6.月下美人の夢
「今日も絳攸は来ないのだなぁ」
自分と側近の片割れしか居ない執務室で王は嘆いた。相変わらず書翰の山は健在だ。
「主上、大丈夫ですよ。もうすぐ来てくれますよ」
側近の片割れも書翰を処理しながら明るい声で主の呟きに答えた。
本来は武官である彼が書翰を処理していることは可笑しな事であるのだが、この際そんな細かいことに構っていられない。この書翰の量は死活問題だ。書翰で窒息死する可能性だって十分ある。
「それは本当か!?」
自分の言葉で大喜びの王に、楸瑛はくすりと笑った。
「それまでにこの山を片付けて絳攸をびっくりさせてあげましょう」
「うむ!余は頑張るぞ」
「主上がやる気を出されればすぐですよ。絳攸が怒るのも貴方の力を評価してのことですからね。絳攸は力の無い者には求めたりしないんです」
「そ、そうか?」
普段の扱いが扱いなだけに、面と向かって褒められると何やら照れくさい。鼻の頭を掻いた劉輝に楸瑛は「ただし」と言った。
「息抜きは必要ですが、余り羽目を外し過ぎては駄目ですよ。貴方の代わりはいないんですから、ちゃんと体を厭って下さい」
「う、うむ」
「あと、貴方は…嗚呼、絳攸もですが。思い込んだら突き進むところがありますからね。広く周囲に意見を求めることも大切ですよ。小さな言葉にもちゃんと耳を傾けてあげて下さい」
「…楸瑛?」
劉輝は瞳を瞬かせた。
どうしたのだろう、と思った。何かが胸に痞えたような、そんな感じがした。
書翰の間から楸瑛の姿を探したが、書翰の山に阻まれて劉輝からは楸瑛の表情は見えなかった。
「私は、貴方ならそれが出来ると信じています」
「楸瑛っ」
ただただ穏やかに言葉を紡ぐ側近に、劉輝は堪らずその名を呼んだ。
「はい?」
「…………いや」
一拍後、劉輝は緩く首を振った。
何を訊いても無駄なのだろう。屹度この男は何も言ってはくれない。思い込んだら突き進むのは一体どっちだ。
けれど。
これだけは、解っていて欲しい。
「余も、楸瑛を信じておる」
「………有難う御座います」
静かに響いたその言葉に、劉輝は祈るようにそっと目を閉じた。
ゆったりと馴染みのある気配が近付いて来る。
邵可の帰った夜の府庫で、楸瑛はゆったりと口の端を上げた。
思ったより早かったな、と思う。今夜一晩くらいは待つ気で居たのに。
重く軋んだ音を立てて、府庫の扉が開かれる。
「…やぁ、いらっしゃい。迷わずに来れたみたいだね」
「誰が迷うかっ!」
そう怒鳴った絳攸はこの前会ったような女性物の派手な服装ではなかった。いつもの文官姿に近い。着飾った姿は確かに女性そのものだったが、今は普段の「絳攸」に近似していた。
絳攸が被っていた頭巾を外すと、その下から結っていない銀糸の髪が露になった。一つの髪飾りもせず、化粧もしていない。全く色気の無いその姿が却って魅惑的に思えた。
卓に置かれた手燭の炎が揺らめく。今夜は満月だ。窓から入り込んだ月光と蝋燭の明かりが、府庫に優しい光を作り出していた。
楸瑛は抑えていた息をそっと吐いた。
「今の私達を誰かが見たら完全に逢引に見えるよね」
以前二人で府庫に張り込んでいた時に遭遇した美人の幽霊に、逢引と間違えられたことを話題に出す。
「結局、あの時の幽霊は誰だったんだろうね。あんな美人の幽霊だったら毎晩出てくれてもいいのに」
軽口を叩けば、絳攸の眉間に皺が寄る。
「…お前はそんな話をする為に、俺をこんなところに呼んだのか?」
絳攸の言葉に苛立ちが滲む。
「…いいや?」
楸瑛は「だったら早く本題に入れ」とばかりに睨む絳攸に向けて、足を踏み出す。カツリと沓が鳴る。一歩、二歩と絳攸に近付く。
この間のように、絳攸は後退ったりはしなかった。
目の前に来た楸瑛を絳攸は軽く見上げた。以前よりも背に差が少しだけ開いた。
「絳攸」
楸瑛は名を呼んで、体の横に下ろされている腕のその手首を持ち上げた。
ずっと触れたかった「彼女」に触れた。
白い細い右手の中指には胼胝があった。
楸瑛はその掌にそっと唇を落とした。
あの時と同じ府庫で、同じ掌、同じ場所に。
けれど、外に雨は降っていない。今夜は満月。美人の幽霊もいない。府庫には自分たちだけ。
「っ!」
絳攸はあの時と同じように驚いて手を引こうとした。それを力で抑え、逆にこちらに引き寄せその身を抱き締めた。
感じたのは、花の香り。
「…ねぇ、絳攸」
その耳に吹き込むようにして囁けば、びくりと絳攸の肩が震える。
「私のこと、好き?」
絳攸が息を呑むのが解る。
返事を訊くより、抱き締める力を強める。細い、もとより細かった体がきしむ。
「私と…結婚してくれる?」
強く、強く抱き締める。
何かをその身に刻み付けるように。
その感触を忘れぬように。
押し殺すような声が僅かに漏れる。
「…ふざ、けるな。誰が…」
「それが、君の答え?」
問えば、僅かな間を置いて頷く振動が肩に伝わった。
「…そう」
抱き締める腕の力を弱めると、絳攸の困惑したような怯えたような瞳が映る。
右手を絳攸の頬に当てれば、その菫色の瞳が逸らされ俯く。
手を頬から滑らかな肌の上を滑らせ、頤を掬い上げた。
菫色の瞳が綺麗に丸くなるのを最後まで見ずに、自分の瞳を閉じた。
柔らかな唇に自分のそれを重ね、口付ける。
感じたのは花の香り。
それは、月夜に咲く花。
月の下に花開く、月下美人。
「彼女」は雅に、月下美人だった。
美しく、そして儚い。一夜だけの花。
さようなら、私の月下美人。
一夜だけの夢をありがとう。
月下美人の花言葉は―――儚い恋。
「―っ!何をするんだっっ!?」
盛大な音と共に、痛みが楸瑛の頬を伝う。
怒りで震える絳攸の背後の窓を確認した後、楸瑛はその瞳を閉じた。
全く、と思う。間が良いのか、悪いのか。
さぁ、夢を終わらせよう。
月下美人の、儚い恋の夢を。
「絳攸」
再び名を呼べば怒りに燃えた目を向けられ、苦笑う。
「…ほら、幽霊のお出ましだ。残念ながら美女ではないんだけどね」
楸瑛は窓に向けて、その指を示した。
怪訝な顔で絳攸が振り返った先には一人の男が居た。
「女性ではなくて残念などと短慮だな、愚兄其の四」
「…幽霊ってとこは否定しないんだ?」
「過去にそう呼ばれたこともしばしば」
「……へぇ」
その男は前回と同じように、窓の桟に手を掛けるとひょいと室内へと入ってきた。
「龍蓮」
楸瑛は弟の名を呼ぶ。
「持っているんだろ?」
問われて、龍蓮は懐から小瓶を取り出す。
「これか?」
「ああ、そうだ」
それは、絳攸に飲ませた物とは対を為す物。
夢の終わりを告げる物。
楸瑛は龍蓮からそれを受け取る為に、手を差し出した。
しかし、龍蓮は小瓶を持ったまま動かない。
「龍蓮?」
「…楸兄上は何も解っていない」
「え?」
龍蓮は握っていた手を小瓶から離した。
「なっ」
楸瑛は慌てて、床へと落ちていく小瓶へ腕を伸ばした。
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お、お待たせしました…。本当に…。
さて、早速1回目のプロポーズです。あ、違うか。夢で1回してるから2回目です。2回目も失敗しました。残念っ!
08/1/31