4.花薫る街で











絳攸が出仕を控えて七日経とうとしている。

「楸瑛が真面目に仕事するようになったかと思ったら、今度は絳攸ではないか…」

劉輝は溜息を吐いて、書翰の山に突っ伏した。横目で今は執務室に居て自分の仕事を手伝ってくれている側近の一人を軽く睨む。苦笑いが返ってきた。自分が仕事をサボっていた理由も、相方が休んでいる理由も言う気はないらしい。劉輝は「むぅ」と小さく唸った。

楸瑛はふっと息を吐くと、静かに口を開いた。

「…吏部はそれは、酷いことになっているんでしょうね」

同情を含んだ言葉に劉輝は顔を上げた。

「いや、それがな、黎深が真面目に仕事を片付けたらしいぞ」

「え?」

目を瞬いた楸瑛に劉輝は「何だ、知らなかったのか?」と意外そうな顔をして説明し出した。

「何でも七日前に一月分の仕事を一刻半ほどでやってしまったらしいのだ」

仕事をしないことで有名な彼は一月分だけ片付けると、「何故、一月なんですかぁ!?せめて一年分やって下さいよぉぉぉ」と泣きながら縋る部下達を蹴散らして帰ってしまったらしい。しかもその後は養い子同様出仕していない。

「…黎深殿が、そうですか」

楸瑛は顎に手を当てて、何やら思案する顔になった。しかし楸瑛のそんな様子に頓着することなく劉輝は嘆いた。

「だから吏部はまだいいのだ。問題は余なのだ!どーするのだ、こんなに書翰を集めてしまって!ああ、絳攸!絳攸に会いたい!!こ~ゆ~!!」

「しゅ、主上、私も手伝いますから!」

机上の書翰をばらばらと床に落としながら喚き始めた王様に、流石の楸瑛も慌てた。崩れ落ちそうになる書翰の山を押さえつつ、暴れる劉輝の腕を取ると彼にきっと顔を向けられた。

「楸瑛は絳攸に会えなくて寂しくないのか!?」

「へ?」

「楸瑛は毎日毎日絳攸をからかって楽しんでいるのに、七日も会えないのだぞ!?寂しいだろう!?寂しいに決まっている!余は寂しい!だから楸瑛、絳攸を連れてくるのだ!余の為に!!」

「…………はぁ」

 

 

その後何とか劉輝を宥めることに成功した楸瑛は、処理し終えた書翰を各部に届ける為執務室をそっと出た。

「…寂しい、ねぇ」

先程の劉輝の言葉を思い出し、独り言う

どんなに王に頼まれようと、紅家を訪れる気はなかった。

絳攸が出仕を控えているのは、自分が飲ませた物の所為なのだろう。

しかしあの日以来、絳攸からは何の音沙汰も無い。

しかも、あの隠れ親馬鹿なあの人から刺客が送られてこないのはどういう訳だろうか。余りに静かで、却って不気味だった。

…ただ腹を壊しただけ、という落ちでないことを願おう。

 

 

楸瑛はその夜、真っ直ぐ自邸に向かう気にならなかった。そんな夜は決まって足が自然と花街へ向かう。しかし美しい妓女達と華やかな時を過ごす気はなかった。目指すはこの花街でも最高級の妓楼・姮娥楼。そこには名妓中の名妓、馴染みの花・胡蝶が居る。

胡蝶とは国試を受ける為に貴陽に来てからだから、長い付き合いだ。

いい妓女を指名するには高い花代が掛かる。それこそ胡蝶に至っては身を滅ぼしかねない額だ。それを払っても彼女は「また来たのかい」と悪態を吐く。本当に迷惑そうな顔にほんの僅かな親しみをこめた顔を向けてくれる。

本当は、彼女を指名しても体を重ねなくなって久しい。

組連の繋ぎとして、情報源として会っているというのもある。

けれど。

何より、自分の心が本当は誰を求めているのか知っているから。

客である自分につれない態度をとる彼女の、その冷たく自分をあしらう感じが彼の人に似ているなんて、気付いたのはいつからだろう。それ以来彼女を抱いていない。

 

 

夜の帳が落ちてからが真の賑わいをみせる街を、楸瑛は慣れた様子で渡っていた。見世からは楸瑛の姿を認めた妓女達から声が掛かる。それに薄く笑って、手を振り返す。いつの間にやら有名になったものだ、と我ながら思う。

後宮の女官に手を出すこともしばしばあるのだが、花街の方が気安くつい足が近くなる。

ここは、仮初の恋愛遊戯を金で買える場所だ。

妓女は玄人であればあるほどいい。ちゃんと領分を解っている。

心まで欲しがらない。

その点で、胡蝶は間違いなく玄人の妓女だった。

 

 

姮娥楼へ続く大通りで、頭巾を目深に被った女性がこちらへ向かって歩いてきた。その派手な格好からして妓女のように見えるのだが、それにしては頭巾で顔を隠している。本人はその気がないのかもしれないが、見るからに高級そうな浅紅色の衣が却って人目を引いていた。

その女性と擦れ違い、横を通り過ぎる。

 

その時。

 

花の香りがした。百合の香が鼻を突く。

そして

花の香りに混じって、「彼」を感じた。

理屈ではなく、ただ「彼」だと思った。

周囲の喧騒が遠くなる。

 

楸瑛は体を反転させると、その女性の腕を掴んだ。

体の揺れで頭巾が捲れ、その顔が露になる。

 

そこに

 

会いたくて、会いたくて

文字通り夢にまで見た「彼女」が居た。

 

 

幾分低くなった背丈。

僅かだが、確かな胸の膨らみを衣の上からも見て取れる。

細い、けれども柔らかさを持った腕。

自分に掴まれた手首を顔の高さまで上げて。

くっと引き結んだ口には薄く紅が刷かれていた。

少し丸みを帯びた頬には、僅かに朱が走っている。

自分を見据える菫色の瞳を縁取る睫毛は長い。

輝く銀糸の髪が頭巾の間から覗いている。

差異はあれど、どれも自分がよく知る彼に基づくもの。

何より、自分が間違えるはずない。

 

「…、絳攸」

名を呼べば、菫の色が一際濃くなったように感じた。

「―っ」

自分を睨みつけたままの彼女の足が僅かに横に動いたのを、目の端で確認する。

足技…蹴りでくるか。そう思って、構えた次の瞬間。

 

どごッ!

 

確かにその時、目に星が飛んだ。

彼女から飛んできたのは足ではなく、頭だった。飛び蹴りならぬ飛び頭突き。…女性に頭突きされたのは生まれて初めてだ。

 

「ぐっ、いっ…こ、絳攸っ!」

痛みに耐えながら慌てて、駆けて行く背中に呼掛ける。

その人は、常より少し高くなった声で叫び返した。

「人違いだっ!」

…人違いって。人違いをしただけの相手に何故頭突きを喰らわせる必要があるのか、説明してほしい。

それにしても。

…何というか、勿体ない。本人は自分を弱いと思っているが、筋はいい。ちゃんと鍛錬を積めば中々の腕前になるのに。

 

痛みの残る額を押さえつつ、そんなことをぼんやり考えながら、楸瑛は走り去って行く彼女の後を追った。












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女絳攸登場…です。一言しゃべったし。凶暴ですが。
相変わらず迷子センサー完備の将軍。

このシリーズのタイトルは「夢」繋がりではないはずなのに、3話まで続いてしまったので、今回考えるのに迷いました。で、結局これ。
まだまだ先は長いです…。
07/10/21

戻る/続く