静眞都分教会創立60周年記念祭執行
真夏日の熱い日和であったが、会長が60年に至る道すがらを祭文で奏上し、今日ある姿を御礼申し上げ、続いて十二下りのてをどりを陽気に勤て後、大教会長様のご挨拶を戴いた。その後記念撮影を撮り、直会へと移った。
昭和26年、静陵分教会長の職を、娘婿に譲り、静岡分教会に入り込んでいた清水栄太郎を後任教会長として、移転、改称のお運びに移る。栄太郎会長は、静岡分教会入込み役員という立場上、四六時中静眞都の教会に滞在することはかなわず、会長不在の中にあって、熱心に教会の御用を勤めてくれていた山本みつが、昭和36年6月、身上から出直すという節から、家人の信仰に対する反対もあり、お目標様を上級、静岡分教会にお預けするという節を与えられた。昭和39年、静岡大教会役員、同理事という重責を担い、日夜、理の御用の上に勤めていた栄太郎会長は、清水市内の部内教会巡教の帰途、自動車事故に遭い、4月5日、享年68歳で出直という大節と立て合い、ここに教会復興の夢は解決のメドを失い、歳月のみが流れすぎて行った。
昭和45年1月、静岡市新間に土地、建物をお与え頂き、眞陵布教所を新間に移転させて頂いた。昭和46年、教祖90年祭の活動の一つとして事情教会の整理が打ち出され、静岡大教会も昭和47年に勤められる創立80周年記念祭迄にというお打ち出しをいただいた。静眞都分教会も、静陵分教会部属眞陵布教所長、清水一徳を担任者として、任命、移転へと移って行く。昭和47年9月19日、大教会の創立80周年記念祭が執行された。そして、同年10月26日、静眞都の移転、任命のお許しを戴き、そして、年が明けた1月6日、任命、移転奉告祭が勤められた。
月日が流れて、平成の時代に入った平成11年11月、後継者、徳継も結婚し、神殿、教職舎も手狭になってきて、普請の話もぼつぼつ出てくるようになった。この頃に第2東名道路建設の話も進捗して来たとき、信者さんから「第2東名の建設予定地にかかる山林の木材を教会で欲しければ、公団にかけあって貰ってやるが」とのおもいがけない話があった。相談のうえで、お願いすることになり、「切り出しは、そちらでやってください。」とのことで、信者、山下さんにおねがいして、仲間のキコリ5人に話をつけて貰った。それに、繁田氏、戸井氏も加わり、計7人で2日間で切り出し、索道を張り、山裾まで運びおろすことが出来た。材木はおよそ百石あり、金谷の製材所に運び、普請の用材にしていただいた。
平成12年2月26日、神殿改築の事情運びに出て、お許しを頂く。同年3月地鎮祭の準備中にクレームが入り、普請は一時とん挫する。土地探しが始まる。1年をかけて新間地内を捜しまわり、十数カ所をたずねたが、どの土地も帯に短し、たすきに長しであった。困った時は神様にお願いするほかにないと、神様にお喜び戴くにはどうしたら良いか。と談じあいを重ね、毎日の十二下りのお手振りと、にをいがけよりほかにないと、この時12月も月末であったが、新間の村はずれから、会長夫婦と徳継の3人で歩いてきた。寒い日であり、道端で年寄りが2人焚火にあたっていたので声をかけた。「この辺に、空いている土地はないかね。」すると、「一色で日当たりがよく、水はけのよい場所は一色の入り口にあるゲートボール場の横の空き地だよ」と教えてくれた。そこで、地主さんを聞いて帰って来た。地主さんは、町で犬猫病院をやっておる、鈴木さんということが判り、大教会の前奥様の知り合いということもって、逢うことができた。110坪ある土地全部一活でならということだが、教会にはまとなった金もなく、あきらめるより仕方がなかった。そんな時、役員が言うのに「教会で困って居るなら、その土地を家で買って、教会に貸してやったら。」と奥さんが言っているとのこと。教会としてもどれほど有難いことか。早速お願いして購入してくださり、貸して下さることになった。其の後、工事の進捗して、平成13年3月26日、再度事情運びに出て、静眞都分教会の神殿建築、移転のお運びのお許しを戴くことが出来た。工事も捗り、8月には竣工し、10月21日に、神殿落成、移転奉告祭が盛大に執行された。その時から早、10年の歳月が流れすぎ、平成13年8月7日、月次祭に合わせて、静眞都分教会創立60周年記念祭を勤め終えることができた。