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社名の由来 ・ 七軒町について
古の人伝えに聞くには「この町には『満徳会』と称する会があり、その会は紛れもなく地元にある満徳寺を指すものでその本堂正面拝殿には龍の彫刻がある。恐らく、その龍を社名としたのではないか?」また「三仭坊の本堂の天井に龍が描かれている。」・・・という説もある。
「騰」は天空を駆け登る様子を表していて、龍の勢いと勇ましさを社名として、町衆の意気込みを感ずるものである。旧豊田郡中泉村は市場村と称し、地方物資の集散地で、すでに建武年間(1334〜1336)の文書に中泉郷とあり、江戸期には幕府領の中泉村は西町、東町、七軒町、西新町に区分された。
府八幡宮社領の久保村は奥久保、田町、石原に区分され、江戸時代後期から明治五年までは「久保若」「西若」「東若」の三若連にて山車が曳き廻されていた。
旧東海道筋から東へ山名郡二之宮村へ通ずる街道が七軒町であった。明治22年の町村制により豊田郡中泉村と山名郡二之宮村が合併して豊田郡中泉町となり、その後、同29年の郡制により磐田郡、豊田郡、山名郡の三郡は磐田郡に統一された。 昭和15年見付町、西貝村、天竜村、中泉町の二町二村が合併して磐田町となった。そして戦後昭和23年四月「磐田市」として市政施行が行われた。
現在は磐田駅周辺区画整理事業が進められ、七軒町の町並みの様相も随分と変わった。平成17年3月に向けて、国の合併特例法に従い、一市三町一村を軸とした合併が進められている。
さて、龍の彫刻を有する満徳寺とその彫師について紹介してみよう。
浄土真宗東本願寺末光恩山満徳寺は開基永録7年(1564)で教祐上人が三河の国より遠江に来て、この中泉の地に満徳寺を建立した。
本堂は元禄二年と明治27年の火災により二度の焼失を経て、現在の本堂は昭和6年4月3日に上棟式が行われて落成した。また本堂北側の経蔵は享和3年(1803)建立されたが明治27年の火災では難を逃れたものの納められていた経典は虫干しのため蔵外にあり焼失してしまった。蔵内部格天井の草花紋の飾り絵は時代と共に褪せているものの往時を偲ばせている。
また、中泉代官・林鶴梁の母堂の墓があることでも知られる。本堂彫刻は欄間を除き総て早瀬利三郎によるもので、早瀬利三郎は明治30年名古屋に生まれ、伊藤松次郎(彫松)に師事、その後掛川市肴町より仕事の依頼があり、そのまま掛川に在住、そこで仕事場を持った。昭和12年浜松市へ移転、多くの弟子を持ち、手掛けた彫刻も数多く、豪快なノミさばきで迫力ある作風である。
号は「朝雲」昭和42年3月14日没。享年69歳。現在はご子息の早瀬 宏氏が二代目「朝雲」を継承し、父親の厳しい指導の下で磨いた腕を奮い、数々の彫刻を生み出している。
本堂拝殿上紅梁の龍の彫刻裏側、尾の部分には作者の刻銘がある。
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満徳寺の龍
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大正14年5月5日、7日の話し合いに於いて、5月10日に銀婚式祝賀余興・仮装行列を執り行うことになった。注目すべきは、二之宮が参加していることだ。詳細は定かではないが、そのことが年番記録に記載されていることが興味深い。
大正十四年五月五日
五月十日の銀婚式奉祝に付臨時各町集会を開催すべく通牒を発す
午後七時より鳥伊三本店にて開催す 奉祝の催に就いて議したるに五対二にて否決さる 奥久保は遅刻したる為め批決に加わらず
しかし各町の若者の意向を問うたる上にて確定する事とし七日再集会を約して午後十一時解散す
五月七日
午後八時より鳥伊三本店に於いて臨時各町集会を開催す
西新町は欠席す 各町の若者の意見は催す事に賛成五、反対二なるを以て奉祝余興を催す事に決す 但し
(二之宮を参加する事に決す)
行列順番を抽籤にて定む
東組 一・七軒町 二・東新町 三・二之宮
四・東町 五・西 町
西組 一・奥久保 二・西新町 三・田町
四・栄町 五・石原
この頃、電話を引いていたお宅は何軒位あっただろうか?
左下の写真のように道路も舗装されてない状態でぬかるんだ道の山車曳き廻しには相当苦労したことだろう。
大正十五年五月十二日
東町四つ角の電話線控線低き為毎年山車通過に際し困難なるに付右控線を高くし各町山車通行に便ならしめんと発議し五月十二日各町に対し賛成を得て其の筋へ手続き成し九月下旬支線変更工事出来上がり以前より数天高くなり是の費用八圓七十三銭の少額にて完成す
九月 一日
午後七時より中活亭楼上に於いて各町集会を開催す 別紙綴込の八朔集会決議事項の通り決議す
但し石原より一日山車行動に就いて石原小路通過を軌道を通り坂ノ上西新町に出る様に西組山車巡回行路変更の軒に付同会議に提議ありたることを付記す
十月 一日
晴天 各町集会決議事項通り無事終了
但し各町順番左の如し
(抽籤の上)
一番・七軒町/二番・石原/三番・中町
四番・東町/五番・栄町/六番・坂ノ上
七番・田町/八番・奥久保/九番・西町
/十番・西新町
各町世話係名簿及各町名刺を配布す
一日の山車八幡宮参列順番は東組は鳥居前より北大通りに南面し西組は招魂碑前に
東組/七軒町・中町・東町・栄町・西町
西組/石原・坂ノ上・田町・奥久保・西新町
と各町協議の上定む
二日
晴天 各町集会決議の通り無事終了
但し神輿渡御八幡宮出発時刻は午後四時半頃
三日
午前六時半御神前に於いて御神酒を賜り無事終了解散す
以上
「東新町」は 中 町 ?
大正15年度年番記録の東町四つ角の電話線と記されている場所は現在のアース薬局の交差点のことであろうか。
この年、中町はそれまで「東新町」(ひがししんまち)と呼ばれていた町名を現在の「中町」と改名した。東町の隣に発展していった町であることが伺える。それに対して「七軒町」は東町の街並みから少し離れた所に七軒の家が建っていたから、そう呼ばれるようになったのか?
その当時の町の様子を想像してみるのも面白い。今、この辺りは区画整理事業の真っ只中、新しい町に生まれ変わろうとしている。町中から電線がなくなるのも、そんなに遠くないだろう。
*年番記録・本文のひらがなの部分は、原文にはカタカナで書かれていましたが、読みにくいため、換えてあります。
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初心者のための
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中泉府八幡宮の祭典余興は氏子町内17町のうち本町を除いた16の町内で行われます。
祭の時の連(組織)の名前は山車一覧表の通り。同日、京見塚の白山神社、二之宮の鹿苑神社の祭典も行われます。
山車引廻しの余興は合同組織を作り一緒にやりたいという声も出ていますが、なかなか実現しません。
山車には組織名しか表示されていない場合が多く、どの山車がどの町内か地元以外の人にはわかりにくくなっています。別表を見ながら照らし合わせてください。
山車が二輪か四輪か、漆が塗ってあるかないか、人形があるかないか等よーく観察をしてください。
見所は彫刻や幕の刺繍など芸術品クラスもあります。又、お囃子は横須賀囃子ですが、カンカン太鼓の横須賀三社系統とゆったりとしたドンドン太鼓の森町系統がありますので、聴き比べてください。
別表<祭典組織>
各町粋なデザインの法被ですが、袖口を見ていただくと白と赤と黄色の線が入った人がいます。白い線が「世話係」で祭典余興の中心となる青年たちです。赤が「中老」、黄色が「大老」と年齢で区別されます。
世話係は、山車の運行など祭余興のすべてを任されています。それだけに責任も大きく、役割もたくさんあります。
世話係のその年の責任者は大体32歳の者がなり、総務と呼ばれます。16町の山車の運行をどうするか、これを決めるのが外交という重要な役割で、また花形でもあります。
その会議を外交集会と呼び、最初の集会は毎年9月1日に行われ、これを八朔集会と言います。山車の運行コースは固定されておらず、外交集会で決定されます。しかし決定までには相当の時間とエネルギーが費やされます。各町ともできるかぎり「いい祭」をやりたいと意見がぶつかりあうからです。
それを調整し祭典余興のすべてを仕切るのが「年番」で各町が順番でこの当番にあたります。今年は七軒町・騰龍社です。年番順は昔から定められていて別表の通りです。
年番・外交は赤い提灯を持ちます。各町外交は、青地の外交提灯を持っています。山車の回りで忙しく走ったり打合せをしているのが外交(2名、年番は3名)です。
山車の団体行動は時間と停車場所はきちっと決められていますので、これに遅れるとうるさいことになります。だから外交は必死の形相で山車の動きを調節します。
まだまだ祭の基礎知識はいっぱいありますが、これだけの情報を知っただけで、「なるほど」と納得する方も多いと思います。ごゆっくり中泉の祭典をお楽しみ下さい。
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平成10年3月に、玉匣社新山車建設委員会が依頼をした山車模型の制作者である西新町在住の河合則明さんから完成の連絡が入った。
9月13日午後9時過ぎ、工房を訪問した。その日は「広報いわた」の取材もあったとのこと。河合さんから苦労話を聞くことができました。
多忙な仕事の合間、暇を見付けての作業であり、また、山車本体に止まらず、装飾品(彫刻、刺繍幕、人形、錺金具、提灯、太鼓、曳き綱等)細部にわたり、こだわった結果、とうとう3年6ヶ月に及ぶ歳月を要してしまったとのことでした。
生来、器用な河合さんだが、たとえ時間と技術を持ち合わせていても祭に対する情熱とこだわりがなければ、到底完成を見ることはできませんでした。そんな妥協を許さぬ心意気には頭の下がる思いです。
河合氏さん力作の模型は祭典時、久保町内、玉匣社会所東隣、玉友会テントにて展示されました。
玉匣社山車模型
河合則明氏制作
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二之宮に鎮座する鹿苑神社では毎年祭典の当日には、お囃子が奉納されます。
これは平成3年より10年間「鹿友会」という二之宮の青年を中心とした、お囃子の保存会によって実施されてきました。しかし、昨年、諸事情により鹿友会は解散してしまいました。
10年間ではありましたが、ひとつの伝統行事を閉じてしまった反省を基に、昨年「み組」では若年層の育成に取り掛かり、また末永く祭囃子が演奏されることを願い、小学生・中学生・高校生・大学生だけで奉納囃子を実施しました。
今後は二之宮地区の二ヶ町「北・南」が交互に実施する事が決まり、末永く引き継いでくれるものと思います。
(今年は北が当番)
また、み組では手古舞に「白狐」を取り入れています。遠州地方では「ひょっとこ・おかめ・般若」は盛んに舞われていますが、白狐はチョット珍しいものです。
白狐は関東地方では盛んに舞われているもので、テンポのよい「馬鹿囃子」にピッタリであり、般若と一緒に舞われ、白狐と般若のカラミは必見です。
奉納とは別に山車の上では、その他に「笑い面・反面」なども舞われており、今後も様々な舞にチャレンジして行こうと思っています。
祭りに対する想いや考え方は、各地方・各地区・各町内により様々です。それは当然の事です。
しかし、鹿苑神社の祭典は常に発展途上であることを意識し、諸先輩が築いてきたものを礎に伝統の始まりを、いま我々の手で創って行こうと意気盛んであり、長い目で見て、誰もが楽しいお祭りを目指しています。そんな勢いを奉納囃子で観て頂ければ幸いです。
<み組K・T>
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▼Bさんは同じ町内に住む少し先輩であった。若い頃より玉匣社に参加し心より祭を楽しんだ。いささか喧嘩早い所があった。強くなるためか自制するためか空手を嗜んだ。そのBさんが不治の病に冒された。私もBさんも赤い線の中老だった。「最後の祭になるかもしれない」数人の仲間がそう心得、病身のBさんを祭の間交替でエスコートした。
▼山車が志組・西新町で停車をする。親戚ではないが、子供の頃より声を掛けてくれる家があった。その年も「おばさん」は人混みの中に私をみつけ家に寄るように誘った。私はBさんらとお邪魔をした。例年のように茶の間に上がり込みビールをいただき、祭料理をつまんだ。おばさんの亡くなったご主人Sさんは「太鼓の名人だったよ」と話すとBさんは大いに興味を示した。
▼帰りしなに、Bさんは何を思ったのか、仏壇の前に座り、掌を合わせた。そして私を誘ってシチャシチャと小さな練りを始めた。私は目頭が熱くなった。「ご馳走になりました」Bさんは丁寧に頭を下げ辞した。
▼暫くしてBさんの訃報を聞いた。玉匣社中老Bの若い死。あれから十数年の時が流れた。また祭が来た。祭を愛した死者たちの魂は蘇る。そして生きる歓びを享受する中泉の人々を祝福する。シチャコリャ!
(七屋狐狸也)
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