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尼子家

尼子経久 あまご つねひさ (1458~1541) 尼子家
 出雲の守護代。月山富田城主。毛利元就宇喜多直家と並ぶ中国三大謀将のひとり。父の代から美保関の関銭や寺社領にかけられた段銭を横領して勢力基盤を築いていたため、一時期、幕府や守護・京極政経から処罰され守護代の地位を追われた。しかし、勢力は維持し続け、やがて守護代に復帰、出雲大社の造営を行って権威を示すと同時に敵対勢力を駆逐、屈服させ、京極家が断絶すると事実上出雲の支配者になった。その後、西の大国・大内家と互角の戦いを繰り広げながら山陰、瀬戸内にまで勢力を広げ、全盛期には十一カ国を支配するまでに至った。長男には先立たれていたため、80歳近くになって嫡孫・晴久に家督を譲って隠居する。1540年に晴久が大内方の毛利元就を討つべく兵を挙げると、内心反対しながらも止めることができず、晴久は大敗。逆に勢いに乗った大内勢が出雲に侵攻する動きをみせる中、月山富田城内で亡くなった。敵には「謀聖」とまで呼ばれ恐れられた一方、「天性、無欲、正直な人」とも称され家臣や民衆には寛大であったといわれる。


尼子晴久 あまご はるひさ (1513~1560) 尼子家
 出雲の戦国大名。経久の嫡孫。初名は詮久。父が早世していたため、祖父・経久から家督を譲られ当主となる。家督を継いでまもなく、祖父に反対された吉田郡山城攻めで、毛利元就と大内家の重臣・陶隆房(晴賢)の連合軍に大敗を喫するが、その勢いに乗って出雲に侵攻してきた大内義隆を撃退して勢力を保ち、全盛期には、室町幕府13代将軍・足利義輝から山陽・山陰8ヶ国の守護に任命された。その後、宗家と同等の権力を持っていた叔父・国久とその子・誠久を粛清して権力の集中化に成功。しかし、国久らが率いていた戦闘集団・新宮党を失ったことは、戦力的な弱体も招き、大内家を滅ぼして勢いにのる毛利元就の侵攻に悩まされた。存命中は元就相手に一進一退の攻防を繰り返して侵攻をよく防いだが、1560年に急死した。


尼子義久 あまご よしひさ (1540~1610) 尼子家
 出雲の戦国大名。晴久の子。父・晴久の急死により家督を継いだ。晴久は粛清などで権力の集中化をはかり効果を得ていたものの、不安材料がなかったわけではなく、急死したことで問題が露出し、尼子家中は混乱した。その状況下で家督を継いだ義久は、敵対していた毛利元就と石見不干渉を約束して一時和睦するが、老獪な元就に翻弄され、徐々に領土を失う。最後は月山富田城で籠城戦を展開。しかし、兵糧攻めにあって降伏し大名・尼子家の最後の当主となってしまった。その後、長い幽閉生活を経て安芸国内に居館を与えられ、毛利家の客将として遇された。


尼子国久 あまご くにひさ (1492~1554) 尼子家
 出雲の戦国大名・尼子家精鋭の軍事集団「新宮党」の当主。経久の次男。娘は晴久の正室。父・経久に「文には疎いが、戦にかけては鬼神の如き」といわれた猛将。新宮党と呼ばれる戦闘集団を率いて各地を転戦し、経久の十一ヶ国支配に多大な貢献をした。経久死後も、晴久の後見をつとめ、備後、伯耆などに遠征して尼子家の武威を示し、晴久が山陽・山陰8ヶ国の守護に任命されるきっかけをつくる。しかし、当主・晴久と同等の権勢を誇っていたため、それに驕って、子の誠久をはじめ新宮党には横暴な振る舞いをする者が多く、次第に疎まれるようになる。そのため、晴久の正室だった娘が亡くなると、これを契機として誠久と共に粛清されてしまった。


尼子誠久 あまご さねひさ (1510~1554) 尼子家
 尼子家精鋭の軍事集団「新宮党」の当主・国久の長男。父と同様、武勇に優れたと伝わっており、父の率いた新宮党の一員として各地を転戦して尼子経久の十一ヶ国支配に貢献した。経久死後も当主となった晴久を支えたが、新宮党の権勢を疎んだ晴久によって父と共に粛清された。武勇を笠に着た横暴な振る舞いが多く、粛清の一因になったといわれる。


尼子勝久 あまご かつひさ (1553~1578) 尼子家
 誠久の五男。生まれてすぐ、父が当主・晴久によって粛清されたため、家臣の手によって京都へ逃れた。その後、僧となっていたが、尼子家復興を目指す山中鹿之介(幸盛)らによって擁立され還俗した。織田信長の支援を受けて毛利方の上月城を攻め落とし、そのまま守備についたが、再び毛利軍に城を包囲され城兵の助命を条件に切腹した。


尼子久幸 あまご ひさゆき (?~1541) 尼子家
 経久の弟。経久、晴久(経久嫡孫)に仕えた。1540年、経久からすでに家督を譲られていた晴久が、尼子家から大内家へ転身した毛利元就を討つべく、吉田郡山城攻めを決めると、無謀であると猛反対したが、「臆病野洲」と罵られた。不本意ではありながら晴久が吉田郡山城ぜめを決めるとこれに参加。懸念していたとおり、大内家の援軍・陶隆房(晴賢)が到着して不利な状況になると、晴久を逃がすために奮戦し討死した。


宇山久兼 うやま ひさかね (1511~1566) 尼子家
 尼子家臣。経久晴久義久の三代にわったて仕えた。経久、晴久が亡くなって義久の代になり、毛利元就の攻勢によって尼子家が衰退していく中でも義久をよく助けた。月山富田城毛利元就に包囲されても私財を投げうって兵糧を確保し、籠城戦に貢献していたが、毛利家との内通を讒言され、それを信じた義久に処刑された。久兼の死により、城内の士気は下がり、義久の降伏へと繋がった。


川副久盛 かわぞえ ひさもり (?~1569) 尼子家
 尼子家筆頭家老。経久晴久義久の3代にわたって仕え、のちに尼子家再興のために擁立された勝久にも仕えた。晴久の時代には美作方面司令として活躍し、備前、播磨にも出陣した。義久の代になり、毛利元就が出雲に侵攻してくると月山富田城に入り義久が降伏するまで付き従った。1569年、山中鹿之介、立原久綱と共に尼子家再興を目指すが結果を見届けることなく病没した。


立原久綱 たちはら ひさつな (1531?~1613) 尼子家
 尼子家臣。山中鹿之介の叔父。晴久義久に仕え、のちに尼子家再興のために擁立された勝久にも仕えた。毛利元就が出雲に侵攻してくると、鹿之介と共に活躍するが、最後は月山富田城に籠城し、義久が降伏を決意すると、その申し出の使者となった。降伏後は毛利家からの誘いを断り、京都に隠棲した。1569年、鹿之介、川副久盛らと共に尼子家再興を目指すが失敗し捕虜となるが脱出し、蜂須賀家に寄っていた娘婿を頼り阿波国に移り住んだ。


本城常光 ほんじょう つねみつ (1513~1562) 尼子家
 石見の国人領主。はじめは尼子経久に仕えたが、経久の跡を継いだ晴久が、吉田郡山城の戦いで大内・毛利連合軍に大敗すると、大内方へ寝返った。その後、大内義隆に従って出雲侵攻に参戦するも、月山富田城攻めに手こずると、吉川興経らと共に再び尼子方へと寝返る。武勇に優れたため、晴久には重用され、石見銀山を毛利家から奪取すると、そのまま守備につき、毛利勢から銀山を守り続けた。しかし、1561年に晴久が急死。跡を継いだ義久毛利元就と和睦すると、見捨てられるような形で孤立したため、毛利家に降伏して石見の平定に協力した。だが、元就からの信頼は得られず、最後は謀殺された。


山中鹿之介 やまなか しかのすけ (1545~1578) 尼子家
 尼子家臣。諱は幸盛。「山陰の麒麟児」の異名をとった勇将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという創作でも有名。尼子義久の近習として仕えるが、当時の尼子家は衰退の一途をたどっており、毛利方の武将・品川大膳を一騎打ちで討ち取るなど活躍したが、尼子家滅亡の憂き目にあった。その後は尼子家復興のために生涯を捧げ、京都で僧となっていた誠久の五男・勝久を尼子家当主として擁立する。織田信長の支援を受け一時は毛利方の上月城を攻め落として守備についたが、すぐに毛利家の反撃を受け城を包囲された。羽柴(豊臣)秀吉を介して信長に援軍を求めるが、信長も畿内の反乱分子を抑えるのに手一杯で、半ば見捨てられ、勝久の切腹を条件に降伏した。幸盛は捕らえられながらも再起をはかるが、護送中に殺害された。




大内家

大内義興 おおうち よしおき (1477~1528) 大内家
 大内家30代当主。大内家の全盛期をつくりだし、周防、長門、安芸、豊前、筑前、石見、山城の守護を兼任した西国一の大大名。京都を追われた室町幕府10代将軍・足利義材(のちの義稙)が本拠地・山口に下向してくると、これを奉じて上洛し、11代将軍・義澄と後ろ盾となっていた細川澄元を近江へ逃亡させて、義材を将軍職に復帰させた。その後、澄元の反撃を受け、丹波へ兵を退くこともあったが、最後は船岡山の戦いで勝利し、管領代として事実上天下人といえるほどの権勢を誇った。しかし、国元で尼子経久が暗躍するようになり、事態が見過ごせなくなってくると管領代を辞して帰国、領国経営と失地回復に専念した。安芸で経久の影響力が増していく中、毛利元就を味方につけるなど反撃の兆しをみせるが、遠征中に発病し、帰国してまもなく亡くなった。


大内義隆 おおうち よしたか (1507~1551) 大内家
 大内家弟31代当主。義興の嫡男。父の病死により家督を継ぐ。家督を引き継いだ当初は父の意志を継ぎ、東は尼子経久、西は大友宗麟(義鎮)と争って領土を拡大した。しかし、毛利元就と共に尼子晴久に大勝した吉田郡山城の戦い後、勢いのまま出陣した月山富田城攻めで大敗を喫し、その時の撤退戦の恐怖や養嗣子・晴持を失った失望から戦闘意欲をなくす。以後は文治派の相良武任らを重用して内政も顧みないようになり、和歌・連歌に没頭した。そうした文化への傾倒は、様々な文化を融合した「大内文化」を開花させたが、武断派の重臣・陶隆房(晴賢)らの反感を買い、最後は謀反を起こされ大寧寺で自害した。

<辞世の句>
討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)



大内晴持 おおうち はるもち (1524~1543) 大内家
 土佐の名門・一条家の当主・房冬の子。母は西国の大大名・大内義興の娘。叔父の大内義隆に子がなかったことから義隆の養嗣子となる。和歌や蹴鞠などに優れたため、文化人でもあった義隆にたいへん愛されたが、尼子晴久に敗れた月山富田城の戦い(第一次)の撤退戦で乗り込んだ船が敵に襲われ転覆し溺死した。


大内義長  おおうちよしなが (1532~1557) 大内家
 大友義鑑の次男。宗麟の異母弟。母が大内家出身であったため、大内義隆陶隆房(晴賢)の謀反で自害したのち、隆房によって擁立され大内家当主となった。しかし、厳島の戦いで晴賢が毛利元就に敗北して自害すると、勢いに乗った元就に抗えず、自害に追い込まれ大内家を滅亡させてしまった。


相良武任 さがら たけとう (1498~1551) 大内家
 大内家臣。大内義隆の右筆。義隆に内政能力を認められ奉行もつとめた。1543年、月山富田城の戦いで大内軍が尼子軍に大敗すると、政治に興味をなくした義隆に重用され、文治派として武断派の陶隆房(晴賢)と対立した。対立が激化すると、娘を隆房の子に嫁がせて和睦しようとするが失敗、最後は身を守るため、「陶隆房、内藤興盛に謀反の兆しあり」と讒言した。この讒言が文治派擁護の義隆と隆房の対立を決定的なものにし、遂に隆房に謀反を起こされ、殺害された。


陶興房 すえ おきふさ (1475~1539) 大内家
 大内家重臣。隆房(晴賢)の父で周防守護代。義興義隆二代にわたって仕えた。智勇兼備の将で義興の信頼厚く、和歌、連歌にも通じた。義興に従って上洛し、船岡山合戦などで活躍、義興の帰国後も尼子経久との戦いで武功を挙げた。義興の死に際し、大内家では当主が交代するたびに争いが起こっていたが、興房の人望と采配により義隆への家督相続が平和裏に行われたといわれる。義隆の時代になっても重用され、北九州で少弐家や大友家との戦いで常に活躍、戦功は家中随一といわれた。


陶隆房 すえ たかふさ (1521~1555) 大内家
 大内家重臣。興房の子。「西国無双の侍大将」と評され、後年は晴賢と名乗った。少年期は美男だったため、大内義隆の寵童として重用された。父の死により周防守護代を引き継ぎ、義隆の側近として活躍する。吉田郡山城の戦いでは大内軍の総大将として毛利元就の援軍に駆けつけ尼子晴久を打ち破った。その後、月山富田城攻めでの大敗で義隆が戦闘意欲をなくし、文治派の重用によって中央から遠ざけられると、謀反(大寧寺の変)を起こして義隆を自害に追込み、大友家から義長を迎えて当主に据えた。しかし、家中の統制をとりきれず、毛利元就の離反を招いてしまう。元就に対して物理的に圧倒していたが、あせりからか元就の術中にはまって側近を殺害してしまうなど精彩を欠き、厳島の戦いでも5倍近い兵力を有しながら奇襲戦法の前に敗退して自害に追い込まれた。

<辞世の句>
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に



江良房栄 えら ふさひで (1515~1554) 陶家

 陶晴賢(隆房)の重臣。毛利元就も一目おいた勇将。晴賢のもと、大寧寺の変吉見正頼との戦いで主力として活躍した。元就の力量をよく知っていたため、元就が大内家から離反すると、晴賢に和睦を進言したという。厳島の戦いを前に元就から内応を誘われるが拒否。しかし、内応に応じたと虚報を流され、それを信じた晴賢によって殺害された。一説には、実際内応に応じたが、破格の報酬を望んだため、見限った元就に、その情報を流されたともいわれる。


宮川房長 みやがわ ふさなが (?~1554) 陶家
 陶晴賢(隆房)の重臣。周防高森城主。大寧寺の変では、江良房栄と共に軍を率いて山口の大内館へ侵攻した。その後、毛利元就が大内家から離反すると、元就討伐のため、兵を与えられて出陣するが、折敷畑の戦いで元就の奇襲包囲戦法の前に敗れ自害した。


内藤興盛 ないとう おきもり (1495~1554) 大内家
 大内家重臣。長門の守護代。義興義隆二代にわたって仕え、陶興房と共に義興を助け大内家の全盛を支えた。義隆の時代になると家中随一の大身として重きを成す。月山富田城攻めの大敗後、義隆が文治派を重用しすぎて武断派との対立が深まると、これを収めるために義隆に隠居して家督を嫡子・義尊に譲るよう提案するが拒否される。陶隆房(晴賢)が謀反を起こした際にはこれを支持したが、直後に隠居し沈黙した。大内家滅亡後、娘が毛利隆元の正室になっていたため、五男・隆春が毛利家臣として重用された。


弘中隆包 ひろなか たかかね (1511?~1555) 大内家
 大内家重臣。安芸の守護代。名の表記は「隆兼」とも。家中でも智勇兼備の将として知られ、大内義隆のもと、主に安芸方面の攻略を担当した。大寧寺の変では陶晴賢(隆房)を支持し、その後も晴賢に従った。厳島の戦いの直前には、晴賢の命で毛利元就に内応したと噂のたった江良房栄を殺害した。安芸守護代という立場から元就と共に軍事行動をすることが多かったため、元就の力量を見抜いており、元就が流した偽情報に乗せられて厳島に渡ろうとする晴賢を止めようとしたが聞き入れてもらえなかった。結果、陶軍は惨敗、晴賢自害後も数日奮戦して討死した。


吉見正頼 よしみ まさより (1513~1588) 大内家
 石見の国人。大内家に属した。元は僧であったが、家督を継いでいた兄が不慮の事故で亡くなったため、還俗して家督を継ぎ、兄の正室であった大内義興の娘(義隆の姉)を娶った。義隆の信頼厚く、陶隆房(晴賢)が謀反を起こした際、義隆は正頼を頼って落ち延びようとした。しかし、義隆は大寧寺で追い詰められ自害する。そのため、隆房とは対立し、毛利元就と手を結んで対抗した。厳島の戦い後、元就と共に大内家を滅ぼし毛利家臣となった。


冷泉隆豊 れいぜい たかとよ (1513~1551) 大内家
 大内家臣。大内義隆の側近。義興、義隆二代にわたって仕え、大内家の水軍を率いた。武勇に秀でただけなく、和歌にも優れていたという。第一次・月山富田城の戦いでの敗北後、家中で文治派・相良武任と武断派・陶隆房(晴賢)が対立すると、仲裁のために奔走するが、不首尾に終わった。隆房が謀反を起こすと、義隆を守って大寧寺まで逃れるが、最後は義隆を介錯し、自身は敵軍へ突撃して討死した。