1.南蔵 南蔵藪と稲荷・山の神社
 通称「南蔵藪」とは、昔この地に住していた豪族の屋敷跡であり、その上に数個の穴がある。猪落し(シシオトシ)と、言われていたが、大平小学校の訓導であった後藤守一先生が、不思議に思い調査し、「これは往時城の食料などを貯蔵した蔵なので、城の南の蔵、即ち南蔵と呼ばれた。」と発表された。これを機に考古学に興味をもたれ、後に国立図書館長をはじめ世界的な考古学者になられた。
 また、山の神社と稲荷社が、並んで祭られている。元文四年(二百五十年前)南蔵三左衛門の娘さんが、奇病にかかり種々様々なことを口ばしっていたので、法仙という祈祷師に見てもらったところ、「私は昔この地に祭られていた狐だが、仔細あって社を山の神にお貸しして諸国修業に出たが、帰ってきても住むところが無くて困っている。社を建てて祭ってくれれば、この地を守る」とのことである。そこで早速、山の神社の隣に祭った。当時は遠くよりたくさんな参詣者があったと言われている。
※「南蔵きつね」という昔話がある。
祈祷所「南蔵坊」跡にある道祖神 吉田地区 昔話を伝える稲荷社と山の神社
2.富南城(新城)
 大平は伊豆と駿河の境になるので、伊豆領になったり、駿河領になったりしたこともある。一時は、真ん中より分けられた時代もあった。文治の頃(約八百年前)北条四郎時政が、伊豆の北の守りとして、関を築いたが、後小城とし、城の守り神として、浅間神社を祭った。富士山の南に祭ったので、「富南城」と名づけた。その後、城主がいない頃もあったが、天正の頃(約四百年位前)新城新三郎が、城主となって整備したが、小田原城が破れ、北条氏が滅びてしまったので、この城も解散してしまった。この城を守っていた武士たちは、政戸に居をかまえていたが、城の崩壊と共に城のものを整理し、土地を求めて、この地に住まいした。そして、農業を営み現在も子孫が残っている。
 富南城は、現在の政戸の上にあり、からほりの跡も残されている。その後段々と整備されたものと思われる。新城三郎が城主になり、その下(寺の墓地付近)までを城としたので、新城と呼ばれるようになったものと思われる。
←浅間神社の鳥居
3.新城 妙向山 円教寺
 大平唯一の日蓮宗の寺である。寺の裏山の地に、古くより七面堂があり、多くの人々が参詣していた。慶長年間、徳川家康の側室「養珠院お万の方」が、熱心な日蓮宗信者だったので、この堂に参詣し、徳川の武運を祈願したと伝えられて、寺にお万の方が使われたと言われる漆塗りの椀が一重ね(四個で一重ねになる)残されている。
 元和三年(約三百七十年前)沼津城主大久保家の浪人七名が大平に居住していた。先祖の墓地が遠いので、日蓮宗ゆかりの七面堂下のこの地に墓を移し、草庵を結び墓守を置いた。その後、四・五年たって、玉沢二十世円如院日敍上人が、浪人たちの申し出と、七面堂の由緒を聞き、城址の地に庵を建立し、庵を如向庵と称したと言われている。また、この庵に住した円教坊と浪人たちの請願により、一寺を建立して、妙向山円教寺となって、現在に及んでいる。
 本尊には、釈迦牟尼佛を中心として、多宝如来、日蓮大上人が安置されている。
円教寺山門 円教寺本堂
←お万の方が使用されたお椀

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