伊豆討ち入り
−関東戦国時代の幕開け−
国寺城に入った早雲は、今川氏の東の守りとして駿東を固める傍ら、伊豆国の動きに注目していました。伊豆の韮山には京都から派遣された堀越公方・足利政知がいましたが延徳3年(1491年)この政知が死去し、後継ぎを巡って内紛が起こりました。早雲はこの機を逃さず今川氏親から兵を借り、堀越御所を急襲して政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を殺し、伊豆の奪取に成功しました。
早雲による伊豆討ち入りは、関東の戦国時代の始まりといわれています。それまで自分を今川氏の一武将と考えていた早雲は、これをきっかけに自立し、戦国大名としての第一歩を踏み出しました。そのため興国寺城は、北条早雲旗揚げの城ともいわれるのです。
その後早雲は韮山に移り、相模攻めを開始します。そして小田原城を手に入れ、五代百年に及ぶ後北条氏の基礎を築き上げて、永正16年(1519年)88歳の大往生を遂げました。早雲以下北条五代の墓は、箱根湯本の早雲寺に営まれています。

北条早雲へ

<沼津市教育委員会資料より>