静岡大教会春季大祭神殿講話(要旨)
世話人 諸井慶一郎先生
(本部員、山名大教会長)
平成18年1月18日
祭典講話をされる諸井慶一郎先生
(平成18年1月18日)
最初に、三年千日の道中には、特に静岡大教会においては神殿普請という大普請があったが、その結果、自分自身何か変わったのか、変わっていないのかは、それぞれが思案するところであると思う。とにかく、この度年祭の日を迎えるわけであるので、この一年は、真柱様が仰せられるように、おぢばを賑やかにさせて頂けるように務めたい、とお言葉があった。 続いて年祭の意義としてのお話があり、明治20年の12月25日から、教祖が現身をお隠しになられた1月26日までの31日間は、教祖の御身上のご平癒を願って毎日つとめが行われた。警察が来るかもしれない中で、神様のおせき込みのままにつとめられたのである。しかし、人間の思いとは違い、教祖は結果的には現身をお隠しになられたのである。この訳は、子供可愛い故、親の定命を25年縮めて、世界だすけに出られたからである。
この点については、誰もがよく理解するところであるが、さらに、深い意味合いのお話があった。
身をお隠しになった点については、元始まりのお話において、人間の母親なる魂を持ついざなみの命が、人間を九億九万九千九百九十九人三度産みおろして、「にっこり」笑って出直しになられた点との共通点についてであった。
教祖は御在世当時、よく「にっこり」されたのは、おそばの人に何かお話になる時や、警察に出かけられる時であったという事である。また、何かを下さる時は、「にんまり」されたという事である。特に、教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎氏の思い出の中で、教祖がお菓子を下さる時、本当に溢れんばかりの微笑みで、「にんまり」されたという事である。
今回のお話の締め括りとして、この教祖の「にっこり」と「にんまり」こそが、陽気ぐらしの陽気であり、本年は特に、「にっこり」と「にんまり」で通らせて頂く事により、人に対する感化力を養わせて頂き、徳のついた人になる道ではないかという事であった。