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  フェイドアウト                                  原作 周防 元水

第1話 夕闇

 もうどれ程ここに居るのだろう。時計にそっと目を走らせ、時の流れを辿っていく。   

 私は小舟を走らせ、ようやく湖内の一画に波静かな場所を見つけることができた。彼方には漁船の曳く銀色の波が光っている。風が心地よく母が扇いでいるかの様に柔らかい。一呼吸間を置いて機関の震えがこちらに伝わってくるのが分かった。ポンポンという音が傍らを通り過ぎていくのを感じると陸での雑事がもうここには届かないことを実感した。ようやく錨を降ろすと不思議な安堵感が私を包み込んでいく。辺りを見渡すともう日は随分落ちてきて、あれ程美しかった湖面は青の透明色を失い一面が深い藍色に染まっている。航路を大きく外した中瀬では目印となる物も無く、ここではやがて来る闇夜が全ての基準を奪ってしまう。天地の境さえ奪ってしまう。いつも通りの手順で目立てをするとその東には村櫛半島が平べったく横たわり、西の彼方には紫色に覆われた湖西の山々が対となって連なっていた。位置が確認されると、4月の風がその山々に誘われるように半島から北北西に湖上を流れ去っていくのを感じた。そして漁を終え北上する幾隻かの漁船の曳き波も同じ様に遠景に向け湖上を流れ去っていくのに気付いた。そこにバウの白い椅子に座った世津の小さな肩と長い髪、薄水色のワンピースと僅かに見えるうなじが重なると、湖上はこれまでになく印象的で、夕闇が迫る中、ふと、私は自分の存在に罪悪感が走るのを覚えた。

 漁船が近くをすり抜け、若い漁師の顔が見えた。世津が視線を送るその船はゆっくりと前方に回り込み、そして彼女と重なり暫く見えなくなった。隔絶されて一人取り残された私はコックピットで一瞬別人になった。僅かな会話が流れ耳元に届く。焼き玉の音が胸を打ち、何処か覚えのある寂しさを蘇らせた。

 私は幼い頃よく父母の後を追い遠く離れた田畑に行き、その隅で一人遊び日が暮れるのを待った。常に私の回りにいる父母は私の全てだった。園から帰り誰もいない事を知ると、一人取り残された想いがして田畑をよく訪ね回った。すれ違う大人はことごとく別世界の人に見え、泣き疲れ果てて家に戻り積み重ねた布団の間で一人時を過ごした。

 蘇る原体験との重なりは、世津への激しい独占欲へと私を誘っていく。漁船はやがて世津を解き放し視野から外れていく。美しく輪郭の整ったその横顔。手を伸ばせば届くこの距離に私は私の全てを感じ、押し留めることのできない粗野な自分を感じた。

「ああ、夕焼け」

 世津の声に遠方に目を移すと、紫色の山々は今やオレンジ色に焼けその一部は闇にのまれていた。外洋での釣行を終え寄港を急ぐクルーザーが一日の終わりを告げる。夕焼けの真の意味を知りそして悟った。終わってしまう。ようやく曳き波が二人の小舟に達し、世津を翻弄しそして崩していく。山々が色を失い暗い原色の海に沈む。身近にありそしてあまりにも遠い、世津。繰り返される思考。終わってしまう。ただその想いが時を延ばし世津を追いやった。

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