北条早雲と興国寺城
興国寺城(国指定史跡:沼津市)初代城主は、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)といわれています。この人こそ、関東の戦国時代の幕を開けた後の伊勢宗瑞(いせそうずい)、通常北条早雲です。早雲は後の小田原北条氏五代百年の繁栄の第一歩を、興国寺城にしるしたのです。
早雲は、最近の研究では永享(えいきょう)4年(1432年)、備中(岡山県)の生まれで、若い頃は室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の弟、義視(よしみ)に仕え、その後駿河守護(するがしゅご)・今川義忠(いまがわよしただ)に嫁いだ妹・北川殿(きたがわどの)〔桃源院開基様〕に招かれて、応仁2年(1468年)頃、駿府(すんぷ)〔静岡市〕にやってきたとされています。当主夫人の兄ということで信頼され、重く用いられていたようです。ところが文明(ぶんめい)8年〔1468年〕義忠が急死してしまいました。後継ぎの龍王丸(たつおうまる)がまだ幼く、家臣の中には義忠の従兄弟(いとこ)の小鹿範満(おしかのりみつ)を推す者がいて、今川家は跡目(あとめ)を巡って家中を二分する争いとなりました。
この様子を窺っていた関東管領(かんとうかんれい)・上杉定正(うえすぎさだまさ)や堀越公方(ほりこしくぼう)・足利政知(あしかがまさとも)が、今川家の家督(かとく)争いに介入する姿勢を見せるにいたって、早雲はその調停に奔走しました。結局両者の主張を採り入れ、龍王丸が成人するまで小鹿範満に家督を代行させるということで、話がまとまり今川家存亡の危機はひとまず回避されました。 早雲はこの後一旦京に上り幕府に仕え、長享(ちょうきょう)元年(1487年)に再び駿河に下向したと考えられます。当時元服(成人)は15歳が普通なのですがこの年17歳になっていた龍王丸に、小鹿範満は家督を返そうとしませんでした。  そのことを心配した北川殿が早雲に助力を要請したとみられます。早雲はそれを受けて密かに駿河に向かい、焼津の石脇城(いしわきじょう)に入りました。ここから駿府の様子を窺っていた早雲は、長享元年(1487年)11月9日軍勢を率いて駿府今川館を襲撃し、小鹿範満を討って龍王丸を実力で今川家当主の座に据えました。この龍王丸こそ中興の祖今川氏親です。
早雲は、この功績で興国城と富士郡下方荘(しもかたしょう)12郷(現在の富士市吉原・今泉辺り)を与えられ、一城の主となりました。時に早雲、56歳。正にこの時から早雲の戦国大名としての人生が始まったのです。

伊豆討ち入りへ

《沼津市教育委員会資料より》