茶室建築由来記 茶室の由来
名古屋「志ら玉」の繁昌の気を頂く
それではどうするかということになりましたが、私はあまり考えもせず、名古屋市北区上飯田町の料亭「志ら玉」の茶室・笑庵の間取りを写させて頂くことにしました。笑庵へは時々、茶事で伺ったことがあり、大変使い勝手の良いことを知っていたからです。
この茶室は、元々大正時代に、名古屋の数寄者として知られていた「品友」の先々代が、京都から春日井市高蔵寺の別宅に移築したものでした。「品友」ではその建物を原叟座敷と呼び習わしていたようですが、それが京都の何処にあったものか、その由来ははっきりせず、ただ江戸中期をさして下らぬ頃の建築だということが分かっているだけだそうです。いずれにせよ、「品友」の先々代は生涯の普請道楽で、三日も大工仕事の音がしないと頭が痛くなったとか。そこへ、市の行政の都合で高蔵寺の別宅をどこかへ移さねばならぬという話が起り、たまたま料亭「志ら玉」の当主・柴山笑庵氏との縁によって、「志ら玉」の亭内に移築されることになりました。それは今から20数年前のことで、笑庵氏は20代、まだお商売を始めて間もない頃であったそうです。 ですから、今の「志ら玉」の茶室・笑庵には、「品友」の先々代の好みと笑庵氏の好みが加味されている訳です。(笑庵氏談) また、今の茶室は中京間で建てられていますが、大中寺ではそれを京間として作り、他の寸法はすべて「志ら玉」の茶室に準じました。しかし、寸法は同じでも、当然のことながら「志ら玉」と同じ素材は入手出来ない訳ですから、雰囲気は全く違った茶室になりました。 もっとも、その平面図が出来上がった時、私が最も頼りとしている茅ヶ崎のゝ庵さんを訪ねて間取りを相談したのですが、その時にはじめて気がついて驚いたのは「ゝ庵」と「志ら玉」と、この二つの茶室を出入りする主客の動線がまったく同じように考えられているということでした。ゝ庵さんの先代は随分と勉強してその茶室を建てられたのだそうですが、数寄者が道を求めて行くと、結局は同じ処に行き着くものでしょうか。 私はこの度、「志ら玉」の席を写したわけですが、本当に写したかったものはほかならぬその自然な動線と、今日の「志ら玉」の繁昌をもたらした笑庵さんの懐しいお人柄でした。 |
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