5.月夜の誘い











凄い勢いで駆け込んできた足音に、胡蝶は振り返った。

視線の先に居たのは先程別れたばかりの女性。逃げるように出て行ったかと思えば追われるように戻ってきた彼女に、胡蝶は方眉を上げた。

「忘れもんかい?」

「来るっ!」

「は?」

主語の無い彼女の返答に、胡蝶は首を傾げたが直ぐに彼女の異変に気付いた。彼女の顔は青ざめ、その形相には鬼気迫るものがある。出て行った時には目深に被っていた頭巾も無かった。

「悪いが失礼する!」

「来るって何がだい?」と尋ねようとした胡蝶の横をすり抜けて、彼女は階を駆け上っていった。

まさか、本当に追われているのだろうか?

胡蝶はその色気を漂わせる切れ長な瞳を細めて、入り口を見やった。

 

 

 

自分に頭突きを喰らわせて逃走した人物の後を追っていた楸瑛は、その人物が入って行った場所に一驚した。

絳攸が逃げ込んだのは自分の本来の目的地・娥楼だった。

女嫌いな絳攸に縁がある場所とは到底思えない。大体、花街を歩いていたことでさえもよくよく考えると不思議だ。

 

 

楸瑛が娥楼に駆け込むと、馴染みの女性の姿が目に飛び込んできた。

「胡蝶!」

「あら、藍様」

胡蝶が僅かに驚いた顔をしていたが、楸瑛はそれどころではなかった。

「ここに絳攸が来ただろう?会わせてくれ!」

「…絳攸って、李侍郎がかい?生憎いらしてないけど?」

胡蝶はしなやかな指を己の顎に当てながら、ゆったりと微笑んだ。

楸瑛は自分の言い方が悪かったことに気付き、訂正した。

「えーと、その、絳攸に似た女性がここに駆け込んで来ただろ?会わせて欲しいんだ。金なら払う」

楸瑛の言葉に胡蝶は途端に、その紅唇に酷薄な笑みを刻んだ。

「金で釣ろうって?この胡蝶も舐められたもんだ」

嘲りさえも含んだ響きに楸瑛は息を詰めた。

「あの子は妓女じゃないよ。大事なお得意様から預かった大切な客だ。藍様、あんたがうちの常連客だろうと藍家の直系だろうと将軍様だろうとできないものはできないし、どれ程の金と地位を持っていようと手に入らないものがあるんだよ」

冷ややかな言葉を吐いて胡蝶は踵を返した。

「客じゃないなら、帰りな」

仕事の邪魔だ、とばかりに奥へと消えようとするその背に楸瑛は堪らず叫んだ。

「―――胡蝶っ!」

胡蝶が足を止めたのを認めると、楸瑛はゆっくりと息を吐いた。

「…胡蝶。私はそんなこと、とっくの昔に気付いているよ」

搾り出すようなその声色に、胡蝶は顔だけを楸瑛に向けた。

「それでも…会いたいんだ。どうしても」

 

『楸瑛は絳攸に会えなくて寂しくないのか!?』

 

―――会いたかった。会える切欠をこの七日間いつも探していた。

 

「頼む、胡蝶」

深々と頭を下げた男に胡蝶は珍しく目を瞠った。

この男の矜持の高さはよく知っている。睦言や戯れなら兎も角も、一介の妓女に頭を下げるような男ではない。

十八で出逢った当時は、その貴族特有の傲慢さが鼻についたものだが…。こんな姿を見れるようになるなんて、人は変わるものだ。

胡蝶は目の前の男に浮かぶ必死さに頬を緩めた。

「…貸しは大きいよ?藍様」

「胡蝶…」

顔を上げた男は、少し情けない顔をしていた。

胡蝶はふっと笑った。

「付いてきな」

 

 

 

連れて来られたのは娥楼の最上階。馴染みのある胡蝶の座敷だ。

胡蝶は室の前で「もう一度言うけど」と口を開いた。

「あの子は妓女じゃないよ。大事なお得意様から預かった大切な客だ」

「…私はそんなに信用がないのかい」

楸瑛は心外だ、とばかりに言ったが胡蝶は「全くないね」と一笑に付した。

そしてこの花街一の美女はからからと笑いながら、階を降りていった。

 

 

楸瑛は室の扉を開き、一歩を踏み入れた。

「…絳攸」

広い室の隅で身を縮めている一人の女性に声を掛ける。

細い肩がびくりと震えた。

一歩近付くと一歩分遠ざかるので、楸瑛は足を止めた。

「ねぇ、絳攸」

「ひ、人違いだと言っただろうが!」

どうやら人違いでやり過ごす魂胆らしい。

そんなことを言ったって「絳攸らしい」としか思わないのにな、と楸瑛はくすりと笑った。

「だったら、絳攸と同じところに黒子のある君は誰?」

「は?」

「ほら、ここだよ」

己の右首筋を指差しながら言う。

「そんなところに黒子など無い!」

その言葉に楸瑛はにたりと笑う。

「あれ、君には無いんだ?でも絳攸にはあるんだよ?何せ私と絳攸は親友で深い仲だからね。彼のことは何でも知ってるんだ。彼の体のどこに黒子があるか、どこが弱いか、どこを攻めればどんな声で…」

「き、きき貴様は一体何の話をしているっ!?何が深い仲だ!!!貴様とは只の腐れ縁以外の何ものでもないと…っっ!」

鳥肌を立てながら抗議をしていたその口がピタリと止まった。

「ほら、やっぱり絳攸じゃないか」

「………………………」

「絳攸?」

「………………………」

「こーゆー?」

「煩いっ!」

絳攸なりの返事に思わず噴出したが、思い切り睨まれた。

「久しぶりだね。元気?」

言った後に自分でも可笑しなことを訊くもんだと思ったが。

「元気なわけあるかっ!この姿を見てよくそんなことが言えるな!!」

やっぱり怒られた。姿かたちは兎も角、元気には元気そうだ。腹を壊している様子もない。

「くそっ!何で判るんだ。普通、気付かないだろうっ!」

納得いかないとばかりに、絳攸は怒鳴った。

「嗚呼、それはやはり愛の力かな」

「ふ・ざ・け・る・な」

いや、至って真面目なのだけどね、とは声に出ず。

「うん、まぁ匂いが…」

「匂い!?お前は犬かっ!?」

ひぃっと絳攸は三歩後ずさった。

感じたのは花の香りだった訳だが、変質者を見るような目で見られた楸瑛は何も言えなくなった。

体を壁に張り付かせたまま全身で警戒心を露にしたまま、絳攸はふと尋ねた。

「大体…何故、お前は驚かない?」

「ん?」

「普通はもっと驚くだろ」

「…驚いているよ?」

想像していたよりずっと綺麗で、と心の中で思った。

化粧をし、女物の衣を纏っている姿ならある理由で見たことがあった。その姿も十分に綺麗だった。でもそれとは違う。僅かに丸みを帯びた体型や骨格、纏う雰囲気が女性にしか有り得ないものだった。

目の前の人は「女性」だった。

そして。

間違いなく「李絳攸」だった。

その事実に楸瑛の心は震えた。

 

「…ところで、君はここで何をしているわけ?お得意様がどうとか胡蝶は言ってたけど、君よく来るの?」

何かをいぶかしんでいる絳攸に対して、我ながら態とらしい方向転換だと思ったがそれを知りたかったのも本当だ。

「お前と一緒にするなっ!俺だって来たくて来たわけではないわ!」

「え、じゃあ迷…」

「違うっ!…それは、その百合様が…」

「百合様?百合様が妓楼に来るの?何しに?」

意外な人物の名が出て、楸瑛は純粋に驚いた。それに対して絳攸は憮然とした様子で呟いた。

「…妓女遊びだ」

「…はい?」

「妓女遊びだ」

どうやら自分の聞き間違いではなかったようだ。

「…妓女遊びって女性が?…あれ?えーと、どこかでそんな話を聞いたような」

「あの女だ。あの猪みたいな女」

「猪って君ね…。碧歌梨殿のことかい?」

絳攸は一つ頷くと、何故こんなことになったのか自分でもわからないといった様子で話し始めた。

「百合様が友人に俺の肖像画を描いてもらおうとおっしゃってな…」

突如として女性になった養い子に、百合姫は大喜びだった。「絳攸が女の子になった記念に、折角だから画を残しましょう」と百合姫が言い出したのだ。本人にしてみれば何が折角なのかは解らなかったが。

そして絳攸は百合姫が出した友人の名前に驚愕した。

「俺も知らなかったのだが、百合様は時折ここに来ていたらしいのだ。今はあの胡蝶という妓女のところに遊びにきているのだが…まぁそのうちにあの女とも知り合いになったらしい」

それで目一杯着飾らされた絳攸は歌梨との待ち合わせ場所である娥楼へと、強制的に連れて来られた、というわけだ。

「…世間って狭いね」

自分も散々この妓楼に通ったが、鉢合わせになったことはなかった。

「それにしても、百合様までとは。何でまた」

梨歌のように大の男嫌い・女の子大好きっという訳でもなさそうだし。

「一番初めの切欠は…夫婦喧嘩らしい」

百合姫は夫と喧嘩した気晴らしの為にこの娥楼に立ち寄ったらしい。そして…何故か妓女遊びが気に入った…らしい。

「へぇ、あのご夫婦でも喧嘩するんだ」

楸瑛は変な感心をした。

うちの兄夫婦は卵焼きが甘いか甘くないかでよく喧嘩していたな、とぼんやり思った。

「あの黎深殿が犬も食わない喧嘩とはね」

「そんな生易しいものではないわ!」

絳攸は全力で否定した。

犬も食わない喧嘩…などという可愛らしいものではない。虎だって逃げ出すに決まってる。

一度遭遇したことのある養い親達の喧嘩を思い出して、絳攸は身震いをした。

 

 

 

「お取り込み中、邪魔して悪いけど」

「胡蝶」

胡蝶が扉の影からひょっこり姿を現して、楸瑛は振り返った。

しかし胡蝶が用があったのは絳攸の方だった。

「百合さんから文が届いたよ。『息子さんが熱が出たので梨歌さんは今日は来れないそうです。迎えを寄越すので待っていてね。くれぐれも一人で出歩かないように。悪い男に捕まってしまいますよ』だって」

胡蝶が文を読み上げる。

「…悪い男」

思わず呟いた絳攸につられるように、胡蝶もこの室にいるもう一人の人物へと視線を寄越す。

「…何故二人して私を見るのかな」

胡蝶は先程、絳攸が帰ると言い出したのを止めるべきだったのかもしれない、と思った。

 

 

 

胡蝶が再び立ち去ると、楸瑛は口を開いた。

「私ももう帰るよ」

その言葉に絳攸の顔が上がる。

「このままここに居たら押し倒してしまいかねないからね」

「お前はまたふざけてっ」

「だって君、ここがどういう場所か解ってるのかい?妓女に間違えられないように気を付けるんだよ?」

それに対して絳攸が何事か言おうとする前に、楸瑛は言葉を紡いだ

「ねぇ、絳攸。明日…いや、三日後の夜。私に時間をくれないかい?」

楸瑛からそれまでの茶化した雰囲気が消え、絳攸も怒鳴るのを止めた。

「…お前の邸か?」

「いや、府庫に来て欲しいな」

「何故府庫なんだ?」

「実はさ、知ってるかい?府庫に幽霊が出るんだって。何でも飛びきり美人の幽霊が出るらしいんだ。それは是非見てみたいじゃなか」

「おいっ」

あからさまに顔を顰めた絳攸に、楸瑛はくすりと笑った。

「冗談だよ。君に話しておきたいことがあるんだ」

「こんな姿で城へは行けない」

「夜だし、それについては私がなんとかするから大丈夫だよ。府庫の鍵も開けておく」

楸瑛は絳攸の返事を待たずして室を出ていった。…かと、思ったが再び顔を覗かせた。

「府庫まで迷わず来れる?邸まで迎えにいったほうがいいかい?」

「いらんわ!」

即座にきって捨てれば、男はいつもの軽薄そうな笑みではなくどこか優しげに微笑んだ。

「じゃあ、三日後の夜。府庫で待っているね」

逢瀬の約束を交わして、男は去っていった。












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ここまでヘタレる予定ではなかったのに…摩訶不思議。とりあえず胡蝶さんが書けて嬉しいです。百合姫が胡蝶さんと知り合いって設定は白百合読む前から考えていたんですが、どうやら原作でも顔見知りみたいですね。と、なると梨歌姉さんとも知り合いの可能性が…。
迷子の才人っぷりを書くことは私には不可能です。
07/11/13

戻る/続く