青嵐の後に残るものE











国試で出逢ったその子は、まだ少年だった。

第一印象は、無表情な詰まらぬ子供。そう、思った。

それなのに。

自分より二つ年下の彼を、放っておけなくなったのはいつからだろうか。

彼は藍の盾を持つ自分と違って、常に直接的な敵意に晒されていた。

それでも、決して屈することなく凛と立っていた。

その姿は貴いものに映ったが、同時に彼のその不器用さが自分を苛立たせることもあった。

昔から自分は己の利益、延いては藍家の利益になる様な人付き合いしかしなかった。近付いて来る者を無言で試し、相手が及第点に達しないと無言で切り捨てた。何の疑問も持たずに。作られた笑みを顔に張り付かせたままで。

 

彼の特殊な性質を初めて知った時、自分は笑った。それはもう腹が痛いくらいに笑った。

「こんなに笑ったのは生まれて初めてだ」と言った自分に、彼は不機嫌丸出しの顔で告げた。「道理で。お前は詰まらなそうな奴だと思った」と。

 

詰まらぬ人間だったのは、自分だった。

 

彼だけが、いつだって私の想像を超える。

何の打算もなく、極自然に、傍に居たいと思うようになった。

 

絳攸は今、何を考えているだろうか。まだ泣きそうな顔をしているのだろうか。

思えば藍州から帰ってから碌に話もしていない。

声を聴きたいと思ったが、自分を迎えた表情の無い瞳が脳裏に蘇る。

またあんな表情をされたら…と思うと少し気弱になる。

 

 

 

楸瑛は一度自嘲気味に笑んだ後、手綱を強く握った。

 

 

 

執務室の前で、全速で馬を駆けらせた為にあがってしまった息を整えると扉をそっと開けた。

執務室に絳攸の姿は無かった。どこに居るかと探せば、すぐ傍の庭院で彼の姿を見付けた。ぼんやりと空を眺める彼が、空に吸い込まれてしまうのではないかと思った。

「絳攸っ」

心許無い様子で立ち尽くす絳攸に、堪らず声を掛けた。絳攸は弾かれた様に振り返った。そして自分の姿を認めると、驚いた顔をして駆け寄って来た。

「楸瑛!どうした…主上は!?他の者はどうした!?」

自分一人だけが帰ってきたことに、異変を感じたのだろう。焦って掴みかかろうとするのを、宥める様に落ち着いた声で話す。

「大丈夫。邵可様が珠翠殿を助けてくれたんだ。それで今は街の医師のところへ。主上も付き添っておられる。リオウ君も、皆無事だよ」

「そうか…」

安堵し掛けたところで絳攸は楸瑛の衣に付く血に気付いて、聞き質す。

「お前、怪我をしてるのか!?」

「いや、これは返り血だ」

微笑を浮かべれば、絳攸がほっと息をつくのが判った。

 

そんな絳攸の様子に、自分が藍州に帰る以前の様な顔をしてくれたことに、酷く安心する。

それだけで、もう充分な気さえしてくる。

これで元通りになると。

これからも絳攸の傍で、気付いた己の気持ちをそっと育てていけばいいと。

 

ふと見れば、絳攸の顔色は夜目にも良くなかった。

自分達を心配して待っていた所為もあるのだろうが、それにしては皆の無事を伝えた今でも顔色が悪い。

触れた絳攸の肩は夜の冷気で、ひんやりとしていた。一体いつから外に居たのだろうか。

春先とはいえ、今日は特に冷える。

「いつまでも、こんなところに突っ立ていては風邪を引いてしまうね」

そっと絳攸を促して、歩き出した。

夜明けが近いが数刻でも仮眠をとった方がいいかもしれない。

「執務室に戻る?それとも府庫で仮眠室を借りた方がいいかな?」

歩きながら、絳攸に問い掛けた。

「………」

返事が無い。

後ろを振り返ったが、絳攸は付いて来てはいなかった。

「絳攸?」

首を傾げれば、数歩離れた絳攸がまっすぐに見詰てくる。

「…もう、いい」

「え?」

おもむろに紡ぐ言葉の意味を掴みきれない。

「お前は…」

見詰る菫色の瞳に、悲しみの色は無かった。

 

「あの女のところにいてやったらいい」

 

絳攸の口から発せられた言葉が何重にもなって、頭の中に響いていた。

 




 

 

楸瑛は酷く驚いた顔をしていた。行き成り何を言い出すのかと、思っていることだろう。

けれど、言い出すのは今しかないと思った。

『あいつのこと頼むぞ』

あの男はそう言ったが、頼む相手が違う。それを言われるのは、俺ではない。屹度、あの女だ。

 

俺は、いつも甘えていた。

『迷子になった君を連れ戻すのは、初めて会った時から私の役目のようだから』

いつだって探しに来てくれるから、その言葉に甘えて。

いつも何を言っても笑ってくれるから、その存在に甘えていた。

 

でも、もう

俺が甘えることはできない。

甘えては、いけない。

 

「今まで…すまなかったな」

 

楸瑛の瞳が見開かれるのを、直視できなかった。

 

こんな時でも「有難う」が言えない自分に嫌悪さえ抱く。

けれど、やっと言えた。初めて手を引かれたあの時から、今まで。すまなかった、と。

 

『君が一人で突っ走りそうになったら、私が止めるからね』

本当は嬉しかった。

どれだけ否定しても親友だと、言ってくれたことも。あの言葉も。

嬉しかった。

だから

もう、お前はあの言葉を忘れていい。

あの言葉に縛られなくていい。

もう充分だ。

別に何が変わる訳じゃない。

これからだって、自分と楸瑛は主上付で、腐れ縁だ。

それで、充分だ。

 

「俺は、一人で大丈夫だ」

顔を上げて、最後の意地で笑ってやった。












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