1.三分一の地名について 大平は昔より、狩野川の増水毎に出水、洪水に悩まされてきたので、家はほとんど山の根に作られていた。狩野川の流れによって、中央部に砂州ができ、耕地に適するようになったので、「向島(むこうじま)」と呼び、ここに通って農業を営むようになった。やがて、この地にも住居を構え、農家として生活すようになった。 しかし、洪水になると浸水し、収穫が皆無になり、代官所に再三免租を願い出ることが多かった。代官所でも検見の上、「この地は、収穫の三分の一を差し置く……。」要するに、収穫の三分の一は、租免するということである。また、 「洪水、出水に対しては、神仏の加護より他になり、神仏を大切にし、良く祈願せよ。」との達しがあった。 その後、多くの家も建ち、出水の心配も少なくなり、大平の中心地として発展してきた。その該当地を「三分の一」と呼び、部落名として現在も残されている。 |
道祖神 |
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2.三分一「御霊の木」と「月野木明神」 富南城に北条右衛門太夫という、立派な城主がいた。応安の頃(六百三十年程前)病没され、その息子、又右衛門太夫も間もなく没せられたので、村人たちが手厚く葬った。 文亀の頃(約五百年前)になり、この付近の住人に、疫病が流行した。これは、北条右衛門太夫が、鎌倉よりこの地に流され、不本意のうちに、死んだことに原因ありといわれ、改めて「御霊の宮」として祭り、年三回の祭典を行ってきた。この宮に、榎木を植えたところ大木になったので、「御霊の木」として大切にしていた。ところが、周りの畑を持った農家の人々は、日陰になり作物ができなくなったので、伐採をしたところ、木が朽ちると、夜光を放ち始めた。人々は驚くと共に、伐採をした人たちや家族が思い病気になった。それをみて、付近の人たちが相談して、新たにお宮を建立し、「月夜木大明神」としてお祭りした。後、「御霊の木」は『御陵の木』として地名が残り、「月夜木社」は、『月野木大明神』として、盛大に祭られた。現在は、その後もつまびらかではない。 |
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平素の天王社 | 道祖神 | |
3.三分一 天王社 東三分一公民館の前に祭られており、牛頭天王をお祭りしている。天明の頃(約二百十年ほど前)この地に疫病がはやって、数多くの人たちが病魔に犯され死亡した。人々は神仏に頼るしかなく、各所に祈願に回っていた。 村人たちは、韮山の北条に祭られている牛頭天王は、京都の祇園社の分社と聞き、文祀してこの地に祭った。七月十三日を本祭りとし、大平全域の人が参拝していた。なお、夏神といって、一週間前に(七月七日)に祭壇を設けてお祭りし、当番がお灯りを供え、九月の風祭りが終わると本殿にお帰りになる習慣となっている。 また、南側の原家には、屋敷神として、牛頭天王を中心に、稲荷社、左口社が祭られている。牛頭天王は、もと御前帰の丸山に祭られていたが、元和の頃(三百七十年前)強風で棟札が当地に舞い降りたので、この地に祭り、丸山天王社といわれている。左口神は通称「オシャモジサン」といわれ、あせも・できもの等の神として信仰されてきた。 |
4.三分一 原一統 三分一に原姓を名のている家が数多くある。これは古い歴史を語っている。 天正十一年(約四百年前)武田氏が戦いに敗れ、甲州勢は各地に分散した。これを「甲州騒動」といわれている。 この当時、桃源院七世の住僧は、甲州原加賀守の弟、原美濃守であり、故あって、この寺に入り嘯室宗和尚と称していた。寄って、武田騒動の際、際、原加賀の守氏族四名がこの寺を頼って、逃れてきた。四名は、暫くの間、寺内に隠れて生活していたが、やがて寺中に仮家を建てて、田畑を耕して農民の生活をしていた。七・八年経った頃三名のものは、向島(今の三分一)に土地を求めて移住し、南の大家、中の大家、北の大家と称していた。一命は和尚との関係が深かったものか、寺中に残り、この地に住した。その後原一統は、全盛を極めていた。長い間に世も移り変わり、その一部の家々は後を残すのみとなったがそのほかの子孫は、現在も栄えている。 |
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住吉社 | 阿波嶋大明神 | |
5.三分一 阿波嶋大明神 正八幡社が、主に武士出身の人たちが祭り、住吉社を農民の人たちが祭ったころ、婦人の神として祭られたのが、阿波嶋社であると、伝えられている。昔は、三月三日(ひな祭りの日)が大祭とされ、大平中のご婦人が集り盛大な祭礼が行われていたが、やがて、各地区ごとに、月一回みんなで集まりを唱え、後は相談事や、雑談で一夜を楽しく送ったようである。 その後、婦人常会または婦人会の集会として、変わってきてはいるが、今でも地区ごとに、月一回の婦人の集りをもっているところがある。 御神体の「初花姫」とは、天照大神の第六番目の妹君とされ、理由あって、淡島より舟にて、紀州に流されたと言われている。紀州の加太大明神が本社であり、各地に淡島神社または、阿波嶋神社として祭られており、婦人の神として信仰が厚い。 この由緒をお年寄りの方々が、ご詠歌として伝えているの、別に記しておく。 ・阿波嶋大明神ご詠歌 *『紀州草薙阿波嶋大明神、我頼む、人の歩み救い救い給わば、 世の阿波嶋を神と祭る可し。』 帰命頂礼、伊勢の国、伊勢大神宮の妹に、 初花姫と申せしは、十三歳の明けの春 三月桜の花盛り、女の役目を初召して 社を汚したその罪で、 空ろの舟に乗せられて、紀州名草に流される。 紀州名草の中郷で、阿波嶋さまと申すなり、 阿波嶋さまの申すには、どんな病のお方でも、 治してやるとおん誓願、 南無大師へんじょうそん、南無大師へんじょうそん。 *今日は花、明日は月かな熱田川、変わる我が身を知らぬ、おろかさ。 |
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阿弥陀堂後に残る石碑 | 阿弥陀堂跡 | |
6.阿弥陀堂跡 昔(一四三六年頃)この付近に疫病が流行し、多くの人々が死亡したことがある。付近の人たちは、神仏に祈願する以外方法が無いので、石雲庵(現在の龍音寺)に祭られていた阿弥陀堂に集り、百万遍念仏会を行った。しかし、三分一付近の疫病は、少なくなったが、なおりきれない人が多かったので、この地にも念仏堂を建て、祈願したいというみんなの念願でこの場所(現在の保育所の隣地)に翌年建立された。 そして、盛大に百万遍念仏をが行われ、その祈願の効あって、翌年になりやっと疫病も治まったと伝えられている。現在その地に、当時を物語る数個の石碑が、隅の方に残されている。 明治六年、この跡地に、大平・日守・徳倉組合立の小学校「大平舎」が建てられ、藁葺き屋根で、畳敷きの後者ではあるが、八十数名の小学生が集り、大平での小学校教育の発足地のでもある。 |
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神社拝殿 | 境内の立てられた忠魂碑 | |
7.正八幡宮 |