見て、横に広い田という意味で呼ばれたのであろう。 B大井(おおい) 中央部に湧水地があり豊富な水があるので、大きい井戸として、大井と呼んでいる。 |
3区 | @御前帰(ごぜんがえり) この地の上に、中将岩の洞があり、三位中将がここで亡くなられたというので御台所(奥方)が、都より尋ねて来られたが、すでに死後であったので、二、三日逗留されて帰られたという。「御前様お帰り」と言われ、地名も御前帰と呼ぶようになったと伝えられる。 A小踊(こおどり) 中央部に自然にできた池があり、各種の鳥が生息しており、鵠(こうのとり)がいたので鵠の池と呼ばれたが、後に小踊になった。 B戸ヶ谷(とがや) 時代は不詳だが、頭の中将円江という方が、りっぱな御殿を建てた。そこを訪れる人たちが「殿がやつ」は何処だと人々に聞いた。「やつ」とは方言で、谷という意味なので、殿ヶ谷と書き、「とがや」といわれるようになった。 |
4区 | @天満(てんま) 現在鷲頭神社にある地に、大石があり神として祀っていたが、この石が年々大きくなるので、天満天神社を請勧しお祭りした。そこで、この地を天満と呼んでいる。 A多比口(たびぐち) ここより山越にて、海辺の多比口に出られる。昔は海と里の物の交換の道として大切であった。多比への入口という意味である。 B山口(やまぐち) 大平山(おおべらやま)の入口とも、山の神社への入口とも言われるが、いずれにしても山への入口という意味でつけられたものであろう。 C吉田(よしだ) 狩野川が流れ込んでいた頃芦(おし、よし)が繁茂しておりここを開拓したので「よしだ」と呼んだ。 |
5区 | @南蔵(なんぞう) 裏山に数個の穴がある。これは、富南城での必要物資を保管した倉庫であった。そこで南の蔵の意で南蔵と言われている。 A新城(しんじょう) 富南城のあった地で、新庄(新しい土地の意味)と呼ばれていたが、最後の城主新城新三郎の新城が、城名、地名になった。 B政戸(まさど) 富南城の裏になり、城を攻める地、反対側より守る地という意味である。また、ローム層が露出していたので、「マサエ」と呼ばれたとも言われる。 |
6・7区 | @三分一(さんぶいち) 狩野川の流れ込んでいる頃は、周囲は沼沢であったので向ヶ原と呼ばれていた。田畑が開発されても増水による被害が多いので、収穫の三分の一を免租されていたので、この地を三分一と呼んでいる。 |
8区 | @月ヶ洞(つきがほら) 甲州よりの浪人四名が、故郷を偲んで、月見の宴を開いた地といわれている。 |
9区 | @池田(いけだ) 吉田と同様、沼沢地で池があった土地である。 |
10区 | @大久保(おおくぼ) 梨の木元永の地震(585年前)のとき、落ち込み大窪と呼んでおり、大久保となった。 |
11区 | @沓形(くつがた) 古代宮殿、仏殿など屋根の棟の両端につけた形の沓形に似ているので、つけられたのであろう。 |