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    立教183年(令和2年)3月18日発行 第314号
    大教会春季大祭
    本部員井筒梅夫先生 祭典講話要旨

大教会春季大祭
本部員井筒梅夫先生
祭典講話要旨

令和2年1月18日

 今回のお話では、教祖140年祭三年千日活動が始まるまで、あと3年であるが、それまでの心の成人についてお話があった。
 成人とは、親の思いに近づくことであり、親神様、教祖の思いに近づき、お心に添うことである。毎日、親神様の御恩の中で生きており、大勢の人達にたすけられて生きている事を忘れてはならない。
 人は、親を失って初めて、親や、人の有難さに気付く。また、おぎゃーと母の乳を吸う。親にすがることから人生が始まる。学校では教師の指導のもと、生徒達が互いたすけ合う事を学ぶ。
 井筒先生は、小学校から高校までラグビーをされていて、いつも、「ワン・フォー・オール、オール・フォー、ワン」つまり、「一人は皆のため、皆は一人のため」という言葉を胸にプレーしてきたとのことである。
 夫婦、親子のいんねんがあり家族の絆が生まれ、外では友人、知人など、大勢の人の恩を受けている。それは全て、親神様の御恩によるものであり、十全の守護で生かされている。
 人は、いざなぎの命、いざなみの命の御守護で生まれ、をふとのべの命の御守護で胎内から引き出され成長し、月よみの命、くにさづちの命の御守護で骨や皮ができて、くもよみの命、かしこねの命の御守護で母乳から固い物を食べられるようになり、肺活量もしっかりしてくる。たいしゅくてんの命の御守護で免疫力がつき、危ないものから身を護って頂ける。さらには、くにとこたちの命とをもたりの命の御守護で、潤いと温みを与えられ成長する。
 つまり、親神様の御守護と周りの人からの支えを忘れず御恩報じに通る事が大切である。
 また、我が身勝手な心は身上事情となり、悪いんねんとならないよう、日々心を省みて、おつとめ、おたすけ、ひのきしんによって埃を払う。埃が払われ心が澄んでくると、親神様に受けとっていただけるようになり、ご守護を頂戴できるようになり、大難は小難に、小難は無難に導かれ、有難さから、どんな事でも、喜んでさせて頂きたくなる。
 明治22年11月7日のおさしづに、「ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。」と仰せられており、教祖のひながたを手本に教祖148年祭に向けての成人をさせて頂きたい。
 例えば、天理教教祖伝逸話篇160「柿選び」では、教祖は、一番悪い柿を選び、その残りを下された。子供達には良い物を食べさせたいという親心からである。
 井筒先生は、現代の食品ロス問題に対して、すぐ食べる物は、賞味期限が迫っている物から買うようにしているとの事である。
また、天理教教祖伝逸話篇165「高う買うて」では、商人は他よりも高く仕入れて問屋を喜ばせ、安く売って顧客を喜ばせ、自分は薄口銭に満足するのが、結果的には長く商売が続けられる事をお諭下されている。
 芦津大教会初代、井筒梅次郎先生は、足袋屋にこの話を諭したところ、この教えを実践する中、今のコハゼを作り、商売は繁盛した。
 名古屋のスジャータめいらくグループ創業者の日比孝吉氏は、愛町分教会に繋がる信仰者であるが、昔牛乳は瓶に入れていたため、割れやすく重くかさばり、長く保存できなかったが、殺菌技術と紙パック使用により長期保存が可能なロングライフ牛乳を開発した。しかし、その紙パックを上等な高いものにすればコストがかさむため、安くしていいか本部の神殿おたすけで相談したところ、高い方がいいに決まっていると言われ、高い紙パックにしたところ、丈夫で破れる事もなく消費者に喜ばれ会社が成長した。
 信仰とは、難しいことが起きた時、教えを自分に都合よく合わせるのではなく、苦労の道であっても教えに合わすことが、結果的には結構になるのである。
 教祖は、どんな苦労も喜びに変えて通られ、たんのうできれば、ひながたの大半は通れていると言える。貧のどん底でも、こかん様に、「水を飲めば水の味がする」というお諭をされている。また、「たんのは前生いんねんのさんげ」とも諭される。
 井筒先生は、ある嫁と姑の問題で、嫁の心がわからず不足していたところ、前生の親不孝を諭したところ、毎日親神様、教祖にお詫び申し上げていたところ、嫁との関係が良くなったとのことである。
 御恩報じの中で、つくし、はこびについては、明治24年11月28日のおさしづに、「尽せば尽す理がある。運べば運ぶ理がある。」と仰せらているが、心を尽くし、身をもって運ぶことである。
 その中に、金銭を打ってのつくし、はこびもあるが、くにさづちの命の金銭縁談よろづ繋ぎの守護が頂戴できる。家族の絆、友人、知人などの人間関係や、仕事が続けられる御守護が頂けることと、一番は命の繋ぎである。
 天理教教祖伝逸話篇178「身上がもとや」で教祖は、「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出してやりますやろ。悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょうど、焼け死ぬのもいとわず、金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで。よう聞き分けよ。」とお諭下されている。
 つまり、御守護頂くには心定めなどするが、金銭は命の次に大事であるから、一番手っ取り早いのである。
 また、よふぼくの日々の勤め方には、明治26年4月29日のおさしづに、「危ない事、かすかな理でたすかるは日々の理という。」と言われ、日参、ひのきしん、おつくしをさせて頂く事が大事である。
 これから教祖140年祭まで、いろいろと身上事情を見せられると思うが、たすけたい、成人させてやりたいという親心と悟り、教祖が手を引いて下されているという事を忘れず、勇んで通ってほしいと結ばれた。