この部屋は、中村個人の独り言を綴るコーナーです。演劇に関わって二十年以上が経ってしまいました。そんな演劇生活を振り返りながら、日記風に私見を書いてみます。少し、暗いかも知れません。演劇を純粋に楽しみたい若い方は、掲示板や劇団員の横顔の方をごらん下さい。このコーナーは若い人の交流にちょっと…という人に読んでいただければと思います。
出演者の募集をいろいろな手段を使って行っているが、なかなか成果があらわれない。電話をもらったり、「興味はあるんだけど…」という段階で止まっている状況が多い。
芝居って、そんなにハードルが高いのだろうか? そういう僕も、高校時代は「演劇やってる奴は、軟派青年」と思ってた訳で、まともな男が取り組むものとは思っていなかったのだが。
傍から見れば、「目立ちたがり屋」、「ナルシスト」と思われるが、アイドルになる訳じゃないから、芝居って、地味な努力の積み重ねだよ、と思う。まして、長く続けるには、「自分を磨く!」、そんな気概がないとやっていけないものだと思う。
偉そうに書いたが、ちょっと今の世の中、不安を感じる。確かに、生活は大変だ。派遣社員が簡単にクビになる不景気、正規職員だってウカウカしてられない。となれば、会社の言いなりにならないと身が危うい…けど、ホントにそれでいいのだろうか? 生きがいや人とのつながりなしで、果たして、人間は生きていけるのだろうか? 貧しさでいえば、昔の方がずっと貧しかったと思う。だからといって、昔の方がこうした活動が低調だった訳じゃない。いや、かなり盛んだった。
心ある人は、今でもいっぱいいると思う。何か、きっかけがあれば、つながるんじゃないか…
さて、一部の人間の中に、僕を強靭な意志を持った男と思っている節があるが、確かに僕はポジティブ志向ではあるが、ノー天気ではないのである。意外とウジウジ悩むのである。幸い、仕事のことで悩むのは、年に1〜2回ぐらいだが、劇団のことは頻繁に悩む。残念ながら、悩むほどのプライベートはないので、悩むのはもっぱら劇団のことである。
昔、「どうしたら、うつ病を治せる?」と聞かれたことがあり、言葉に窮した。それは、難しい。まず、僕はうつ病になるほど真面目ではない。うつ病の人を何人も見ているが、みんな真面目である。僕は自分の能力以上のことをやろうと思わないし、頑張った結果が悪くてもあまり苦にならない。さすがに、この年で失恋なんかしたら辛いだろうが、若い時は失恋を恐れることはなかった。「何もしないで傷つくより、何かをして傷つくことを選ぶ」がモットーだった。
さて、幸せになる方法だが、誰でもいいと思ったら幸せにはなれない。偶然いい人に出会うことはあるが、誰でもいいと思っていたら、いい人とくだらない人間の区別は出来ない。あと、僕にも出来ないが、「飛び込むタイミングを逃さない」である。真面目な人は、飛び込む勇気がない人が多い。
11月から来年の静岡市民文化祭参加公演のための稽古体制に入りました。いろいろ悩んだ 末、人数にこだわらず、常識的な稽古時間で進めていこうと。
RINは長い間、稽古の終わる時間が遅いという問題を抱えていましたが、劇団員の人数を 確保して観客動員を上げるためには…と改善出来ないままやってきました。
しかし、ここまで人数が減ったなら、その現実を踏まえ、新たな可能性に賭けながら、今後長 く活動可能な稽古体制で進めていくことにした。このことで現在の劇団員の一部が活動不可能 な状態になるかもしれないが。
幸い、新たに劇団に入る人が生まれました。新しい人が入って来ると元気が出る。この雰囲 気を大事に、まず活動可能な人間で稽古を再開していく。ダラダラと稽古終了を遅らせたり、 稽古後の雑談をなくすという今回の改善点は守らなければならない。その上で、すべての劇団 員、過去の劇団員の一部と共に、一緒にいい芝居を作っていく雰囲気が生まれたら最高だ。
長く生きてると、大事なことを忘れてしまうことがある。
「…ねばならない」ではなく、「…したい」
疲れたり、忙しいと…いや、忙しいのは関係ない、蓄積疲労やストレスが溜まると、ついつい、「けど、しなくちゃいけない」となる。「なんとかしなくちゃ」、「俺がやらなくちゃ」という意識は、責任感としては素晴らしいことかもしれない。仕事ならば、それは大事なことだ。しかし、プライベートでは……。
「家庭を大事にしなくちゃ」、うん、もっともだ。僕もそんな気持ちを持っている。しかし、その家庭なるもの、最初は「この人と、いつも一緒にいたい」から始まったんじゃないだろうか。それが、長い年月を経ると、「大事にしなくちゃ」に変わる。大事にしないよりは、大事にした方がいい。しかし、それはベターであって、ベストじゃない。
「愛さなくてはいけない」「会わなくてはいけない」は、誠実ではあるが、心がない。俗に言う、負のオーラが漂う。それでは、相手を幸せに、楽しく出来ない。こんな簡単なことを、僕達は忘れてしまう。
「勉強しなくてはいけない」ではなくて、「勉強したい」気持ちが集中力を高める。最近、テレビドラマも映画もあまり見なくなっていた。しかし、最近、見ようかなという気持ちが戻ってきた。年をとって残りの人生が短くなった今こそ、「ねばならない」人生ではなく、「…したい」人生をしていくべきだ。いや、そうしたい。
世の中には、いいこと言っているのにうまくいかない人がいる。認めたくはないが、俗に言う、カリスマ性なるものは人間の魅力であり、極端に言えば、人間的な魅力がないと何をやってもうまくいかないのかもしれない。僕などは運で生きてるようなもので、運がいい時はうまくいくが、悪い時は何をやってもうまくいかないというレベルの人間だ。年をとって、多少、運を理解出来て、行く時と我慢する時を使い分けることが出来るようになり、なんとか持ちこたえているという感じか。幸い、ポジティブな性格に生まれたのも大きいかもしれない。
ともあれ、劇団RINも危機的状況を越えたようだ。来年の春の文化祭に向けて再出発するのに、7ヶ月ちょっと。ゆっくり進むにはちょうどいいタイミングかもしれない。
前田バレーの香絵さんが亡くなられた。とても明るくやさしい人で、RINも何回か貴族役などでバレー公演に出させていただいた。旦那さんの福田さんも気さくな人で、お二人とも社会的に認められたすごい方なのに、いつもニコニコと私のような人間とも冗談交じりでお話してくれた。
いい人は早く死ぬというのは本当だと思う。それに引き換え、たいした能力もないのにノウノウと生きている自分をどう思えばいいか……前田さんがまだまだ生きていければ、静岡の文化は更に発展したことだろう。
しかし、そんな前田さんを悪く言う人もいた。前田さんでもそうなのだから、私がどれほど悪く言われても仕方ないことだと思う。しかし、それにつけても、人はどうして力のある相手には媚を売り、力がなくなると手のひらを返すように高飛車に出るのだろう? 人にはいい所も悪い所もあり、いい時期も悪い時期もある。それが人間なのだと思う。いい所と悪い所を正当に評価し、いい時期と悪い時期を正当に評価する、それが人間の信頼関係の原点なのではないだろうか。
頑張って頑張って、結果、鬱病になってしまう人もいる。その人の本当の姿とはどっちなのか? 冷静に考えれば、誰もが両方と分かる。人間は取り返しのつかないことをしない限り、トータルで評価されるべきである。そして、誰もがトータルで評価して欲しいと願っているはずだ。
素敵な人を亡くすと、淋しくなる。ご冥福を祈るとともに、自分の生き方を見直す秋である
静岡の演劇が危ない! なんて書くと、RINだけだろうという声が飛んできそうだが、多くの劇団が大変な状況に追い込まれているのは、少なくても私の知りえる情報からすると、確かである。バブル崩壊後、会社の圧力は相当のもので、合理化の名のもとに残業は厳しくなり、「嫌なら辞めてもらっても」と強気の発言、一方では格差が広がり、フリーターは増加し、金銭的に行動を制約され、将来の展望は開けないまま日々を暮らす人が増えている。夢が持てなければ、頑張る気も失せるし、ごたごたからは逃げたくなるし、面倒なことには首を突っ込まない……もちろん、若者が夢を持てないのは、大人のせいであり、食品の偽装事件の多さや教員採用汚職事件など、とても若者を叱る権利は大人にない。
とはいえ、これでいいのか、と言えば、いい訳はない。
RINが低迷しているのは、ひとえに、代表である中村の人間的魅力のなさに起因しているが、力不足とはいえ、代わりがいない以上、なんとかしなくてはいけないとあれこれ手を考える。
最後は、どれだけの覚悟があるか、だ。幸い、人がどうかより、自分は努力したかどうかが気になり、周りに左右されない性格のため、暗くなることはない。続けると決めた以上、一人でも続けるつもりである。ま、残念なことに芝居は一人では出来ないが。
3ヶ月、白紙の状況で、休養しながらあれこれ考えた結果、周りの動きはおおよそ見えてきた。そろそろ動き始める時期に来た。さて、次の一手は吉と出るか凶と出るか……
暑い夏、御多分にもれずオリンピック観戦に明け暮れている。女子の活躍が目立ち、今時の男は……と評論家気取りでいる訳だが、オリンピックというのは時代の流れを感じるには結構いいものだと思う。
まず目立つのが匿名のメールで偉そうに選手をこきおろす輩の多さ。劇団の掲示板にも時々あるが、人の悪口を匿名で書き込む奴には腹が立つ。そして、そういう奴に限って、自分のことを棚上げして偉そうである。だいたい、本当に一生懸命やってる人は人の悪口は言わないし、偉そうな言い方をしない。この国はいつの間にか、努力する人とだらだら生きている奴が同価値になっている。社会が悪いと矛先を変える人もいるが、今まで良い社会があった試しはない。
次にメダルを取った直後に引退を示唆する例が多くなった。もちろん世界のトップでい続けるのは大変な訳で、引退も当然だと言えば当然だが、メダルを取った直後というのが気にかかる。続ける苦しさと続けるからこそ得られるその道の奥深さ、引退というのはそう簡単に口に出来るものなのか、凡人の僕には分からない。
今回のオリンピックは、連覇が目立つ。ということは若手が出て来ないということである。メダルを取るレベルに育成するということはスポーツ振興のあり方が大きい訳で、そのことで今の若者を感じることは出来ないが、サッカー男子のように、シュートを外しても悔しがらない姿を見ると、やはり何かが違うと思う。
おかげで、劇団を離れ、じっくりリフレッシュ&考えることが出来た。少しばかり蓄積疲労も取れた気がする。
10年ぶりに劇団のテキストを改訂しました。面白いことに、この10年ですごく変わったものと、まったく変わってないものがあった。音響などは、テープからCD、MDと大きく変わった。当然、テープの時代でのテクニックなど今は必要ない。逆に、演技の基礎は恐ろしいほど変わっていない。まさに、技術は進歩しても、人間の魅力は変わらないということが嫌というほど分かる。
にもかかわらず、新聞・ニュースを見ると僕には信じられないことが載っている。30を過ぎた男や女が親との関係がうまくいかず、他人を殺すなどは、一体いくつになったら親離れするのかと頭を抱える。身近な例を言えば、信号が赤になったのに突っ込んでくる車の運転手は8割がたが女だ。若い女も年取った女も変わらない。女性の素晴らしさはどこに行ってしまったのか?
給食費を払わない父兄、家庭教育を学校に押し付けて文句ばかり言っている親、世の中が狂っていることは確かだ。努力しない人間が平然と偉そうにしていて、一流と三流の区別もしない風潮、まさに、愚民化である。権力、権威主義と闘ってきた演劇も、今や自己満足、自己肯定に陥っている気がする。ちょっぴり、昔がなつかしい今日この頃である。
昔をなつかしむようでは、僕も後退している。僕が親しい友達とひんぱんに会うことをしないのは、いつも前を向いていたからだと思う。心地よい人間関係よりも、これから何が出来るかを求めて来たと思う。さてさて、どうしたものか。糸井さんではないが、最近は愛犬ハナビとたわむれていると、癒される。う〜ん、いよいよ困ったぞ
最近感じていることを少し書きます。実は、人間は自分が思っているほど理性的ではありません。「それは違う」「それはこうだ」と頭の中で思っていて、それを本人はすごく正しいことのように感じているけど、実は頭が堂々巡りしていることの方が多いのです。感情というのは、事の重大さに応じて強くなったり、弱く感じたりしているものではありません。「好み」に左右されるもので、極端に言うと、だから人間は自殺出来るんです。
本来、生物である以上「命」が一番大事なはずです。子供を守るために自ら命を落とすことはありますが…何が大事か、何を守るべきか、何を求めているか、人間は自分の存在理由を賭けてこの問いと向かい合せにいます。そして、それはほとんどの人がそうしているのです。では何故、多くの人が自分の求めている道を歩めないのか、それは感情が邪魔するからなのです。本来、大事なものを大事にするように生まれるはずの感情が「好み」というたった一つのパーツによって、崩れていくのです。
この「好み」に支配されやすい理性を正しい方向に戻すのに一番有効なのは話し合いです。話し合いは、ともすれば喧嘩に近い意見の相違を明らかにし、それこそ修復不可能な関係になると思いがちですが、話してみると次第に自分が本当は何を大事に考えていたかを分からせてくれます。言うことによって、自分の理性を屈折させていたストレスがなくなり(人に話してスッキリしたという経験は誰にもあると思います)、相手の言うことも理解出来るようになる。
が、日本人は話し合いが下手な人種です。しゃべっているうちに、逆に感情に支配されていく人が多い。売り言葉に買い言葉、もう話の本筋はどうでもいい…これはまとめる人がいない話し合いでよく起こります。意外と多いのが、仲間同士の話し合い、お互いうまくやりたいために声の大きい人の意見に全体が流れていく傾向が強い。仲間ですから、本来は自由に意見を言えるはずなのに…見方を変えると、ほとんどのことは正しいように映ります。それを屁理屈と言えるためには、本筋を分かっていなくてはいけない。やさしさは強さに裏打ちされていない限り、本筋を見失うものです。
20年というのは、不思議な年です。まさに、生まれた子供が成人になる年月であり、10年一昔を2回経験する年月。今回の公演は、エイサー琉神REDSとラテン歌手宅間葉子さんの友情出演という20周年を飾るにふさわしい公演体制でした。しかし、逆から見れば、劇団の問題点が浮き彫りになった公演でもありました。
何が起こっても公演は行われ、市民文化会館中ホールで劇を上演出来ることも当たり前になっています。
それは、劇団の過去の努力と実績の結果であり、現在の努力だけで可能なものとは違います。別に今の劇団員の努力が足りないと言っている訳ではありません。劇団RINのメンバーは総じて、真面目であり、頑張っています。むしろ、人が良過ぎるのが欠点だと言えるぐらいです。しかし、劇団も世の中の変化から無関係には存在出来ません。
世の中の変化……無差別殺人や母親の実の子供への虐待などを持ち出すまでもなく、バブル崩壊後、労働者の権利は雇用者の強気の前に無力になり、フリーターは常態化し、介護や年金の不安の前に生活は守りに入り、文句を言った者勝ちの風潮にみんな声をひそめるしかない現状。
そして、もっとも変化が大きかったのは、『楽しい』の中身なのではないでしょうか。楽しくなければ、やる意味がないというのは、何も今に始まったことではありません。しかし、芝居の楽しさは毎日笑って稽古が出来ることではなく、演技が成長していく喜び、お客に感動してもらえる喜びなどではないでしょうか? 楽しみが刹那的になっている…それが世の中の変化の正体ではないか、そこに人間関係の薄さがもっとも強く出ているのではないか、そう思えてなりません。
公演が終わって、体は楽になりました。問題は山積みですが、あせってどうにかなるものでもありません。けじめはつけました。しばらく、根本を考えながら、どうするかを考えたいと思います。
なんとか、第42回公演にこぎつけた。出演者が足りず、Z・Aから客演を頼んでのことではあるが。快く客演を承諾し、頑張ってくれた粥川さんと紅林さんにはホント感謝・感謝である。 今回の事態は、昨年公演終了時に予測出来たことだが、手を打っても結果が出なかった。現状維持の姿勢は、状況の悪化の分、マイナスになる。今回の公演が終わった後、抜本的な手を打たない限り、劇団は持たないだろうし、そのつもりである。
粥川さん達は、芝居に出れる喜びを持って稽古に望んでいた。なんとか公演をというRINの現状から見ると、すごく新鮮なことだった。公演出来るのが当たり前になっているRINは、やはりどこかおかしくなっているのだろう。リーダーの僕に問題があるのだろうが、劇団員に責任がないということはない。お願いをして稽古に出て来てもらうようでは、組織として壊滅状態である。
アマチュアとはいえ、芸術・文化に携わるということは、好きだからやるというのとは少し違う。お客さんという社会に対し、芝居というメッセージを送ることは、自分達がやりたいことをやるのとは違う。
RINが、困難な今の社会の中で生きていけるかは、今後の努力にかかっている。出来る努力は、最大限やってみる、その覚悟はあることだけは表明しておきたい。
昔お世話になった業界の人から久し振りに電話があり、稽古を見学してもらった。と、時期を同じにして、エイサーのプロ集団琉神の方と会い、沖縄の問題を取り上げてくれているということで教えている琉神REDSを公演に友情出演してくれることになった。と同時に、稽古も盛り上がりを見せている。
歯車は、回らない時は回らないのだが、回り始めると回るもの。幸い、今は劇団はいい方向に回り始めた。この勢いの中で劇団員が成長してくれればと思う。集団が機能するためには、システムとかノウハウがなければ効率よく動かない。しかし、とどのつまり、人間なのだと時折思う。どんなに優れたシステムでも、それを動かす人間がダメなら、やはり動かない。うちの劇団員は能力はともかく、人間的にはいいものを持っている。それは、落ち目の時にも頑張って稽古しに来てたことでもあきらかだ。リーダーに問題がなくもないが(反省)
しかし、いい公演をしてお客さんに喜んでもらいたい! という気持ちはいつも変わらない。困難が急になくなった訳ではないが、この気持ちが変わらない限り、劇団RINは、まだまだ公演を続ける。
『笛吹けど踊らず』という諺がある。これは、いくら頑張っても部下とか周りが動いてくれないことを言い表すのだが、捉える視点により、意味が変わる。つまり、動く方に問題がある場合と動かす方に問題がある場合がある場合があるからだ。おおかたの場合、動く方に問題があるとしているが、本当のところはどうだろう。やはり、動かすリーダーに問題があるというのが、正しいのではないだろうか。
確かにリーダーは頑張っているのかもしれない。しかし、リーダーに魅力があれば、またリーダーの進もうとする方向に魅力があれば周りは動くのではないだろうか。ただし、この場合でも、動く方向が魅力的であっても、リーダーに魅力がなければ、動かないのだが。
僕は長い間、カリスマ性を自分には否定してきた。一種の責任逃れかもしれないが、劇団を続けることとか公演に出演することとかは各々が自分の判断でしていくべきだと考えるからだ。従属関係は良くない。お互い、一つの歯車として、代表であり、劇団員であるべきだというのが、僕の持論だ。
さて、劇団が20年を迎え、勢いが落ちているのは事実だ。リーダーも年を取り、枯れてきたというか魅力が失せてきている。勢いという意味では、若い人にゆだねるしかないだろう。
ここで、人を育てる難しさが顔を出す。自分が頑張ってなんとかなる間は、人を育てる必要がないが、自分に勢いがなくなる前に、人を育てておかなければ、組織は力を失う。
果たして、RINという組織は、まだ間に合うのか?
日頃はだいたい笑顔なのに、切り取った一瞬真面目な顔をしている……自分で自分を判断するのは難しいけれど、僕にとっての僕はそうであり、人から見た僕は笑顔なのかもしれない。若い頃、物書きは幸せじゃいけないと考えていた。年を取って、自分が幸せじゃなけりゃ人を幸せに出来ないと思うようになった。今は、幸せでも幸せでなくても、物は書けると思う。ただ、幸せの方がバランスの取れた作品が書けるような気がする。不幸だと不幸ということに力が入り、客観的でいるようで自分勝手な気がする。
今回、初めて戦争物を書きました。戦争物は古い(歴史のある)劇団にお任せした方がと思っていたが、劇団20周年ということで、しかし、20周年を飾るほどの豪華なメンバーで芝居を打つことが出来ない劇団の現状を考え、それなら今まで一度もやったことのないジャンルにしてみた方が、潔い……ということで、私の大好きな沖縄を題材に書いてみました。
いつの時代も、どんな世界でも、人が一番輝いているのは、一生懸命な時であり、特に人を想う時がきれいだと思う。素直になれないのも、それはそのことがとても大事だからであり、悩むのも後悔するのも、それがとても大事なのだからと思う。うまく生きれないのは、誰しも同じで、傷をいっぱい作って年を取っていくのだけれど、一生懸命だった時間は、その時間の分だけ、心を安らかにしてくれる気がする。
沖縄の方言で、『てぃーだ』は太陽のことですが、心に希望を、という意味もあるそうです。とても、素敵な言葉だと思いませんか?
今回は、公演が終わって一週間ぐらいして次の台本を書き始めています。非常に困難な公演で、大変な人が多かったし、僕自身、心身とも疲れ果てたはずなのに。人間て不思議なもので、苦しいと返って頭が冴えるというか、危機感が心を動かすというか、自分でもびっくりの筆の進み具合で、もう、半分ほど出来ています。
キーワードは、『憎しみからは、何も生まれない』…もともと楽天的な僕ですら、時に、イライラしたり、モヤモヤしたり、挙げ句の果ては、怒鳴ったり…いろんなことを乗り越えて、人間が少しは出来たはずだったのに、何故、怒りに自分を見失うのか…怒らなくなって、狡くなった人達を見て、更に、苛立ちが増幅されて…
よく、分析してみれば、マスメディアの煽りにすべての人間が乗ってしまっているというか、より刺激的なところに行かされているような今ではないでしょうか。知らず知らずのうちに、よりセンセーショナルな煽りに乗っかって、普通のことや自然なものを見過ごす毎日…
政治や経済のこと、今大事な地球温暖化のことを考えることは、大事なことだけど、僕達は総理大臣よりも偉い訳でも権力がある訳でもないのに、平気でテレビの前で彼等をあざ笑っている。しかし、僕達よりも彼等の方が確実に現実に向き合い奮闘している。何もしていない僕達に、彼等をあざ笑う資格はない。
なら、僕達は僕達が出来ることをやるために、思いを行動に移していくべきなのでしょう。移すべきとは言いません。僕は、少しは行動していこうと思います。『憎しみからは何も生まれない』、人をどうこう言う前に、まず、自分がいいと思うことを少しだけ実行…もしかしたら、時には少し怒らなくてはいけないのかもしれない。人を信じて生きていきたいと思えばですが。
本当の意味で、前向きに生きるっていうのは、結構難しい。自分では前向きのつもりでいても、消耗している時は前向きにはなっていないものです。ストレスの多い今の時代、うつになるのもいたしかたないところなんではないでしょうか。時折、昔の劇団員から突然メールをもらったりします。何かのサインなのかもしれません。僕には、元気?ていうぐらいの返事しか出来ませんが。
次回作を書き始めています。公演が終わった時は消耗し切って年が明けるまで何もしたくないって心境だったんですが。今の人数では、20周年記念に再演を行うのは難しい。出演者が20人前後のものばかりですから。しかも、男女同数が基本でしたから。内容は、まだ言えません。もしかしたら、今はまだ消耗していて書いてる作品がいいものになるか分からないですから。
霊感の強い僕ですが、普段は霊も見ないし、占いも信じません。ただ、バイオリズムというか運の流れというのは、結構意識します。今は何をやっても裏目に出る時期だとか、今は攻めの時だとか。何せ、運だけで生きてきた感がありますから。今は、作品を書きながら待つ時なのかもしれません。ボツになる作品かもしれませんが、そうした意味では必要な作品かもしれません。演技指導で、脱力を教えたりしますが、演技同様、実生活の脱力も結構難しいものです。
新生ちゃんの言葉ではないですが、今回よく公演が出来たと思います。と同時に、今回は何故自分が劇団を続けていくのかを考えさせられました。『継続は力なり』と言いますが、確かにそうですが、意味がなければただの惰性です。RINは、20年前の設立の理念をずっと持ち続けてきたと思います。しかし、20年経って今の若者に通用する理念なのかは、少し疑問です。世の中、変わって来ています。もちろん、若者が悪いと言う気はありません。談合や賞味期限改ざんを例に取るまでもなく、大人が悪い。大人こそ、高度成長の中で甘えて努力もしないで生きてきたのですから。しかし、犯人探しをしても意味がありません。何をすべきなのか、何が出来るのか……しばらく、ゆっくり考えてみようと思います。ひとつだけ確かなことは、このままではRINは、その存在意味もなくなるということです。
悲観的な意味ではなく、本当に変革の時なんだろうなと。
今回、岡村ちゃんが家庭の事情で公演に出られません。劇団としては残念ですが、女性は家族の最後の砦であり、今は家族のために頑張ってもらうように応援しています。 代わりといってはなんですが、由佳ちゃんが6年ぶりに静岡に戻ってきて、今回の公演に出てくれます。とはいえ、劇団の女性不足は解消されていませんが…… 掲示板に、IT君のメッセージがありました。別に彼が気にすることはありません。僕は、昔からずっと、カリスマ性を否定してきていて、決して劇団RINで芝居を続けることを素晴らしいことだとは言ってきていません。むしろ、よく「あなたは、説明不足」と言われています。待ちの演出と自他ともに言ってきた過去もあります。要するに、気持ちをちゃんと伝える努力を怠ってきたのだから、責められても仕方ないのです。
最近は、少し変わりました。黙っていて気持ちが伝わるほど、世の中はゆとりがなくなりました。いろんな価値観、情報が出回り、ろくでもない奴がメールやブログで勝手なことを言って自己満足どころか、他人を中傷している世の中です。悪貨が良貨を駆逐するのが世の常とはいえ、黙って悪くなるのを見ている訳にもいかなくなったからです。
ところで、今の世の中でも『やさしさ』は確実に伝わると思います。ただ、人のやさしさに触れて幸せな気分でいられる持続時間が昔と比べて圧倒的に短い気がします。やさしいと思っても、次の日会った時やさしくされないとやさしくないと感じてしまう。情報とストレスが多いがゆえに、そうなるのだと思いますが。難しい世の中になりました。恋愛するのも大変だよなと、他人事ながら案じている今日この頃です。
劇団員と、どうすれば新人が入ってくるかを話し合う。10年前なら、募集をかければ問い合わせがあった。どう育てていけばいいかを考えればよかった。今は、どうしたら募集のメッセージが届くかだ。うちの劇団員は真面目だから、友達を誘ってと言っても答が返って来なかったが、結構声をかけていることが分かった。ようは、芝居をやってみようと思う人がいないのだ。もちろん、今は新聞に新人募集の有料メッセージを出しても、電話すらない。それでも毎年出しているが、ここ3、4年は電話0である。考えてみれば、若い人は新聞を読まないのだ。言葉が悪ければ、新聞を丁寧に読まないのだ。当然、そんなメッセージは届かない。就職情報誌、ぱども静岡は廃刊になった。世の中、自分を高めてみようと思う人がいなくなったとは思わない。何かを求めている人は結構いると思う。しかし、そんな人達と結ぶ線が見当たらない。情報のツールは溢れている。しかし、心と心を結ぶツールは溢れているか?と言えば、?である。
最近、僕自身も職場ではあまり女の子に声をかけなくなった。他の人よりも多いが、それでもかなり少なくなった。何故か? セクハラ、パワハラになるからである。若い人同士なら、いいのだろうが。年を取るのは辛いものだ。セクハラの定義は、相手が不快に思うかどうかだ。こちらが何をしたかではない。極端に言えば、好かれていれば、肩を触ってもスキンシップであるが、嫌われていればセクハラである。自分が好かれていると思うほど図々しくないので、もちろんそんなことはしない。当然、芝居に誘うのは至難を極める。個人の限界を感じる瞬間である。心をどうして伝えていくか、しばらくはかなり悩みそうだ。
大学のクラブのOB会を久し振りに開催し、行ってきた。意外と思う人もいると思うが、僕は美術部である。油絵を描いていた。部長もやったくらいだから、半端ではない。OB会でも話題になったが、「人並みはずれて不器用な中村が、絵を描こうと思ったことがすごい」…誉めているのか貶しているのか分からない言葉だが、普通の人は不器用だったら絵を描こうと思わないらしい。器用貧乏という言葉がある。器用な人は小手先でなんとかなるから大成しないということである。 このことは、芝居にも通用する。いや、この言葉は芝居のためにあると言ってもいい。演技が下手な人は、長く頑張っていると味が出る。上手な人の演技には奥行きがない。何故か?……芝居の本質は、共感にあるからだ。スーパーマンが出てきたとする。人はすごいと思うが、それだけである。スーパーマンになりたいと思う人はいても、自分がスーパーマンと思っている人は多分いない。もちろん、白馬の騎士を望む人はいる。キムタクが人気があるのは、そんな素敵な人が現れて自分を好きになってくれたら…夢である。が、夢はあった方がいい。 問題は、信じられる夢かどうかである。ある人は、キムタクが自分を好きになってくれることを信じられる。ある人は、そんな素敵な人が自分を好きになるはずはないと思う。では、どうすればいいのか? 信じられる素敵な人間であればいいのである。観客が信じられて、好きになれるような人間として舞台上にあればいいのである。が、これは難しい。が、そうあれたら、すごい充実感がある。役者は三日やったらやめられないのは、このためである。RINの役者にも、そんな喜びを知ってもらいたい。
今回は、テーマが決まっていた。古くからの観客の要望で、母親による虐待を扱った作品を書いて欲しいと。しかし、この重いテーマを今の若い劇団員で表現するのは不可能である。しかも、来年の劇団20周年記念で時代劇を予定している。劇団員のレベルアップのためには今回も時代劇をやることが望ましい。時代劇と児童虐待は似合わない。しかし、考えてみれば劇団RINは今まで、現代的なテーマを持って時代劇やSF劇を作ってきた。児童虐待という現代的なテーマを生かすには、時代劇というフィルターを通すことは理にかなっている。しかし……
そんな折、パチンコに行った。私の息抜きはパチンコである。文化人(?)とパチンコは似合わないと思う人がいるかもしれないが、かのドストエフスキーも大の賭博好きだった。実はギャンブルをやる小説家はかなり多い。私は『必殺仕事人』というパチンコをやった。リーチがかかり「この恨み、どうか」という女の声が流れる。と、思いついたのだ。時代劇と児童虐待の接点を これから先は作家としての腕の見せどころ。1〜4場は現代劇、5〜8場は時代劇と早くも決めた。イメージは利用させてもらうが、内容は完全なオリジナルであることを立証するには、それくらいは当然である。もちろん、ビデオは見ない。しかし、水戸黄門もフーテンの寅さんも必殺仕事人も、誤解を承知で言えば、ストーリーそのものは他の作品とさして差がない。キャラクターが優れているのである。どんな展開であろうと、中村主水が悪人を斬れば、観客は気分爽快なのである。だから、逆に役者が違えば、その魅力は別の魅力に変わる。あくまでも、親しみやすさを利用させてもらうのである。
さて、RIN版必殺仕事組、どれくらい面白いかは観てのお楽しみである。
公演の疲れも取れ、さて、次の芝居はと考えている日々です。いろいろ考えて来年の6月の公演がRIN20周年記念公演として、OBが参加できる方法、作品をとまずそこで何をやるかを頭に置いている。OBが半年がかり週一の稽古でやれるためには、11月は台本が出来ていなくてはならない。構想としては、『最後の新撰組+その後の修羅達』がいいのではと思うが……。
秋の公演は?……う〜ん……しかし、宣伝を考えれば、そう時間はない。それにつけても、女性が少なくなった。なんとか女性陣の獲得が急務なのだが。まっ、しかし、今の劇団員のレベルアップが遠回りでも最善の方法であることには間違いない。いくら新人が入っても、今の劇団員がその手本になれるようでなければ、また、元のもくあみだ。
時間というのは、気力とのかけ算だ。物理的な時間があっても気力が少なければかけ算の答は小さい。気力があっても物理的な時間が少なければ、やはりかけ算の答は小さい。ここは、僕個人の人間改造が必要ということか?
今回も無事に公演が終了した。RINでは初めて全場に登場する役もやったため、演出どころの騒ぎでなく、せりふを忘れたりしたら劇団員への示しもつかない状況で悪戦苦闘。挙句は、旧劇団員に出過ぎと言われ、この努力は何だったのかと思うことも……
無事に終了したと書いたが、今までの例にもれず、途中は役を降りる人が出たり、病人が出たりとゾッとするような出来事の連続、あいかわらず夜遅くまでの稽古で、ベテランには体力的にもキツイ日々。
RINもそろそろ方向転換の時期が来たとつくづく感じる。いくら劇団員を増やしていかなくてはいけないとしても、新人に団費を払わなくてもチケットを売らなくても道具も作らなくても、やって欲しいとするのは、精神的に辛過ぎる。僕は、そんな人に芝居をやってもらうために、稽古場を維持するための大金を出し、台本を作り、ちらし作りをはじめとした雑用をしているのか…RINは痩せても枯れても、アマチュア演劇の理念のもと、活動してきたはずだ。
変革への一歩として、今後はRINのやり方に賛同しない新人には無理に入ってもらう必要はないという基本を徹底する。何も特別なことを言っている訳ではない、団費は払う、チケット売りに一生懸命取り組む(結果何枚売ったかは問題じゃない)、稽古だけじゃなく、制作や道具作りの中で出来ることをやる、お客さんに楽しんでもらうことが一番大事という考えで稽古する
変革の第二歩は、二部制もしくは三部制を導入する…今まで劇団RINでやってきた人で稽古が遅くて続けられなくなった人が時々は芝居出来るように、早く始めて早く終わる一部を作り、場合によっては日曜の昼に稽古をして、半年がかりの稽古体制を取り、週一の稽古でやれる体制を作る。三部というのは、プロを目指す人の特別レッスンを行う部門を作るということ。徹底的にやってもついてくる人材育成を行うというものだ。
変革が出来なければ、RINは多分続かない。
ようやく、全配役が決まりました。今回は、秋の20周年記念公演に向けて、ぜがひでも、劇団員を増やして望むということで、新人枠を3作って台本を完成させようとしましたが、男性が1人余分(?)入ってくれて、急きょ役を一つ作りました。もともと、見た目の印象はともかく真面目な人間だけが劇団員に残っているというか、アマチュア劇団は、真面目な人しか残れないのかもしれないけど、今回の新メンバーは、明るくて真面目な人達です。しかも、昔劇団員だった(高校生の時)男も復帰して、キャラ的には更にパワーアップとなりました。今まで以上にダイナミックな舞台をお見せ出来ると思います。
20年近く劇団をやっていると、運のいい時と悪い時がありますし、時代の流れは劇団の構成にも確実に反映されます。時代を映す鏡と言っていいのかもしれません。今は、再びいい方向に向っていると感じます。辛いのは、僕が役者として出なくてはいけないということか、しかし、スタッフをやってくれる女性(掲示板のともみさん)も新たに加わり、役者としてはまたしばらく出れないけど、新生ちゃんが舞台スタッフとして活動してくれるということ、ちらし作りをやりたいと言ってくれる人等新しい可能性が増えています。うまく舵取りをして、みなさんに楽しんでもらえる芝居が作っていきたいと思います。
近々、新メンバーの写真を載せますので、お楽しみに
春の公演の台本も無事出来上がり、ホッとしているところです。幸い、休団・退団になったメンバーに代わり、新しいメンバーが3人加わり、しかもその内1名は元劇団員の復帰という嬉しい結果になりました。
元劇団員の復帰というのは、彼等にとって劇団が好印象だったという証のようなところがあって、自分達のやり方が間違っていなかったということを感じられて嬉しい限りです。
今週、今回の舞台となる斑鳩の里に行って来ます。以前一度行った時のあの野原の中に小さなお寺が建っている風景を見て、日本の姿を感じられたら、今回の台本のベースを劇団員にも伝えられるかなと思っています。芝居はもちろん虚構の世界ですが、伝える価値のあるもの、人間の原風景のようなものがあってはじめて観客の心に届くものと思います。
いつも思うことですが、台本を書いているのは確かに僕一人ですが、その台本は、僕に関わる多くの人が書かせてくれていると思います。僕は僕の周りの声に耳をすませ、僕の心に届く声を聞いています。その声が僕に台本を書かせていると。劇団員、家族、友達、そして社会……
そして、僕達の公演がお客さんの心に届くようにありたいと願っています。
忙しい日々を過ごしていることに慣れ過ぎた人間にとって、何もしなくてもいい日々がちょっと続くと、嬉しいような、これでいいのかと貧乏性に考える変な感覚に囚われる。確かなのは、気持ちの充電に時間がかかるようになったということだ。若い時には、4時間半も寝れば体力回復、頭スッキリだったのが、蓄積疲労で8時間寝ても頭スッキリとはいかない。しかし、年を取るということは悪いことばかりではない。何か困ったことが起きても、あわてず騒がず、まず何が原因か?
何が出来るのか?を心静かに考えることが出来るようになる。感受性が鈍ったということだせが、マイナス思考に陥りがちな感受性は少し鈍った方がいい時もある。
ところで、最近、政治のことに興味が沸くようになった。「安部総理は、顔の割に強引なことをする」とか、「ボンボン知事が逮捕されるようになったのは、何か別の力が働いているのか?」とか…若い時は、まったく政治に興味がなかった。世の中と国会議事堂の中は繋がっていないって感じ。でも、そうじゃないんだな。そうじゃないからといって、僕に何が出来る訳でもないんだが。確かに、僕にとって、安部総理よりも劇団員の方が大事だし、関心がある。しかし、劇団員も今の世の中で生きていて、今の世の中の影響を受けていることも事実だ。劇団員のことを考えること、それは世の中のことを考えることに繋がっていく。ということは……
まぁ、しばらくはゆっくりしよう。せめて、年内いっぱいは
例年より早く秋の公演が終わり、ただいまオフのリフレッシュ中です。2度続けて役者としても出演し、昔の劇団員に「中村さんの演技初めて見た」などと言われ、劇団設立から早19年という年月を感じている所です。昔は、「中村さんには出演させない」という役者もいました。それはいい意味でそう言ってくれたのですが。演出という作業と役者の作業はまったく正反対で、私も役者と演出の切り替えには苦労します。ホント、野田秀樹なんかよくやれるなって思っていました。まぁ、天才だから出来るんでしょうが。凡人には、辛い作業です。
ただ、では何故最近役者をやってるかというと、一つは劇団員と私との年齢差が大きくなって若者だけが出て来る芝居に精神的に限界があり、中年を演じる役者がいなくてつい私が……というお家事情と、自分の成長のためというか、長年やっていてどうしても気持ちが奮い立たなくなった自分へのカンフル剤というか、そんな思いです。2年ぐらいで「ここらで一区切り」という人もいますが、20年やってもまだ成長したいと思うほど、芝居は奥が深いものだとつくづく感じます。
ついでに一言、夢っていうのは、そこに繋がる道をちゃんと歩いていながら使う言葉です。なんの努力もしないで夢を語るなとは言いませんが、客観的に夢を語るにふさわしい能力と努力がなければ、人に夢を語っちゃいけないんじゃないんでしょうか。それって、現実逃避というか、まして人を誘う場合は詐欺っていうもんじゃないでしょうか。
皆さん、やさしい言葉と夢を語る人には注意しましょう!
イヤー、台本が完成してしまいました。年とともに怠け者になっていく自分なのですが、今度こそ締め切り間に合わないだろうな…なんて思いながら…劇団員の希望を聞いて、その希望に答えられるか…今回は、若い人が理解して頑張れるようなものを…お客さんも今回は楽しいものを期待しているんじゃないか…時間がない、ともかく書かなくちゃ…パソコン壊れちゃった。修理までの間、懐かしいルポでなんとか…ワープロの古さに、何故か集中力が増すなー…長すぎる、削らなくっちゃ…ともかく、出来た。うん?…うーん、それなりですな。注文に答えてる。注文に答える能力はあるな、僕は…怠け者だから、注文ないと動けないかも…しかし、とても怠け者が書いた作品とは思えないな(すでに、演出の眼)…奴は、ゴーストライターに書かせてるのかもな。って、ゴーストライター雇うほど有名じゃないが…しかし、お客さんが笑って泣ける芝居になってる。後は、演出と劇団員の努力だ。しかし、昔の劇団員が観たら怒るな。なんで俺達の時は、ちゃんと演出してくれなかったんだって。しょうがないよ、昔は謙虚だったんだから。自分の作品をやってもらうだけでありがたいというか申し訳なくて、とても、この作品のために頑張れなんて言えなかった…今は、年を取って図々しくなってるからな。行間を演じろなんて、平気で言えるし。人間としては、昔の方が立派だったよ。結構、裏で俺の方が能力あるって言ってた奴もいたらしいが…まぁ、そんなことはどうでもいい。明日から劇団員に偉そうに指示を出すとするか…今日は休暇
公演が終わって三週間、疲れも取れて次回作について構想を練っているところです。公演を観に来た小泉君が、「中村さん、よくどんどん作品書けますよね」と言っていた。う〜ん、書けるじゃなくて、書かなくちゃいけないから……ただ、一つ言えることは最近、自分が書かなきゃいけないものを書いているかなってこと。書きたいものでもなく、お客さんにウケルものでもなく、書かなきゃいけないもの。年を取ってくると、才能なんて何も感じないし、名誉や欲は無くなる。初めっから、あまりあるタイプではないが。
書かなきゃいけないってことは、社会的なこと。人間は社会に責任がある。もちろん、世の中を動かす力なんか微塵もないが、しかし、そのことと責任があるってことは別。今の世の中とどう関わっていくのか、今の世の中をどう見てるのか、それを明らかにする責任がある。そして、そのことを通じてお客さんや劇団員と交流していく。もう少し、頑張っていこう。もう少しね。
台本も完成し、劇団員も目標を持って稽古に明け暮れている。年取った僕からすると、今の劇団員は若すぎて頼りなげだが、考えてみれば、金にもならず、ともすれば稽古が遅くて睡眠不足間違いなしの日々を強いられ、挙句に演出である僕に言いたい放題言われても続けている彼等彼女等は、相当に凄いのだと思う。
しかし、毎度のことだが、よく台本が書けると思う。もう何十作書いたのだろう。平凡な僕にとって何十作も書けるほどの経験も想像力もないのだが。ある人に言わせると、台本を書いてる時だけモードが違うらしい。
想像力……これは人生の宝だと思う。想像力のある人は、愛を持続出来る、人生を楽しめる、そして前向きになれる。僕が若い人に伝えなくてはいけないのは、このことかもしれない。が伝える能力も人間性もイマイチな僕だ。せめて、劇団員には伝え切りたいと思う。
新年明けましておめでとうございます。実は、家を建て替えるために、今、吉田町にいます。「何故、吉田町?」いや、短期間のアパート借りは、犬を飼えないんです。我が家の一番の宝物の愛犬ハナビのためなら、通勤時間の一時間やそこら……4月の終わりには、新居が建つのでそれまでは我慢我慢。
せっかく、このページを見てくれた人のために、新情報をひとつ…春の公演の新作は、一応『学生街の喫茶店』(仮題)です。静かな劇…大人の劇…イメージは出来ていますが、まだ数行しか……
やー、人のことをとやかく言う前に、まず自分を反省です。なんか自分は一生懸命やってるつもりだもんで、つい自分に甘くなっていたなって。なにしろ、秋の公演何をやるか発表する日まで、台本の構想が固まっていなかったんですね。いつもなら、もう少し早く、(これならいける!)ってのがあるんですが……
まぁしかし、決まりました。霊感探偵ヒミコシリーズ最終章『化身』 何故か夢を見て、思わず夜中に起きて、それで夢には何の関係もないアイデアが閃いて……まっ、これも毎度のことですが。という訳でただいま執筆に明け暮れています。仕事も忙しいんですが。
劇団員の中には、秋の公演出れない人もいて、それはそれで大変ですが、しばらくは作品に没頭します。ホームページをご覧の皆様、掲示板も少し静かなようですが、たまに覗いてやってください。
例によって例のごとく、公演1ヶ月前には穴の空いた役をやってくれる人が出て来て本格的に稽古を続けている。綱渡り劇団の真骨頂か……『貧すれば鈍す』は世間一般の相場だが、劇団の場合、苦しい時に新しい力や若手が演劇人らしくなってくれる。石田君なんかも法月君、岡村ちゃんに続き劇団の顔になってきている。事情があってしばらく出れないが、亀山さんなんかも連休中道具作りを手伝いにきてくれたり、お手伝いの40歳の女性が来てくれたり。ホント、有難い話だ。
とはいえ、観客の方には芝居の出来だけが意味を持つ。芝居が悪ければ、劇団の事情がどうのこうのではない。もう一度観てもいいと言ってもらえるような出来にするため、もう一頑張りである。
今回は、役がひとつ決まらなく苦戦している。今回はと思っているが、よく考えるといつもそんな問題を抱えてやってきたというのが事実だ。作品を書く時にその時いる劇団員を出す想定なのでアクシデントで劇団員が出れなくなると穴があく。そして、役をやってくれる人を探して苦戦する。今まではそれで乗り切ってきた。今回も多分乗り切れるだろう。こうして人を探している時に、意外と今という時代が見えてくる。昔は、男を捜すのがほとんどだった。最近は女性を捜している。その中で思うのは、男はさほど変化していないが(いい意味とは限らない)が、女性は変わってきていると思う。一時期、女性は圧倒的に男性より優れていた。女性の特質を持ちながら男性と同じように社会性を身につけていこうとしていた。今はどうだろう?……女性の特質を持っている女性が少なくなってきたというのが実感だ。
性の問題は難しい。男女同権が教育上確立している。女性らしさ、男性らしさは問題にするとセクハラになりかねない世の中だ。しかし、社会構造はまだ男性中心の悪しき習慣を引きずっている。そして、男性も女性も閉塞感の中で自らの性を失っているように見える。見えるだけだろうか?
春の公演の台本が出来上がり、一段落というところです。静岡市の合併・政令市移行で静岡の文化団体連合会も清水と合併し、静岡市文化協会となって4/1以降活動していくことになります。時代は当然流れていく訳で、先日劇団員の募集をぱどとアドポストにしたけれど、問合せが1件という結果でした。10年前は20件の問合せはありました。これも時代の流れなんでしょう。今の若い人にはアマチュア演劇は単なる自己満足の集団に過ぎないのかもしれません。昔はアマチュアイズムなる考え方がありましたが。別に昔は良かった式の愚痴を言ってるつもりはありません。演劇の優れたところは、時代の中で生きていくことです。生のお客さんの前で演じ、その場だけで消えていく演劇は観る人にだけ伝わる芸術ですから。
しかし、私自身ももう少し成長したいと思うこのごろです。なんか、成長してないと、つまんないです。そのためには、日常での努力が必要なんですが、だんだん怠け者になっていく感じです。先日、職場の先輩の奥さんが亡くなりました。53歳で……いい人は早く死んでしまうんでしょうか。悪い奴は80歳になっても権力を握り続けようと……とりあえず、合掌
映画「オペラ座の怪人」を観に行ってきた。舞台とは違った迫力があり、久し振りに感動した。監督が原作に
近い年齢(18歳)の女優をどうしても使いたかった。舞台では毎日歌い続けるために18歳のヒロインを使うことが出来ないからと言っていたが、映画を観て、その理由がよく分かった。10代の持つ恋愛への迫力、それはまさに10代でしか表現出来ない。20代、30代では陳腐になってしまう恋愛への強い感情……羨ましいやら、恐いやら。しかし、僕にはもう確実に表現出来ないことだけは確かだ。
親しい人と話をしていて、最近の若者は壁を感じないということが話の中に出て来た。壁が無いから、成長しないんだと。僕も、今の若い子はジャンプの原田選手とその辺でスケボーしてる若者を同じレベルで格好いいと思っているのはおかしいと続ける。世界と勝負しているのと、自己満足でスケボーしているのは明らかに同じじゃないって言いたい。演劇でも同じだけど。
と言うところで、次回作のお話。仮題『もう一度会いたい』、医療の問題に悩む青年医師がある人達との触れ合いの中で何かを感じていくというお話。でも、病院のシーンは一度も出て来ない。金が無くて舞台装置に凝れない現実が、こんな設定をさせる。でも、そのことが新しい可能性を作ってもくれる。壁は人を成長させてくれるのだ。ま、しかし、それはいい作品が出来たらの話。頑張ります、僕に出来る限りで……
プロ野球が初めてストに入った。自称阪神ファンの僕ではあるが、最近はサッカー中心で野球は真剣に見ることはなくなった。サッカーは世界的だが、野球はそうではないというのが大きな理由かもしれない。しかし、今回の騒動で「たかが、選手ごときが……」と言った巨人渡辺の言葉は心に強く残った。これが、経営者の感覚なんだなって。私達サラリーマンもまた、その経営感覚の下に置かれている。これで上司の命令は絶対なんて言われた折にはホントやってられない。経済はすべての世界より時代に先行していると言われるが、これでは日本の未来はない。そろそろ本気で自分のポリシーを言わなくてはいけない時代になったのか。人とのつながりを大事にして自己主張はあんまり好きじゃないけど。
演劇もどこかで世の常識と戦っている。そうだ、劇団RINも戦っている。軟弱な集団ではあるが。
今度一度、そんな話をみんなとしてみたい。出来れば、劇団RINに関わってきたすべての人と。
主宰の部屋にコメントを書くのも半年ぶりになってしまいました。う〜ん、日々、忙しいのか僕が怠け者になったのか……両方なんでしょう。やはり、年を取るとムキになる感情が弱くなるんでしょう。たとえ思うところがあっても、それを短期間でなんとかしようとは思わなくなった。短期間で変わるものは短期間で戻る……長い時間をかけて築き上げたものはちょっとやそっとじゃ崩れない。劇団の歩みは、そういうものじゃないだろうか。若い劇団には、若い劇団の歩み方がある。でも、RINの歩み方もあるんではないでしょうか。
ところで、今、劇団RINは新人あり、出戻りありでにぎやかです。役者は少しずつ成長してきたのは確かです。また、もっとうまくなりたいという気持ちも強い。後は、それをうまくリードしていくだけだ。うまくなりたい気持ちがあっても、やはり今時の若者だ。自分に対してストイックに厳しくはなれない。つまり、一人ではうまくなれないということだ。しかし、その分、素直になれる。スポーツで教え方が変わってきたように、演劇の世界でも教え方を変える必要がある。そのことを理解しながら、他の劇団とも協力し合い静岡の演劇のレベルアップを図りたい。
芝居を続けて何年経ったのか? 多分、僕の能力はとっくに限界になっているはずなのに、今度の芝居が一番良かったなんて言われると正直困ってしまう。次を書く力が僕にまだあるか? ホントは無いはずだ。しかし、多分次も僕は書くんだろう。なにせ、もう題も決めているんだから。演出としては、まだやり残してることはある。多分、僕はもう少し演出出来るはずだ。役者を育てなければ、演出の妙は出ない。まだまだ、RINの役者は学ぶことが多い。演出の意図に気づいて舞台に生かすには力が必要だ。そこまでになる役者を育てることが、また、演出の力でもあるんだろう。状況と体力は悪いが、とりあえず出来るだけのことはしようと思う。僕たち大人は、若い人に道をゆずる前に自分の生き様を見せて去らなくてはいけない。それが、大人の責任だ。大人が大人の責任を放棄してしまったら、若者に嘘をつくことになる。
お客さんには、芝居を楽しんでもらいたい。舞台の世界で遊んでほしい。そして、少しだけ泣いたり笑ったりしながら、家路についてもらう。それが、僕達に出来る精一杯のことだから。今年も頑張りますので、しばらくは劇団RINに付き合ってやってください。
台本が出来て約1ヶ月、最後の配役が決まり、稽古も徐々に進んでいる。今回は、あらためて若者の気持ちの難しさを感じた。しかし、結論が出た訳ではないので、その話はまたいずれということにして、今回は我が家の犬について語ろう。
名前は、ハナビ、柴犬の雄、2歳である。上の写真を見ても分かるように家の中を自由にしている。正確に言うと家の中で飼っている訳ではなく、小さな庭と家の中を自由に動いているのである。
分かる言葉:ハナビ(自分の名前)、散歩、まて、お座り、伏せ、お手、おかわり、バンザイ、行くよ、そっ
ちじゃない、ご飯等
出来ること:お座り、伏せ、お手、おかわり、バンザイ、待て
特技:脱走
バンザイは背骨に悪いのでもうやらせない。ドライブは好きで窓からずっと外を見ている。可愛いから愛されるのか、愛されるから可愛いのか分からないが、かなり感情表現が豊かである。喜ぶし、甘えるし、すねる。もしもしや顎のっけ攻撃で自分の意志を伝える。家の近くに遊水地公園があり、犬がたくさん集まり、放して遊ばすことが出来る。雌犬が大好きである。
今回も、ぎりぎり作品が書けた。20年以上作品を書き続け、どうしても書きたいという欲求は少ない。ただ、今これを書いておきたいという使命感みたいなものはある。劇団員がいる限り、それは無くしてはいけない感覚だろう。ただ、今回は個人的な思いもあった。自分を見つめ直したいという気持ちもあった。いつの間にか、人間として流されている部分も感じていた。太ったということも、そんな怠惰な感情の結果だろう。もう、しゃかりきに頑張らなくても許されるんじゃないか? 頑張るのは勘弁してよっていう心の声もある。が、どたん場では、いい作品を書こうとする自分がいた。ほんと、ぎりぎりだ。
自分を信じて付いてきてくれる劇団員がいるということは、凄いことだ。もし、彼等・彼女等がいなければ、僕はただのおじさんになっているんだろうなと思う。
今回の作品は、それなりに凄いと思う。後は、役者がどこまでやれるかだ。が、これは偶然だ。偶然書けた。僕はもう一度、自らいい作品を書く熱意を取り戻さなくてはいけない。この次は、偶然に頼らない作品づくりをしていこう。男としては魅力はなくなったが、人間にはなれるはずだ。
公演が終わって、まだ一週間ちょっと。なのに、いろんなことが起きた。いい悪いは別として、若い人は行動が早すぎる。若くなくてもそういう人はいるけれど、少し自分の気持ちは自分が一番よく分かっているという過信があるのではないだろうか? お客さんの感想もそうだ。観劇した直後の感想と時間をおいた時の感想は少し違ってくるのではないだろうか? 観た直後はあそこがいいあそこが悪いと思っていても、時間の経過と共に心に残ってくる場面は違ってくるのでは……劇団員にしてもそうだ。私の知る限り、多くの劇団員は公演直後は『もう芝居は終りにしよう』と思うものだ。特に全力投球でやった人で芝居を始めて2年以上の人はその傾向が強い。アマチュアで芝居を続けることはそれほど過酷だということ。しかし、二週間経ち、肉体の疲れが取れると、『あの場面はあぁすればよかった、あの時の役の気持ちはこうだったんじゃないか……』と思いはじめ、一ヶ月を過ぎて精神的な疲れがとれると『もう一度、やってみてもいいかな…』と思ったりする。そして、その時、他の劇団員と話をして、この仲間ともう一度芝居したいなって思ったら、また芝居を続けることになるだろう。その時その気持ちを受け止めてくれる劇団員がいなければ続けることは出来ない。人間は自分で思っているほど強くはない。自分の気持ちも周りの人の気持ちで変わる。そして、それは悪いことではない。熱い心と、静かなやさしさ……そんなものを探して私は芝居の世界にいると思う。
キャスティングもおおよそ、オッケーになり、稽古もだいぶ熱をおびてきた。今回は、長年の懸案だった男性陣の強化・レベルアップがなんとかなりそうだ。RINは昔っから、女優陣はすごいが、男性は……と言われてきた。別に今までの男性が能力がなかった訳ではないが、女性に比べれば男は役者になりにくいのはしょうがないことで、女性なみになるには、女性の3倍ぐらい努力しなくてはなれない。ともあれ、春の新緑が心を躍らせるように、役者が成長していく姿を見るのは、いいものだ。幸い、今回の芝居は、群像の芝居。まさに、頑張った役者が輝くという、ライバル関係が生じる芝居、誰が抜き出るか?、全員頑張れるか?久々に演出としても、攻めの演出に徹することが出来る。それに、男中心の芝居だからといって、我が女優陣が黙って主役の座を渡すはずもない。良い意味の緊張感が流れている。頑張れ、男性陣!
6月公演の台本が出来上がり、少し余裕が出来てきました。今回は、劇団RINが正常に発展していく為には、どうしても男性陣の頑張りとレベルアップが必要と考え、男性が中心の本格的時代劇に決めました。幸い、出野君と芳秀さんという強力な新しい劇団員が加わり、すでに殺陣の練習を半月以上積み重ね、先週金曜日は本読みに入りました。芝居は絵に描いた餅ではないので、いくら理想を言っても公演の出来が悪ければ、理想は単なる言い訳に過ぎなくなってしまう。RINもここ2年近く、理想を言えない耐える時期を過ごしてきましたが、ようやく理想を少し語れる体制になってきました。今回は、レベルの高い稽古をして一気に役者のレベルを上げていきたいと思っていますし、現メンバーはそれに応える意欲と素質があると思っています。代表としての贔屓目(ひいきめ)でなく。演出としても今まで以上に頑張りますので、応援よろしくお願いします。
津田ちんが、掲示板に書いてくれましたが、劇団のことを考えてくれる気持ちは嬉しいけど゜、代案が少し安易かなと思って少し書きます。これは多分、今の若い演劇関係者に共通した認識でもあるから。
まずオリジナリティーというのは、それほど安易なものではないということ。確かに台本に出てくる題材は、愛であったりする訳だけど、どの愛をいいとするのか、例えば、不倫はいいとするのか悪いとするのか?どういう不倫ならいいのか?不倫はよくないが愛のない夫婦よりましと思っているのか?それよりもよくないと思っているのか?
オリジナリティーというのは、一つの出来事にどういう切り口で書いていくかが大事なのです。そして、そこにどういうキャラクターの登場人物を作るのかが。魅力的な人物を描き出さない限り、そこにはオリジナリティーは生まれない。借り物じゃ駄目なんですね。盗作なんてもっての他。そして、それが演劇である以上、どういうドラマツルギーを組み立てるかが更に作品の深みを決める。ドラマというのは、それが静かな演劇であっても確かなドラマツルギーに支えられていなければ演劇になりえない。
という訳で難しいことを書きましたが、本当はもっといろいろ書きたいのですが、結果がすべての演劇。どうして作ったかではなく、何が出来たかでしかないので、これ以上はまた。ただ、限られた人間とお金の中だからといって、思いつきで作品を書いてる訳じゃないことが分かってくれればいいです。
そろそろ、春の公演の台本を書き始めなければいけない時期になった。案は二つ、一つは出野君という男の子が入ったし、大塚さんも春は出れそうなので久し振りに時代劇を。もう一つは、古い時代の青春を描くというもの。古い時代とは、私の青春時代ということだが。
しかし、どちらも一長一短だ。時代劇はやはりドラマチックでなければならない。当然立ち回りなどないと様にならない。が、斬られるだけの役者はいない。登場人物は少なくてもいいが、ただ斬られるだけの役者は必要だ。
青春グラフティーは、ともすれば静かな劇になりがちだ。よりリアルに考えれば人生にそんなにドラマチックな出来事は続いて起こらない。必然的に内面を表現出来ないとただのどこにでもある恋愛劇になる。そう、芝居のオリジナリティーの大半が役者の技量にかかる。しかも、古い時代の青春物となると劇団員とのギャップをどう埋めるかは役者の想像力にゆだねなければならない。役者が良くないと『嘘の恋愛、青春』になってしまう。観客はしらける。
ということで、しばらく悩みそうだ。劇団員に声を小さく言いたい。「次の台本はいつ出来るの?」と簡単に言わないように……
昨年十二月半ばに公演を行って、そのまま年末に。今回の公演はかなりハードな稽古だったので、正直疲れた。劇団員の中にも体調を崩す者も多かった。他の劇団の人からは、長く劇団をやっていく姿勢ではないと注意された。
しかし、僕個人としては、いくら『継続は力なり』といっても、ただ長くやるのはどうかと思う。少なくても自分は、そういうことが出来ないタイプだと思う。やはり、いい芝居をうてる可能性があるから頑張るのであり、落ちていくだけの劇団ならいさぎよくやめる覚悟がある。いつやめても悔いのない頑張り方をしてきたつもりだから。
今年は、今までより登場人物の少ない芝居を作るつもりだ。結成以来16年。過去のスタイルではカバー出来ないほど世の中は変化してきている。劇団員の数も昔のようにはならないだろう。広げる努力より、高いレベルの芝居を作る努力を。稽古も密度の高い稽古をしていく為には、少人数の方が効果的だ。もちろん、役者にやる気があることが前提だが。
『水清くして、魚住まず』、今まで若い人に自分を押し付けることは好まなかった。それはどんなに言葉で飾ってもエゴだからだ。しかし、清くあろうとする努力が効果があったかは疑問だ。それぞれの理由で劇団を去った人達は、自由であったゆえに新しく自分達の芝居を作るエネルギーを強く持てなかったのでは。僕がもっと自分を押し付けていたら、強い反発の中、そうしたエネルギーが生まれたかもしれない。
ともかく、これぞRINという芝居を追及してみよう。今の若い人が理解しずらくても。対立の中から、また別の道が見えてくるかもしれないから。
東京研修もようやく3週間を過ぎ、残り1週間になった。劇団員にも迷惑をかけてるし、稽古も少しテンションが落ちているのかもしれない。しかし、あんまり焦ることはなくなった。ケセラセラ、なるようになるさ〜♪ 無責任という意味でなくl理想というものの非人間性に気付いたせいかもしれない。こうありたいと願いながら、人間はほとんど希望通りに生きられない。その弱さがしかし人間らしさなのだとも思う。鉄の意志を持つ人間を英雄視してきたのは過去の誤った思想だ。ただ、『弱い』ということと『ずるい』ということは違う。ずるい人は自己チュウで、他人に対してやさしさがない。また、人にやさしいから弱いのかもしれない。僕達は、こんな小さな違いを守って生きているのかもしれない。ともかく、後1週間で、通常に戻る。頑張ろう!
知人が、トラクターの横転事故で死んだ。有機農法を先駆者的に始め、長野県の八千穂村で無農薬野菜を作り、手作りの家を建て、最近はゴミ問題にも取り組んでいた。こういう出来事があると、いつも思うのは、才能のある人間は早死にし、才能のない無用な人間が生き残るというパラドックスだ。もちろん、僕も才能のない無用な人間の一人だ。しかし、無能なりに残された者の責任は負わなければならない。
では、才能とは何だろう? 自然や人間に対して真摯な愛を持てることだろうし、その中でオリジナリティーを確立していける人だろう。ここで、才能のある人を定義したい訳ではない。才能のある人の死を目の当たりにすると自分さえ良ければと思って生きている人達に腹が立ってくるのだ。特に、自分は何も悪いことはしていないと思っている無神経な大人達には頭に来る。今の日本を作ったのは今の大人達であるのに、まるで自分は何も悪いことをしていない風に振る舞っている大人達だ。自分は日本を変える力もないし、そんなポジションにもいないと責任逃れし、高度成長期の恩恵を受けて小金を溜め込んだ一般人も責任はある。何も悪いことはしてこなかったという裏には、何もいいことをしてこなかったという事実がある。人を傷つけても気付かない鈍感さが、事件を生むことを僕達は知らなければならない。……
本当は不真面目で、下手な冗談を言って顰蹙を買う、ノー天気な僕がいつまでこんな真面目なことを書かなくてはいけないのだろうか? 出来れば早く、ただ笑っているだけの人間になりたい。
芝居をやる人間に何故変わり者が多いのか? それは、人間を正当に評価することのない世間(社会)の中で、なお、自分のプライドと正当の評価を目指す人が芝居をやるからではないだろうか。学歴社会や学歴派閥、親の七光りなど本来その人の人間性、能力に関係ない。歌舞伎や能・狂言はともかく、現代演劇においては学歴も役に立たないし、親の七光りも関係ない。
しかし、哀しいかな、不当な評価を強いられたきた人間は性格が歪む。実は、私は自分のことをごく普通だと感じてきたが、やはり人から見るとおかしいらしい。普通と思ってきたから性格が歪むことはなかったはずなのに、どうやら性格も歪んでいるらしい。まぁ、今更、人に善く思われたいとも女性にモテたいと思っていないから歪んでいてもいいのだが。
しかし、最近の劇団員を見ていると、なんかこっちがドキッとするワルがいないので僕としてはちょっと困る。昔はかなりワルがいた。おかげで僕がまともな人間に思われる恩恵に浴することが出来た。いい人間の評価は相対的だ。ワルが多ければちょっとしたワルはいい人間に見てもらえる。しかし、みんな心やさしいと僕なんかは嫌味な男に変わる。いや、僕が変わるのではない。僕の評価が変わるのだ。願わくば、僕が普通に見えるぐらいに劇団員の中に嫌われ者が出てほしい。
公演が終わって、約3週間。肉体的疲れは取れて精神的にも大分リフレッシュ出来た。掲示板のやりとりを見ていると、劇団員も大分元気になったようだ。今回は、ワールドカップのおかげでかなりスッキリ演劇の世界を一旦切って休むことが出来た。若い人はともかく、僕のように二十年以上も演劇と関わっているとどう気分転換してエネルギーを溜め込むかが鍵になる。引きずると次の公演に悪影響が出る。僕は、本当に能力のある人は気分転換のうまい人だと思う。仕事でもそうだが、四六時中仕事仕事という人はいい発想をしていないと経験上感じる。二十歳前後ならともかく、三十過ぎて集中力はそんなに長く続かない。にもかかわらず、仕事仕事という人はハッキリ言って仕事に流されている。そういう状態ではいい発想は生まれない。真面目だけで許されるのは若いうちだけだ。遊び心のない人は、いい上司にはなれない。あるサッカー解説者が言っていた、外から見ると良さが見える。だから、外国人監督はいいんだと。裏返すと、中から見てると欠点だけが見えるということか。RINの中にいるとRINの欠点しか見えない……とも言える。だとしたら、うまくリフレッシュして外からRINを見る余裕を持てということになる。RINを辞めてRINの良さに気付いたとしても遅いということも言えるかもしれない。まぁ、それほどRINの芝居に価値があるとは思えないが。まぁ、『言うは易し、行うは難し』。とりあえず、いいオフを過ごそう。その先湧いてくるエネルギーの大きさと強さが次の公演のバロメーターだ!
公演一週間前、いつものことだが、劇団員のテンションが高くなるのと反比例するかのように演出としての僕の心は静かになる。何か落ちがないか、後どれくらいレベルアップ出来るかと、小さな不備や可能性を冷静に探す。一見、格好良さそうなこの心境も、とどのつまり公演が始まってしまえば何も出来ない演出の無力さを現しているだけだ。演出と役者は共同作業をすることはあっても、心は同じになれない。幸い、僕は公演の時は舞台監督をやったり音響をやったりするので、客席の隅でポツンと芝居を観るという辛さは味わわずにすんでる。
ところで、最近劇団員の入れ替えが激しい。特に男性は……RINが抱える特殊な事情はあるが、それにしても今の若い男性の気持ちのサイクルは短い。石の上にも3年なんて言っていたら、リストラの対象になってしまうとばかりに簡単に辞めていく。僕には芝居の良さが3年で分かるとはとても思えないが。それと辞め方が昔と随分違う。まるで、ファミコンゲームをリセットするかのように辞めていく。恋人と別れたら、携帯電話を換えるのも同じことかもしれない。すべてが点であって、線になることがない。アナログ世代の僕としては、心はリセット出来ない。リセットを繰り返し美しいものを追い求める心やさしい若者と、リセットしないで引きずりながら何かを求める僕達との接点はどこかにあるのだろうか?
長いこと芝居をやってると、いろんな出会いと別れがある。特に主宰であれば、稽古見学希望者や他の劇団関係者、他のジャンルの人とも交流が出来、それが二十年以上続くと、顔と名前が一致しない人も当然ある。
RINという集団に限っても、辞めていった人はかなりいる。今でも公演を手伝ってくれる人。時々RINを心配したり、なつかしく感じて電話をくれる人。あからさまに劇団や中村を批判して去った人。仕事が忙しくなったと言いながら、劇団や中村に対する不満を抱えて去った人etc、etc……。
人が感情の動物である以上、どんな理想も人間性次第で、良くも見え悪くも見える。若い人を見ていると、自分の感情を正当化しようと必死に理屈と攻撃相手を探しているように見える。いつ頃からだろうか、落ち込んでも反省しない人が増えてきた印象がある。古い人間の僕としては、挫折や苛立ちの中、何故そうなのかを問い自分の心の狭さを見つけ変えようと努力してきた気がする。変わったかは分からないが……。しかし、落ち込むことはあっても、何故そうなるかを省みず、理解されない状況をなげくだけ人が増えた。『何故、理解してくれないのか?』『何故、私の僕の気持ちを分かってくれないのか?』『何故、好きなのに……』その問いに、人に理解されない、好かれない自分の資質への問いかけはない。時にある人もいるが、今度は完全に心を閉ざしている。それはそれでいいのかもしれないが、それでは産んでくれた親のことを考えると辛い。
僕が演劇を続けられてこれたのは、演劇が総合芸術の名のもとに、ベターの世界だったからかもしれない。0か100の完全主義ではやれないベターの世界。良くなかった、少し良くなかった、どちらでもない、少し良かったの世界。完全という言葉は演劇にはない。何故なら、演劇は作者と演出と役者と観客で成り立っているのだから。そのすべてが完全であると言える人はまずいないだろう。そして、これは人間関係と同じものだ。相手がいる以上、完全な関係はない。仮に出来たとしても第三者のよこやりが入る。そして、また悩み、苛立つ。でも、それが普通なんじゃないのかな。自分の感情ばかりに囚われると、この普通が見えなくなる。
そして、憎しみに囚われた人は哀しい。そこには、人を攻撃するエネルギーはあるが、それ以外はないから……
偉そうなことを書いてしまったが、僕に人に意見するほどの人間性はないけど、芝居にはきっとある。だから、芝居を観てほしい。
長くなりました。続きは、また
最近、よく夢を見る。多分、夢はいつでも見てるのだろうが、それを意識出来るほど普段は時間的な余裕がないのだろう。夢云々より、起きなくちゃ、もっと寝ていたい……そんな中で夢を思い出す前に日常に入り。
ということは、最近時間的にも精神的にも余裕があるのだろう。確かに、自分の中に諦めにも似た落ち着きがある。たとえば、もう女性にはモテることはないだろう。人間としてはともかく男としては歳を取り過ぎ、醜くなった。少し前までは、分かっていてもどこかあがきたい気持ちがあった。が今はもうない。劇団に対しても似た感じだ。劇団を良くしたい。しかし、自分の力以上に劇団は良くならない。以前は、よく気持ちが空回りした。良くしたい気持ちが反って劇団員にプレッシャーになり劇団員の気持ちを萎えさせていたところもあった。今は、良くも悪くも流れにまかせている。やれることをやったら、後は運次第ってとこか。
今度の劇は、そんな最近の僕の夢の中からヒントを得た。霧の中……意識していない心の向こう側か。
そろそろ、台本も100ページを越え、大詰めの段階に入った。いつものことだが、この時期は少し気持ちにゆとりが出来る。まあ、一番辛いのが、このアイデアが台本になるかどうか分からない時であり、一番気楽なのが、公演が終わって次の台本を書く必要のない時である。若い時と違って、どうしても書きたいものがいつも心の中にある訳ではない。考えてみれば、50本以上、もしかしたら100本近い台本を書いてきたのだ。書き尽くしたとは言わないが、パッと考えてどうしても書きたいというものがあるという方がおかしい。第一、今ごろそんな風に思うほど、いい加減に書いてはきていない。
しかし、時代の中で言いたいことは出てくる。自分の子を平気で虐待死させる母親の記事を見ると、理解出来ないという以上に胸が苦しくなる。それだけはないだろうと……そんな気持ちを心の片隅に置いて、今回は作品を書いている。愛に苦しむのは昔も今も変わらない。でもね……僕達は、笑って生きていたい。どんな絶望も、希望を消し去ることは出来ない。少なくとも、心許せる人がいる限り