9.ゆがむ心









縹家に関する文献を読んで男に戻る方法を探していた絳攸だったが、なかなか捗らなかった。

なぜなら…

「絳攸、絳攸!次はこれを着てみて頂戴。絶対似合うわ」

「絳攸、踊りなさい」

「絳攸、一緒にお饅頭を作りましょう」

「絳攸、酌をしなさい」

次から次へと養い親達は絳攸にしてみたら全く意味のわからない要求を押し付けてきた。

もちろんそれに対して絳攸が断れるはずもない。

黎深に至っては出仕もしていない。

そのことを指摘したが、「仕事はもう終わらせてある」という耳を疑うような言葉を返された。

 

 

「…はぁ」

一通り養い親達の要望に応え終わった絳攸は湯殿で重い溜息を吐いた。

最初は自分の体を直視できず、風呂に入るのも抵抗を覚えたが、段々それもどうでもいいことのように思えてきた。所詮、自分の体だ。

絳攸は湯船で膝を抱えた。

百合の生き生きとした態度と黎深の分かりにくいがおそらく楽しんでいるだろう態度を思うと、絳攸はどうしていいか分からなくなる。

百合様も黎深様も本当は女の自分を望んでいるのでは…と、そんな疑問が頭をもたげる。

「…俺は、」

早く男に戻りたい。

「男として…黎深様の傍で、少しでも…何かのお役に…」

絳攸の呟きは、小さく湯殿に反響して消えた。

 

 

女になって七日が過ぎようとしていた。

 

絳攸の焦りは、募っていた。

加えて、吏部や王のことが気になっていた。

「黎深様は今日も出仕なさらないんですか?」

今日も一日邸で時間を過ごしている黎深に絳攸は気が気ではなかった。

「仕事は終わっている」

「…それは、そうなんですが」

いくら仕事が終わっているといっても、一部署の尚書と侍郎が揃って不在では、どうなっているのか分からない。ここぞとばかりに、皆一斉に休暇にでも入っていても可笑しくは無いのだ。

「何だ、はっきり言え」

絳攸はだめもとで頼んでみることにした。

「できましたら、吏部の皆と…その、王の様子が知りたいのですが」

「そんなことを私に頼むな」

一蹴された。

「…すみません」

「自分の目で見てくればいいだろうが」

「女の姿で出仕など出来ません」

男に戻れなければ、出仕はできない。

何の疑問も持たずに発した言葉だった。

だが、次の黎深の一言で絳攸は己の失言を知る。

 

「それは秀麗への冒涜だ」

 

絳攸は言葉を失った。

自分が唯一、弟子だと認めた少女。

『官吏に、なりたいんです』

震える心で、それでも強い意志で、そう言った少女。

その想いを、己が汚した気がした。

 

 

「絳攸、今日は外へお出かけしましょう」

百合がそう言ったのは、絳攸が己の失言に悄然となった日の午後だった。

「籠ってばかりじゃ、気も滅入るわ」

それが百合の優しさだろうと察しがついたが、この姿で出歩くのは抵抗がある。知り合いには会いたくない。

「今日は、わたくしのお友達にあなたの画を描いてもらおうと思うのよ」

「は?」

「絳攸が女の子になった記念に、折角だから肖像画を残しましょう」

「…何が折角なのかわかりません」と言う絳攸の訴えは百合の耳には届かなかった。

 

 

その百合の友人との待ち合わせ場所に着いた絳攸は驚愕した。

百合によって散々に着飾られた姿で絳攸はその建物を見上げる。

「…百合様」

「うん?」

「俺にはここが妓楼に見えるんですが」

「ええ、『?娥楼』は貴陽一の妓楼よ」

絳攸は「ええ、知っています。というか主上と一緒に来たことがあります」とは流石に言えなかった。

「百合様のご友人は男性なんですか?」

「いえ、若い女性よ。ここは彼女のいきつけなのよ」

若い女のいきつけの店が妓楼。しかも王都一の。

こんな話はどこかで聞いたことがある。

それもごく最近。

「もしかして…百合様のご友人というのは、」

「碧歌梨さんよ」

絳攸は自分の予想が当たっていたことを嬉しくは思えなかった。

「あの、百合様。俺、いのし…いえ、幽谷殿とはお会いしたことがあるんですが」

「あら?そうなの?」

「はい…縁あって。しかし、その、決して俺の肖像画など描いて下さるような方ではなかったですよ」

「確かに個性的な方ですものね」

あれを個性と言い切れる百合を絳攸は本当にすごいと思った。

「でも大丈夫よ、今のあなたなら」

百合は自信満々に頷いた。

ここまで来て逃げ出すわけにもいかず、絳攸は重い足取りで百合に続いてその格式ある妓楼に足を踏み入れた。

 

しかし、約束の刻限になっても歌梨は現れなかった。

「可笑しいわね、約束の時間に遅れるような方ではないのだけれど」

百合は首を傾げた。

「ああ、でも仕事のこととなると他が見えなく方でもあるから。わたくしお迎えに行ってきますね。絳攸はここで待っていて頂戴」

「え?あ、はい」

正直こんなところに置き去りにされても困るのだが、だからと言って付いていきたい気持ちにもならなかったので、大人しく待っていることにした。

 

 

絳攸はとくにすることも無く、ただ通された室で百合を待っていた。

ここに本でもあれば時間を潰せたのだが、あいにく持ち合わせていない。

しかも場所が妓楼ということで、歩き回るわけにもいかずさらに絳攸にはすることが思いつかなかった。

ぬるくなった茶を一口啜ったところで、背後から声が掛かった。

「おや、珍しいお客さんだこと」

艶やかな声とともに、顔を出したのは?娥楼一の名妓・胡蝶だった。

親しい仲ではないが、顔を知っている人物に今の姿を見られたくない絳攸は慌てて、顔を背けた。

『発覚!吏部侍郎に女装趣味!!』や『吏部侍郎、仕事を休んで妓楼通い!!』なんて醜聞が流れたら大変だ。

「李侍郎さんだろ?この間とはずいぶん、趣の変わった着物だけどさ」

絳攸にぎくりと緊張が走る。

「さ、さぁ、人違いじゃありませんか?」

本当は必要のない、裏声を使い、絳攸は人違いで通そうとした。

頑張れ、俺!!

背中を冷たい汗が伝う。

「へぇ、それはすまなかったね。よく似ている人を知ってたもんだから」

「い、いえ」

「じゃあ、あんたが今日から入るって大旦那が言ってた子かい?」

「へ?」

「あんた運がいいね。今日は藍様がいらっしゃるから、あんたが相手しな」

「常春が!?いやいやいやいやいや、そんな馬鹿な!!!何故俺があんな奴の…」

そこまで絶叫して、絳攸は楽しそうな胡蝶と目が合い、我に返った。

「いらっしゃい、李侍郎さん。今日は藍様が来るって話は聞いてないから安心していいさ」

「……………ああ」

絳攸はどっと疲れた。

そんな絳攸に「ふむ」とばかりに胡蝶は手を伸ばした。

「え」と絳攸が思った時には、胡蝶の手は絳攸の胸を思い切り触っていた。

「ぎゃあ!!!」

絳攸は驚いて後ろに飛びのいた。

「な、何するんだ!!」

自分の体とはいえ、実は自分では触れないのに。

「豊かな方じゃないけど、確かに本物じゃないか」

純粋に胡蝶は驚いた顔をしていた。

絳攸は胡蝶から目を逸らした。心が急に冷える。

「…気味が悪いだろ?」

卑屈そうにうっすらと笑む。

どんな言葉が返ってくるのかと絳攸は人事のように考えていた。

「…別に。思やしないよ」

数拍後、聴こえた声に絳攸は驚いたように顔を上げた。

「何があったなんて訊きやしないさ。誰にだって言いたくないことの一つや二つあって当たり前。特にここはそんな連中ばかりさ」

さらりと、その名妓は言う。

「世の中、理屈じゃ説明できない不思議なことだって多い。いちいち気にしてたらきりがないってね」

「…それだけか」

胡蝶の平然とした態度が返って絳攸には痛かった。

いっそ「気味が悪い」と罵ってくれたほうがよかったのかもしれない。

「俺は…、俺は、気味が悪い。こんな体になった自分が誰より…憎い」

こんなところで胡蝶相手に言っても仕方ないことだと、頭では分かっているのに。真っ黒な気持ちが心を塗りつぶす。

「女に…!女になんかなって!女になんかなったところで…」

 

「あんまり女をなめんじゃないよ」

 

ぴりっと空気が震えた。

「真実から目を背けたってどれだけ自分が否定したって、変わらないもんがあるだろ。まずは事実を受け入れな。全てはそっからさ」

普段は艶やかなその声が、静かに室に響く。

「あたしだってね、どんなに花街一の妓女だなんだってもてはやされたところで、所詮は売られた身だからね」

胡蝶は己を指して、苦く笑った。

「あんたが女だろうが男だろうが、あんたであることに変わりは無いだろ。胸張って生きないでどうすんのさ」

胡蝶は今の己を恥じていない。

こうするしか生きられなかったとはいえ、その道を選んだのは己。

だから今の自分に誇りを持っている。

それに引きかえ自分はどうだ。

「その…すまなかった」

絳攸は素直に詫びた。

「いやに素直だねぇ。苛め甲斐がないよ」

艶やかな紅唇を持ち上げて、その女性は笑った。

 

その後、胡蝶は店の者に呼ばれて室を出て行った。

 

『それは秀麗への冒涜だ』

『あんまり女をなめんじゃないよ』

王と共に女人官吏の登用を勧めてきた癖に、本当は「女」への嫌悪や蔑視が心の底にあることを思い知らされた。

自分は今まで、女だからと一括りにして、何も見ようとしなかった。

女は嫌いだ。そう、言い続けてきた。

妓楼も嫌いだ。化粧の匂いも絡みつくような濃厚な夜の空気も男女の喧騒も全てが嫌だった。吐きそうなほど。

妓達はまるで自分を見ているかのようで耐えられなく嫌だった。

そう…ここにいたのは、あの日黎深様に拾われなかった自分だ。

 

 

「おや、帰るのかい?」

「…悪いが、百合様に先に帰ったと伝えてくれ」

 

絳攸は階段ですれ違った胡蝶にそう告げると、?娥楼を後にした。

まるで、逃げ出すように。

 

そして、あの男に会った。

この姿になって初めて。

 

三日後の約束をして男は去っていった。

七日ぶりに会ったあいつの態度がいつもと違った。

自分と一定の距離を保ち、そこから決して入ってこようとはしなかった。

今までと同じようで、何かがまるで変わってしまったんだと思う。

俺が女になったから、何かが変わったんだ。

 

早く元の姿に戻りたい。

元の姿にさえなれば全て今まで通りになると絳攸は信じていた。













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お、お待たせ、しま、した…。
絳攸の葛藤編です。続きます。
12/7/20

戻る/続く