7.嘘と真実











室に高い音が響く。

手を伸ばした先で小瓶が割れ、中身が飛び散った。楸瑛は空を切った己の掌を見詰た後、きつく瞳を瞑った。

『憎まれても、恨まれても、蔑まれても構わない。何を失っても構わない』

そう、何もかもを失うだと。今になってその真の意味を知る。

痛いほどの沈黙が流れる。それは永遠のようで長さとしたら一瞬だった。

「……あーあ、」

沈黙を破ったのは自分だった。

「残念だったな」

瓶の破片へと手を伸ばした。破片が指に刺さるのにも構わず、拾い上げた。

「…楸瑛?」

困惑気味の絳攸の声がその耳に届く。

ゆったりと口の端を上げて楸瑛は絳攸へと顔を向けた。

「これを手に入れていれば、それを対価にして君を手に入れることだって出来たのに。折角の計画が水の泡だ」

月の光にかざされた破片がきらりと輝く。

再び「残念だ」と言う楸瑛の表情は絳攸からは見えない。

「困ったね、絳攸。これで元の体に戻る方法はなくなってしまったよ。まぁ、私としたらそれでもいいんだけどね」

くすくすと嘲笑するかのような笑いに、絳攸は吐き気さえ感じた。

「…本気で言ってんのか?」

「ああ」

カツリと床が冷たい音を立てる。絳攸は窓辺に立つ楸瑛に近付いた。

その距離を縮めても、影になっていてやはり彼の表情は見えなかった。それでも絳攸には楸瑛がどんな顔をしているか解る気がした。

「…だったら、」

龍蓮は立ち尽くす兄と絳攸を静かに見詰ていた。月夜の書庫に絳攸の声だけがある。

絳攸は楸瑛の頬へと両手を伸ばした。

 

「俺の目を見て言えっ!!!」

 

頬を思い切り打つ音が室に反響する。

叩いた手で頬を挟んだまま、高い位置にある楸瑛の顔を絳攸は自分の目の前まで引き下ろした。

「っ、」

痛みよりもその言葉に驚いたのか、鉄色の瞳が綺麗に丸くなっていた。

「そういう台詞はなっそんな情けない顔で言っても説得力が無いんだよっ!馬鹿かっ!!」

「こ、」

楸瑛には絳攸が怒っている理由が解らない。いや、怒られ憎まれ蔑まれる理由なら解る。しかし、絳攸の言葉は楸瑛の思っていたものとあまりに違った。

「何も知らないと思って好き勝手言いやがって!お前は確かに俺のこの体を戻す方法を探していた!それは何の為だ!?さっき貴様が言ってた対価云々の為か!?だったらどうして朝廷を辞す根回しをする必要が有るっ!?今日主上から文が来た!主に心配される護衛がいるかっ」

楸瑛は瓶の破片を手にした自分の指が震えるのが解った。

「お前はそれが割れても割れなくても、俺の前から居なくなるつもりだろうがっ!お前が10日前ここで一心に読んでいたのは、たった今割れたこれのことだろ!」

まさかと思い、楸瑛は口を開く。

「気付いて…?」

「どこにどんな書があるかくらい知ってる」

その答えに楸瑛は頭を抱えたくなった。

「10日前からっ端から元の体に…男に戻すつもりだろうがっ。嘘を吐くならもっと上手く吐け!お前らしくもない。詰めが甘いんだよっ」

目の前の人は怒っていた。

けれど、それは自分が覚悟していた侮蔑ではなく。

「絳攸…っ、」

楸瑛は言葉を詰まらせた。

 

絳攸の姿を見たとき、自分は震えた。自分の犯した罪の大きさに。

彼は…いや、彼女は。余りに美しく、そして…罪深かった。本当に天女を地に墜す、大罪を犯したのだと思い知る程に。

求める一方で、ちゃんと解っていた。こんな夢が続く訳が無いと解っていたから。唯の一度でよかった。

一度でいい。夢ではなく、現の彼女をこの腕で抱き締めたかった。

『私と…結婚してくれる?』

最初で最後のその言葉を、彼女だけに告げたかった。

刹那の想いでよかったんだ。

 

その瞳が自分を映してくれなくてもいい。全てを失うことになってもいい。

『手に入れたい。喩えどんな手をつかっても』

欲しくて、どうしても欲しくて。

二度と会えなくても。傍に…自分はいなくても。

最悪、怒り狂った彼の養い親に命を奪われても。

自分からはこの想いを捨てることなど、出来ない。

だから、自分の罪の全てを彼に断罪してもらいたい。

一度でいいと願いながら、一度触れてしまえば想いは募る。この夢が続くことを、心のどこかで自分は確かに願った。自分のものになってくれるかもしれないという期待に縋った。このまま閉じ込めてしまいたい、と。

本当は手が届いたのではないか。絳攸を元の姿に戻してあげることが出来たのではないか。自分の浅ましい想いが本当だったら手に入ったものを取り零してしまった気がした。

だから、自分は彼に憎まれても当然なんだ。

 

こうすることでしか、苦しく狂おしい程の自分の想いは行き場を失くしてしまう。私には、こうすることしかもう残されていないと思った。

 

それでも、ただ一つ恐かったことがある。

それは絳攸が絳攸でなくなってしまうこと。

自分が罪を犯したあの夜以前から何一つ変わることのない、その菫の瞳だけが恐かった。その瞳が、色を失くしたら。

この世界になんの意味もない。

君が君のままいてくれれば、そこに自分がいなくても大丈夫なんだ。

 

カシャンと瓶の破片が楸瑛の手を離れて床に落ちる。

「絳攸…君は、どうして、」

顔を歪めた楸瑛はその手を、絳攸の頬へと伸ばす。絳攸が一度、瞬きをしたのが判った。

「愚兄は勘違いしている」

楸瑛の指が絳攸へと届く前に、無粋な声が割り込む。

それまで黙っていた龍蓮は口を挿んだ。

「龍蓮?」

すっかりその存在を忘れていた弟に楸瑛は顔を向けた。

不思議そうな顔を向けた兄に龍蓮は衝撃の言葉を放つ。

 

「以前、私が渡した薬は別に男を女性に変えるものではない」

 

その意味を理解するのに数拍を要する。

「……え?何だって、」

「この者には元からその素質があったのだ」

「………………………はい?」

この変人の実兄という長年の経験さえも役に立たないようなことを、彼は告げた。

「李絳攸は縹家の生まれだ」

「……………ひょ、う家?」

『縹家』それは彩六家に相当する名門であるだけでなく、特別な意味を持つ。―――異能を操る神祗の血族。

「昨今の縹家において異能の出生率が下がっている。その均衡を保つ為に性分化が行われたと思えばいい。環境や雌雄の数によって性別を変える魚がいるが、それと一緒だ」

一緒って…魚と一緒の例を出されても…。

楸瑛は眩暈を感じて、片手を額へとのせた。

「ちょ、待って、いくら縹家が異能の一族といえど性別を自由に変えられるなんて話は聞いたことが無い」

「普通はな」

「普通は?」

楸瑛は眉を顰める。

「稀にだが、そのような者が生まれることがある。藍家に『藍龍蓮』が居るようにな」

「それが絳攸だって言うのかい?」

「ああ」

「龍蓮、君は…」

楸瑛は言おうとした言葉を飲み込んだ。

彼はただの変人の弟ではない。それ故の『藍龍蓮』だ。

「…絳攸は、」

顔を向ければ、動じた風もなく絳攸は頷いた。

「知ってた」

楸瑛はこの場でその事実に動揺しているのが自分一人というのが、なんとも間抜けのような気がした。もう、何に驚いていいのか判らない。

「性分化…ということは、今の絳攸にも異能の力があるのかい?」

どちらともなく訊いたが、答えたのは龍蓮だった。

「異能を操れるのは縹家の女性のみ。しかも生娘に限られる。性分化が行われた者のその力は当主をも凌ぐと伝えられている」

楸瑛はその言葉に険しい顔を浮かべた。

「案ずるな、愚兄。長年貴陽で男として暮らしてきたその者には、もうほとんどと言っていいほど異能の力はない。いや、使い方が解らないと言った方が正しい。尤も貴陽に居れば力は使えぬから、貴陽から出なければ縹家の者に見付かることもないだろう」

楸瑛はそれが「良かった」というべきことなのかどうかの判断が出来ず、ただ「そう…」とだけ呟いた。

 

暫くして、絳攸は大きく呆れたような溜息を吐いた。

「だからな、この体は別にお前の所為ではないんだ」

「知ってたなら、どうして」

非難するつもりもないが、ついそれが口を出てしまう。

「お前が何か企んでいたのは事実なんだっそれくらいの意趣返しはさせろ!」

「…言葉も無い」

楸瑛は瞳を伏せた。

「大体っ!今まで男として生きてきたのに、行き成り明日から女になれなんて言われてすんなり納得出来る訳無いだろ!自分の身になって考えて見ろ!!」

そう言われ、楸瑛は初めて考えた。全く頭になかったのだけれど、何も絳攸を女性にしなくても自分が女性になるって手もあったのかと。

自分が女になったら…顔はまぁ、問題ないだろうし、きっと体型だって…。

そう思った時にふと、絳攸の胸元にいきそうになった視線を慌てて逸らした。体型は兎も角、と思い直す。

胡蝶並みの美人になれただろうという妙な自信がある。幾ら女性嫌いの絳攸でも、押し倒してその気にさせて…。それはそれで面白いかも。

「…何を考えた?」

絳攸の瞳が鋭く光る。

「ん?いや、何でもないよ」

今考えたことは内緒にしておこうと、楸瑛は賢明な判断をした。

 

「でも、だったら私が君に飲ませたあの薬は、」

楸瑛が言えば、絳攸は半目になる。心底呆れている時の目だ。

「あんなもんで男が女になる訳ないだろ。唯の酒だ。お陰で次の日は酷い頭痛だったんだぞ」

「………はぁ、そう、なの?…それは、申し訳ない。じゃあ、さっき割れたのは…」

答えたのは龍蓮だった。

「あれは藍家特製蝮酒だ」

「蝮酒?」

「愚兄其の一から其の三に、これと一緒に愚兄其の四に渡すように言われた」

そう言って龍蓮はこの国最高級の料紙を渡した。

「…っ!」

料紙を開いて目にした楸瑛は絶句した。

次第に料紙を持つ手が震え出す。

『頑張れ 既成事実☆』と書かれた料紙がぐしゃりと音を立てた。

どこまでもあの兄達にいいように遊ばれているとしか思えない。

「ふっ…そうですか、そうきますか」

よく分からないことをぶつぶつ言いながら楸瑛は汚れた床を掃除し始めた。明日出仕する邵可の手をこんな物で煩わせるわけにはいかない、とばかりに。

そんな兄の様子に何を言うでもなく、龍蓮はそっと絳攸に耳打ちした。

「あれでいいのか?」

絳攸は目だけを向けた。

「……何がだ」

「確かにそなたの生まれや体質によるものが大きいが、それでもあれを飲まなければ、」

「そんなのは関係ない。あいつは何も知らなかった。それだけだ」

事も無げに言って絳攸は龍蓮の言葉を遮った。

「愚兄に甘いのだな」

「…煩い。お前こそ随分と兄を甘やかしているじゃないか」

「楸兄上の覚悟というのを聞いたから」

龍蓮はふっと笑った。

その顔が幼い少年のようにも見え、絳攸は驚いてその顔を見返した。

しかしその笑顔はすぐに掻き消え、いつもの奇天烈男の顔に戻った。

「初めてだな。あの自己形成未発達未成熟な上に年中女性を追いかけ、その癖肝心なことからはいつもいつも逃げ、逃げまくった挙句それでも往生際悪く蟻の巣を探すが如く逃げ道を探し、」

「…龍蓮、それは一体誰のことだい」

楸瑛は雑巾を持ったままこちらにやって来た。

「もちろん愚兄其の四のことだが?間違っているか?」

「間違っている」と言えない自分が、楸瑛は悔しかった。軽く凹む楸瑛を余所に、絳攸は龍蓮に片手を差し出した。

「で。もういいだろう、早く出せ」

「何がだ?」

龍蓮の頭上にある羽がふわりと揺れた。

「元に戻る薬があるんだろ?」

何を当たり前のことをとばかりに絳攸は言ったが、次の瞬間彼…いや、彼女は耳を疑うことになる。

「そんなものがあるわけないだろう」

絳攸は数度目を瞬いた。

「へ?」

「魚もそうだが一度性分化した者は元の性には戻らない」

「…な、に?」

絳攸の顔が見る見る蒼白になっていく。

「え、じゃあ、絳攸は一生この姿?」

口が利ける状態ではない本人に代わって楸瑛は訊いた。

「ああ」

その無情な答えは放心状態の絳攸の耳には幸い届かなかった。

楸瑛は慌てた様子でがさがさと懐を探って、一枚の料紙を取り出した。

「絳攸、結婚しよう!今すぐに!!ほらこれ、婚姻の届書をもらってきたんだ!ここに名前を書いて…」

それまで魂が抜けたかのような状態だった絳攸の目に力が戻る。殺気という名の力が。

「〜〜〜〜〜〜っっっっしゅ〜え〜!!!誰がするかっっ!!!貴様ぁぁぁぁ死んで来い!いやっ俺が殺す!!!」

「うん!それでもいいからこれ!これっ書いてからねっ!」

「書くわけないだろうがっ!!!」

「ああああっ!!」

無残にもびりびりと破り捨てられる届書に、楸瑛は悲鳴をあげた。

「ところで愚兄」

「え、ななな何?」

軽く涙目の楸瑛が振り返った。

「愚兄は『手に入れたい』と言ったが、李絳攸の性別が女性になったところで、愚兄のものにならない可能性については考えなかったのか?」

「…………は?」

「むしろ、その可能性のほうが高い」

「ええと、」

「その可能性は…」

「いいっ!言わなくていいからっ龍蓮!!!私は絳攸と結婚を、」

「黙れっ楸瑛!誰が貴様なんぞと結婚するか!貴様と結婚するくらいなら狸と結婚したほうがマシだっ」

「え!それはないっ!狸より私の方がいいよ!」

何故かその言葉を聞いた龍蓮はおもむろに笛を取り出した。

「今まさに!閃いた!!今宵の美しい月にこの曲を。題は月と狸の、」

「煩いっ!!笛を吹くな!!このっ馬鹿兄弟っっっ!!!!」

龍蓮は絳攸の怒鳴り声を聞き流し、横笛に口を近付けた。

あの兄は気付いているのだろうか。

己が何を失ってもどうしても欲しかったものが、手に入れたかったものが本当は何だったのか。

身体など所詮、器だ。

確かに、未来の可能性としては限りなく低い。

それでも人の気持ちも心も未来も…変わるものだ。

だから、人は面白のだ。

今宵は素晴らしい音が奏でそうだ、と龍蓮はそっと横笛に口付けた。












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内容を忘れるくらい久しぶりの更新です。本当に気が向いた時更新で申し訳ないです。
3回目のプロポーズ。婚姻届持参でもあっさりフラれました。
次回は時間を戻して絳攸サイドの話です。出来る限りのフォローをっ(汗)
08/5/25

戻る/続く