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    立教185年(令和4年)2月18日発行 第320号
    春季大祭神殿講話
    「教祖を「誠」として通る」
    「大教会創立130周年記念祭に向かって」

春季大祭神殿講話
「教祖を「誠」として通る」
「大教会創立130周年記念祭に向かって」

令和4年1月18日
静岡大教会長 松浦一郎

 新春を迎え、春季大祭の意義を思案しながら、本年、静岡大教会が130周年を迎えさせて頂く上で大切な点をお話させて頂きます。
 天理教は陽気ぐらしを目的としています。そのためには、まず、教祖を「誠」と信じることであります。
 天理教を信仰し、たすかるためには、教祖の仰せられたことを全て誠のことであると納得し、実践することであります。
 誠については、おかきさげで、
「誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取り直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。」
と仰せられているように、御守護頂戴するためには、必要不可欠なことなのです。
 教祖のお立場は、天保9年10月26日、教祖御年41歳の時、親神様が体内へ入り込まれ、月日の社となられ、明治20年1月26日、定命を25年お縮めになられ、90歳にて現身をお隠しになられる迄の50年間、私達人間をお導く下され、50年のひながたをお残し下さいました。
 ここで大切なことは、教祖の仰せられるお言葉や、行いは親神様そのもであり、その50年の長きに渡って通られた道こそ、人間のために親神様が教えて下された誠真実の通り方であると信じて、信仰させて頂かなければならないのです。
 すなわち、万人がたすかり、陽気ぐらしをするためのひながたであります。
 そこで、教祖を「誠」と信じ、教祖のように自らも心と行いが一致しなければならないのです。
 常に自分が心の中で何を考えているのか考え、教祖の仰せられている心に照らし合わせて反省し、実践していくことが大切であります。
 おかきさげでは、
「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。」
と仰せれれておりますが、自分のことを教祖のような誠の人と思う方はいないと思いますが、成程の人とは、人から見て誠の人と言われるようになることであり、親神様も自由自在の御守護を下さるのです。
 また、教祖は、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』123 人がめどか)
と仰せられていますが、難しいことを考えるのではなく、この三つを心に納めて通れば、誠の心に近づくでしょう。
 只今は、静岡大教会の130周年まで5ヵ月となりましたが、この一手一つの活動として、
 一、おつとめ(日々目的意識をもって勤める。お手振り、
 鳴物の習得)
 一、おたすけ(身近な人に寄り添い、信仰の喜びや、
 大切さを伝える。おさづけの取次)
 一、御 供(月次祭の御供とは別に、旬の種蒔きとして、
 1月から6月まで)
を掲げさせて頂いておりますが、この旬に少しでも教祖のお心に少しでも近づくよう、ひながたの道を思案して通ることが大切であります。
 おつとめについて、教祖は、
「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」(『稿本天理教教祖伝』95頁)
と仰せられ、十全の守護の理合いから、身体の働きや、よろづ一切のお働きを御守護下さるため、一言ひとことの意味合いも考えて、お手振りをしなければならないのです。また、
「つとめに、手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜しくない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」(『稿本天理教教祖伝』95頁)
と仰せられております。
 おつとめは、音感が必要あり、ある程度の体力と運動神経が必要あります。若い方は、上手に勤めることはできると思いますが、やる気がなく、だらだらしながら勤めては、親神様はお受け取りになりません。
 さらにまた、
「稽古出来ていなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』54 心で弾け)
と仰せられており、まだ練習不足であったり、身上や高齢で思うように勤められなくても、心で真剣に勤めれば神様には受け取って頂けるのです。
 おたすけについては、
  わかるよふむねのうちよりしやんせよ 
  人たすけたらわがみたすかる(おふでさき 第3号47)
と仰せられるように、たすける心は誠であり、自らもたすけて頂けるのです。
 また、
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』100 人を救けるのやで)
と仰せられ、教理を話さなければならないと難しく考えるのではなく、自分の体験や、日頃からたすかっていると感じていることをお話すればよいのです。
 さらには、旬のおつくしは、
「旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん」(おさしづ 明治22年7月31日)
と仰せられており、旬を逃さず、しっかり尽くし運ばせて頂きたいと思います。
 本教では、教祖を「誠」として通らせて頂くものとして、年祭活動があります。本年10月26日の秋季大祭には、真柱様より諭達第四号が御発布され、令和8年1月26日迄、教祖140年祭に向かっての三年千日活動が打ち出されます。
 教祖年祭の三年千日活動については、
「五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。」(おさしづ 明治22年11月7日)
「成らん事情を無理に通れ。長く事情やない。さあ/\まあ一寸今という今、もうこれ譬え一つの理を諭して、もうこれ三年々々という理を諭し掛けたら、どういう事であろう。三年の理を待ち兼ねる/\。」(おさしづ 明治22年11月9日)
と仰せられています。天理教の信仰は、
 六ッ むりにどうせといはんでな
    そこはめい/\のむねしだい
          (みかぐらうた 七下り目)
 六ッ むりにでやうといふでない
    こゝろさだめのつくまでハ
          (みかぐらうた 九下り目)
 六ッ むりにこいとハいはんでな
    いづれだん/\つきくるで
          (みかぐらうた 十二下り目)
とありますように、決して無理にとは仰せられていませんが、この三年千日だけは、唯一、無理に通れと仰せられています。それだけ、年祭活動は大事なのであります。
 以上、どのような中でも、教祖を「誠」と信じ切り、ひながたの道を思案して通らせて頂きましょう。