8.揺れる世界
『どうして』
何処からともなく、声がする。
『どうしてなのっ』
『どうして男なの!?』
女の声で、誰かが感傷的に喚いている。
『お前など、お前など…生まなければよかった』
それを言った人は…。
その人の顔はもう思い出せないけれど。
自分がいらない子供なのだと思ったことはぼんやりと覚えている。
自分が女だったら、少しは自分のことを必要としてくれたのだろうか。
そう思ったこともあった。
もう遠い昔のことだ。
今となっては…あの人がいない今となっては、それももう意味を持たない。
次いで聴こえたのは、よく聞き慣れたその声。
常より少し擦れていたが、よく知っている声だ。
何故、謝る?何を、謝る?
『ごめんね』
謝るな。
お前が謝る時は大抵ろくなことがないんだ。
だから。
謝るくらいなら黙って殴らせろ。
『女性になる予定でもあるのかい?』
…そんな予定、あって堪るか。
そんな馬鹿なことばかり言っているから、お前は、
「…と、」
その渾名を口にしようとすれば、急に視界が明るくなる。
絳攸はずるりと、夢の世界から這い出た。
ぽっかりと瞳を開けたまま、天井を見詰る。見慣れた天井であることを理解するのにも数拍を要した。
寝起きが悪い方ではないのだが、今日はやけに体が重い。頭も痛い。体を寝台から起こすだけでも酷く疲れた。
根が生えたかのような体をようよう寝台から離し、床へと足を降ろした。
たったそれだけでも億劫だったが、時間は待ってはくれない。仕事に行かなくてはいけない。
夜着の帯を解き、用意してあった官服へと手を伸ばす。
「…ん?」
ふと、絳攸は違和感を覚え、手を止めた。
そして。
まだぼんやりとしていた意識が一気に覚醒する。
「…ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――!!!!!」
その悲鳴は紅邸本邸まで響いたという。
「おい、何事だ。今の蛙を踏み潰したような声は」
「絳攸?一体どうしたの」
駆けつけた黎深・百合夫婦が絳攸の自室の前で呼びかけても、絳攸は「大丈夫です」とだけ繰り返した。
心配になった百合は少し声を荒げた。
「絳攸、ここを開けて頂戴!」
閉められたままの戸を叩いて百合が訴える。
「だ、駄目ですっ百合様!何でもありませんから」
「何でもないんだったら、さっさと開けろ」
百合の後方から黎深がさらりと言う。
「黎深様…そ、れは」
途方に暮れたかのような声が戸の向こうから聴こえた。
ちっと、黎深は舌打ちをすると控えていた家人に振り返った。
「おい、何か戸を叩き壊せる物を持って来い」
家人にそんなことを言いつける黎深に、絳攸の慌てた声が上がる。
「止めて下さい!黎深様っ」
「だったらこの戸を開けれない理由を話せ」
「そ、れは…」
数拍後に聴こえた声は小さく、震えていた。
「…こんな姿ではお二人にお会い出来ません」
「絳攸?」
弱々しいけれど確かな意思の言葉に、百合は戸惑う。
「…出仕も出来ません。俺は旅に出ます」
「ちょ、絳攸!?何を言っているの!?」
百合は戸にすがり付いて叫んだ。
そんな百合の後ろから、冷ややかともとれる声色が響いた。
「何だ、女にでもなったか?」
百合は弾かれたように夫に振り返った。
「それとも子供にでもなったか?一気に老けて老人になったか?髪が全部抜け落ちたか?顔が狸の妖怪にでもなったか?」
黎深は何の感情も読み取れない表情のまま、続けた。
「お前が女になろうと子供になろうと、それが何だ」
黎深は本当に何でもないことのように言い放った。
百合は目を瞠って、己の夫を見た。
「お前がオカマでも超絶美形でも仙人だろうが、私には関係ない」
あまりに黎深らしい物言いに、百合は微苦笑を浮かべる。しかし、戸の向こうからは何の音もしない。
「…黎深様、言い方が極端ですわ」
百合は自分達と息子を隔てた戸に手を置いた。
「絳攸、黎深様が言いたいのはね」
百合は、きっと戸の向こうで息さえ止めているであろう息子にゆっくりと語りかけた。
「喩え、あなたがどんな姿であろうと、あなたを…『李絳攸』を愛してるってことよ」
言いながら、百合はある女性を思い出していた。
彼女は薔薇の花ように艶やかに笑う女性だった。
『百合殿』
彼女は言った。
『絳攸殿は縹家の血を引いておる』
その言葉が鮮明に蘇る。
今、この時になってそれを思い知ることになるなんて考えもしなかった。
それでも。
『わたくしはあの子の母になると決めたのです、義姉上』
あの日の決心は、今も変わらない。
『それでこそ、妾の義妹だ。ふふふ、結婚とはほんによきものじゃ。まさか妾に弟や妹が出来ようとはの』
そう言ってからからと笑ったその女性は、もう居ないけれど。
本当は少しも、母らしいことなどしてあげれていないのかもしれないけれど。
あの日よりも、もっともっと強い想いで。
「大丈夫よ、絳攸」
喩え、絳攸がどんな姿であろうと、どこの生まれの者だろうと。
変わらず愛しているのは自分も同じ。
「出ていらっしゃい」
その声に応えるようにそろりと戸が開いた。
可愛らしい唇から声が漏れる。
「…黎深様、百合様…俺、どうしたらいいか」
「大丈夫」ともう一度繰り返し、百合は娘になってしまった息子の涙の後が残る頬を包み込んで、微笑んだ。
「ほら?可愛い」
百合が絳攸の生まれを知ったのは、絳攸を初めて義兄夫婦に会わせた時のことだった。
突然出来た甥を二人は優しく微笑んで迎えてくれた。
けれど、義姉は真剣な顔で百合に告げた。
「百合殿。あの子、絳攸殿の出生のことなのじゃが」
百合は今でも義姉が何を根拠にそう思ったのかは知らない。
「絳攸殿は縹家の血を引いておる」
思いもよらない名に、百合は一瞬面食らう。
「縹家ってあの…?」
百合が言いたいことを察して、彼女は言葉を続けた。
「異能を操る神祗の血族じゃ。その血があの子には流れておる。故あって妾には解る。しかも、ただ血を引くだけではない。本来、縹家で異能を操るのは女のみじゃが…」
ふいに言葉を途切れさせた義姉に、百合は不安を覚えた。
義姉は少し考えた後、言葉を続けた。
「何もなければこのまま男として暮らしていくだろう。だがのう、もし。もしじゃ。二十歳までに女となれば、その力は当主をも凌ぐ。間違いなく、一族一の術者じゃ」
百合には義姉の言っている意味がよく解らなかった。
「女になる?え、あの子は男の子ですよ?性別が変わるなんて…」
「性別というのは、それほど明確なものではない。特にあの子にとってはの」
「…そうなの、ですか?」
困った顔をした百合に、彼女はふっと笑った。
「よいか、二十歳までじゃぞ。二十歳を過ぎれば、万が一、性分化が起こったとしても、力は使えぬ」
「性分化?」
百合は軽く頭を押さえた。
「…すみません、義姉上。わたくし、話についていけてませんわ」
「まぁ、仕方なかろうて」と義姉は笑ってくれたが、ふっと表情を変わる。
「じゃがな、百合殿。あの子はそういう子じゃ。それでも『母』になれるか?」
百合は一瞬ぎくりとした。
雷光のような眼差しが百合を射る。
それでも、と百合は思った。
「わたくしはあの子の母になると決めたのです、義姉上」
それは意地でしかないような決心だったが。
紅黎深の妻になる以上の決心など、きっとこの世にありはしないのだ。
「それでこそ、妾の義妹だ。ふふふ、結婚とはほんによきものじゃ。まさか妾に弟や妹が出来ようとはの」
あの時の義姉の笑顔を、百合は生涯忘れない。
今は亡き義姉に聞いた、絳攸の生まれ。
その後、百合は紅家の力を使って彼に関する情報を集めた。
絳攸の母親は確かに、縹家の出だった。
何の力も持たぬ、縹家の女。
百合が過去へ思いを巡らせていると、ギィと戸が開いた。
「ゆ、百合様、これは…」
泣きそうな顔を覗かせた絳攸とは対照的に、百合はパッと顔を輝かせた。
「まぁ、よく似合ってるわ」
絳攸は複雑な顔で己の姿を見下ろした。
夜着のままでは、と百合から渡された着物は女物だった。
「わたくしの昔の物なんだけど、丁度良さそうね」
百合は目元を和ませて、着慣れない娘の衣を直してやった。
「わたくしが美人評議会で優勝した時のものなのよ」
絳攸が「流石は百合様だ」と感心していると、無粋な横槍が入る。
「嘘を言うな」
それまで黙っていた黎深が急に口を開く。
「何が嘘ですの?」
「確かにお前は一瞬優勝したが、その後評議会を観に来ていた超絶美人に優勝を掻っ攫われただろうが」
その一瞬にして場の空気が凍りついたのを、絳攸は確かに感じた。
「…わたくしが一番、一番触れられたくない過去をっ…!」
百合の声と体が怒りで震える。
「あの!」
不穏な空気を感じ取って絳攸は慌てて口を開いた。
「す、すみません!先ほどは取り乱してしまって」
百合は我に返り、にっこりと笑って可愛い娘に向き直った。
「いいのよ、絳攸」
百合は立ったままの絳攸を座るように促した。
「さぁ、何から…話せばいいのかしらね」
少し困ったかのような百合に、絳攸は呟いた。
「…百合様」
「ん?」
「俺、思い出したことがあるんです。百合様はあの時、俺に選ばせてくれました」
もうずっと昔。紅邸で暮らし始めた頃のことだと思う。
百合は自分に一つの選択を与えた。
『絳攸、よく聞いて頂戴。あなたにはある力があるの。あなたが女の子として母上様に報いたいと思っているなら女の子になることもできると思うの。あなたはどちらがいいの?あなたが自分で選びなさい』
「忘れていたんです。自分の生まれも。真剣な百合様の顔も。自分に与えられた選択も」
ずっと忘れていた。
このままずっと男として、何の疑問も持たず、自分の生まれさえ忘れて生きていくつもりだった。
絳攸の告白に、百合は考え込むようにして言葉を探した。
忘れていても無理はないと思う。
あの日以来、その話はしたことがなかった。
百合でさえ、こんなことにならなければ忘れていたくらいだ。
「確かに、あなたには女の子になる可能性があった。それでもある日突然、性分化が起こるかどうかは判らないわ。どうして今になって…」
百合はふっと顔を上げた。
「何か…思い当たることはある?」
「……いえ」
絳攸は瞳を伏せた。
その様子を見た百合は、僅かに夫へと視線を走らせた。しかし、黎深は眉一つ動かさなかった。
百合は小さく息を吐いて、絳攸に視線を戻す。
「…解ったわ。では、これからの話をしましょう」
そう言われて、思わず絳攸は黎深様の顔を見た。
「私の顔色を伺ってどうする。自分のことは自分で決めろ」
淡々と自分を見下ろす黎深に、絳攸は小さく「すみません」と謝った。
そして、先ほどよりずっと考えていた想いを明かした。
「私は…今まで男として生きてきました」
あの日、自分は男のままで生きることを決めた。
男として役に立ちたいと、決めた。
女でいる自分を必要とする人ももうなかったから。
女となる選択はとうに捨てた。
全てが今更だ。
今更、女になってどうなる。
あの人はもういない。
異能の力も使えない。
今更、女になっても、自分にはなにもない。
「これからも、そのつもりです」
その時、絳攸には黎深と百合が浮かべた表情の意味は解らなかった。
まずは文献を探したいと、紅家の書庫にこもってしまった絳攸が居なくなった室で、百合は夫へと声を掛けた。
「黎深様、止めて下さいね」
「…何をだ」
「どうせ『藍家のクソガキがぁぁ』とか思ってるんでしょ」
百合の言い方に、黎深が僅かに眉を寄せた。
「…思ってない」
「そう?」
「ただこの世から抹消してやるだけだ」
百合は呆れた、とばかりに溜息を吐き出した。
「ですから。それを止めて下さいって言ってるんです」
「何故止める?」
「あの子が望むなら、どうぞご自由に。煮るなり焼くなり好きにして下さって構いませんわ。紅藍両家の全面戦争になっても結構」
「ほお」
黎深は少し嬉しそうだ。
「けれど。今はあの子はそれを望んでいない」
「知らないからだ」
「そう…、でしょうね。でも、今よりもきっと悲しむことになりますわ」
「…気付かれないようにやればいいだろう」
百合は全く解っていない夫を軽く睨む。
「止めて下さい。嫌われたくないでしょ?」
「…嫌に肩を持つな」
それが誰のことかを察して、百合は肩を竦めた。
「可愛い姿を見れたことに多少の感謝もしていますもの。それに、」
『彼の一族に伝わる秘薬がある。それを飲むと性分化が起こると聞いたことがあるのう』
『秘薬、ですか?』
『そうじゃ、その薬は、今は確か藍家が保有しているはずだ。だがの、百合殿。結局のところ薬は切っ掛けじゃ。一番強い力は―――だ』
「それになんだ」
言葉を切った妻に黎深が訝しげな視線を寄越した。
「いえ」
百合はにこりと笑った。
教える必要はないのだ。
こんなことを言ったら、夫はさらに彼の人物の暗殺計画を強めるだろうから。
「それにしても」と百合は話を替える。
「あの子があんな調子では出仕なんてとてもとても無理ですわね。いい機会ですから休暇をとらせましょう。いいですわね、黎深様?」
有無を言わせぬ笑顔だ。
「黎深様はどうぞお気になさらずお仕事に励んで下さいね。あの子もそれを望んでいるでしょうから。あの子のことなら大丈夫ですわ。わたくしがずっと傍に付いておりますもの。母と娘、女同士で」
百合は完璧な妻の顔で告げた。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
その日、黎深は七日分の仕事を一刻半で終わらせ、早々に帰宅したという。
*************
絳攸の過去を少しと、捏造百合様をがっつり。
黎深様は息子だろうと娘だろうとどっちでもいいと思う。ただ、絳攸の顔を曇らせる人物が許せないだけ。大抵の場合それが自分なんだけど、それに気付かないのがこの人のスゴイところ。
08/11/21