2.どうか覚めない夢を
「最近、楸瑛の様子が可笑しいのだ」
突然の劉輝の言葉に、絳攸は仕事の手を止めた。
「…そうですか?」
「うむ」
大きく頷く劉輝に、絳攸は首を傾げる。
最近の楸瑛…?そう言えばここ最近は顔を見ていない。
今も執務室には自分と王の二人しか居ない。王の近衛とはいえ楸瑛にも別件の仕事があるだろう。大体、奴の仕事を自分は全て把握している訳では無い。
「可笑しいって具体的には?あいつが可笑しいのは元からだと思いますが」
随分な言い様な気がしないでもないが、劉輝はそんなことには拘らなかった。
「珠翠から『最近はボウフラ男が後宮に入り浸らなくて助かります』と言われて…」
「それは良いことじゃないか」
それで話は終了とばかりに仕事を再開させた優秀な側近に、王は慌てた。
「いや、後な!何でも朝稽古も来ていないとか!余の所にも最低限しか顔を出さずに、さっさと帰ってしまうし…」
ここまで言ったところで、絳攸の体が震え出したことに劉輝は気付いた。
「―――あの男は〜仕事せんかっ!!!」
絳攸の握る筆がみしりと音を立てた。
流石、人事を司る吏部の侍郎。職務怠慢な将軍に今すぐにでも解雇を宣告しそうな勢いである。尤も文官と武官では人事制度が異なるのだが。
「何か悩みでも有るのではないだろうか」
劉輝は楸瑛の弁護を試みた。
「知りませんよ!」
「楸瑛は矜持が高いからな。余に相談するとは思えないし…」
じっとこちらも見る劉輝の視線に気付いて、絳攸は何を期待されているのかを悟る。
「嫌です」
半目で即告げれば、劉輝は口をへの字に曲げた。
「…冷たい。屹度、絳攸が迷った…じゃなかった、悩んだ時には楸瑛は力になってくれるのに」
劉輝のその言葉で、かつての礼部尚書の言葉に心が沈んだ時のことを思い出した。自分の沈んだ心を掬い上げたのは邵可様だった。その邵可様に頼んだのは…。
「くっ、奴に会ったらだからなっ」
忌々しげに言ったのに、劉輝はにこりと笑った。
「やはり絳攸は優しいのだ」
奴と違って悪意無く告げた言葉だと判っていても、それを簡単に受け止めれるほど自分は素直ではなかった。
「では、主上はこの書簡の山を片付けておいて下さいね。私は府庫に行って参りますので」
「う、うむ」
身の丈はありそうな書簡の山を指差せば、王は僅かに引きつった顔をした。
何故か府庫に件の男の姿があった。
熱心に何かの書を読んでいた。よほど熱中しているのかこちらの視線に気付いた風もない。
「…おい」
「っ、絳攸」
弾かれた様に振り返る楸瑛の姿を見てこちらが驚く。
確かに様子が可笑しい。
内心だけで舌打ちをして、口を開く。
「今夜、付き合え」
「え?」
その命令口調に楸瑛が目を瞬く。
「俺の邸で飲むぞ」
「…いいのかい?」
「何だ、それは」
質問の意味が判らず眉を寄せるが、楸瑛は更に問いかける。
「本当に?」
「そんなことくらいで嘘ついてどうする」
相手が何を言いたいのか掴めず、段々不愉快になってくる。
「嫌ならいい」
「いいや。…今夜伺わせて頂くよ」
「だったら初めから、変なこと言わずに…」と文句を言う絳攸にはその時楸瑛が浮かべた笑みの意味を図ることが出来なかった。
自身の邸を有しているといっても絳攸の邸は紅区に在り、紅家当主夫婦が住まう紅家貴陽邸とは同じ敷地内に在る。
ほどほどに酔いが回り始めたところで、絳攸は口を開いた。
「…どうかしたのか?」
酔っていればこの男も口を割りやすいと思ったのだ。しかし楸瑛は僅かに目を瞠った後、緩く首を振った。
「何でもないよ」
判りきっていたことだった。
なのに、その返答に僅かに痛みを感じる。胸の奥に。
「俺はそんなに頼りないか?」
こんなことを言うなんて、自分は相当酔っているのかもしれない。
言ったはいいが、ばつが悪くなって更に酒を呷る。その為、絳攸は楸瑛が「どうして君は、そう」と呟いたのに気付かなかった。
絳攸が空になった自身の杯に酒を注ごうとすれば、楸瑛がやんわりとその手を押し留めた。
「…大丈夫だよ。君が居てくれさえすれば」
「意味が解らん」
「その内、わかるよ」
楸瑛はいつもと同じ顔で笑っていた。
その顔が段々とぼやける。急激な睡魔が訪れる。
確かに自分は酒が入ると眠気に襲われるが、それでも今日はそんなに飲んでいない筈だ。
―――嗚呼、駄目だ。まだ自分は何一つ聞き出していない。
しかし、その意思とは裏腹に意識を保って居られない。
最後に見た楸瑛は笑っていた。その笑顔が酷く歪んでいた。
絳攸が完全に眠りに落ちると、楸瑛はそっと息を吐いた。
僅かに目を閉じて思案した後、楸瑛は絳攸の体を抱き上げた。
庭院に面した室から絳攸の自室へと歩を進めると、家人達が慌てて駆け寄って来た。それに、「酒を飲み過ぎて眠ってしまったようだから彼を寝台に運んで、私も失礼させて頂くよ」と説明して下がらせてしまう。もし絳攸が起きていたら、「人の家の使用人に勝手なこと言うな!」と怒っただろう。
それにしても、ここの家人は主と同じで自分に対して、無防備過ぎるのかもしれない。
いや、自分が信用されているのか…?
そう思えば知らず、自嘲的な笑みが浮かぶ。
とんだ裏切りだ、と。
楸瑛は絳攸の自室の寝台に絳攸の体を横たえた。
絳攸は目を覚ます気配が無い。
それはそうだろう。自分が酒に催眠薬を混ぜたのだから。少量でも効果があって、体に害が無い、医療で用いられる物だ。
楸瑛は暫くの間絳攸の規則正しい寝息を聴いていたが、おもむろに懐から小瓶を取り出した。その小瓶を両の手で包み込む。
今ならまだ引き返せると、どこかで声が聴こえた気がした。
それを振り払う。
「ごめん、…ごめんね」
こんな謝罪を繰り返したところで、何も許されはしない。
ただ自分が謝ったという事実だけが欲しいのか。そんなもの何の気休めにもなりはしない。
許される筈などなくても。
それでも、どうしても欲しかった。
楸瑛は手に持つ小瓶の中身を自らの口に含むと、絳攸の薄く開いた唇にそっと指で触れた。片足を寝台へと乗り上げると、軋んだ音が室に響いた。
眠る彼にそっと、口移しで液体を流し込んだ。こくりと絳攸の喉が嚥下するのを見届ける。
小瓶の中身を全て飲ませ終え、絳攸の健やかな寝息を確認すると楸瑛は絳攸の自室を去って行った。
憎まれても、恨まれても、蔑まれても構わない。
何を失っても構わない。
ただ一度
覚めない夢の中で、彼女を抱き締めたい。
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「さらば〜」では瞼にしか出来なかったのに、成長したんだね(違う)。
暗ーい。そして不憫がやばーい。
次回はちょっと時間が遡ります。
07/8/16