絳攸が何を思ってそう言い出したのか、解らなかった。いや、解っていたのかもしれないが解りたくなかった。
解ったのは、絳攸が自分から離れたがっているということ。
苦い思いが胸を満たす。
「…うん、知ってる。君は強いからね」
絳攸はいつだって歯を食いしばりながらも、一人で立ち続けた。私が居なくても。
絳攸が自分から離れたがっているならここで彼の望む言葉を、行動を取ることは屹度、出来る。
けれど。ここでそれを成してしまえば、自分はもう二度と彼の銀糸の髪に、その手に、触れることはできない。今までと何も変わらぬ様で、何もかもが変わってしまう。
自分はもう逃げないと、決めた。
数歩歩み寄って、離れてしまった距離を近づける。
「…でもね」
ぎこちなくしかし確かな強さでもって笑う絳攸を、抱き寄せた。
「私が、大丈夫じゃない。君が居ないと…私は私でなくなってしまう」
謝らないで欲しい。謝らなければならないのは、私だ。
自分はいつだって、卑怯だ。
二年前、絳攸が香鈴の自殺未遂に動揺し、傷ついていたのを見た時。私は、本当はどこかで安心したんだ。
絳攸の中に、自分の入り込める隙間を見付けたから。
彼の弱さに付け込む真似をしても、傍に居たかった。
見捨てないで。呆れても、怒ってもいいから。傍に居て、傍に居させて欲しい。
笑ってくれなくていい。その笑顔が自分以外のたった一人のものであっても構わない。
君が傍に居る限り、何を失っても立っていれるのに。
離れていかないで。
君が、私が私で居る為の最後の砦なんだ。
絳攸は自分を正面から抱き締める楸瑛に、信じられないといった顔をした。
「楸瑛、何…言ってる」
これ以上甘える訳にはいかない。
同情されるのは、嫌だ。惨めな思いをするのは、嫌だ。
「放せ」
「嫌だよ」
その肩を押しやろうとしたが、それ以上の力でもって抱きすくめられる。
「放して、くれ。…頼む、から」
声が震える。楸瑛は昔から自分の頼み事は断らないと知って、言う。
それでも、その腕の力は弱まらなかった。
「…君がどうしても、私を拒むというなら」
楸瑛の声が直接耳に響いて、ぞくりと肌が粟立つ。
「ここで心中するしかないよ」
「…は!?」
理解するのに、数拍を要する。理解した後は、物騒な単語に驚愕する。
「何を言い出すか!」
絳攸は楸瑛の腕の中で暴れる。
それを軽々封じて、楸瑛は笑う。
「私も、我らが主殿を見習おうと思ってね」
あの馬鹿王の入れ知恵かっ!絳攸は年下の王の顔を思い浮かべて、心の中で悪態を吐いた。
「心中なんて、簡単に命を懸けるなっ!」
「うん。だから、覚悟の問題だよ。簡単じゃない。私だって死にたくないからね」
それだけの覚悟をもって、自分を拒むなと言うのか。この男は。
「…救いようの無い常春馬鹿だ」
できるだけ不機嫌そうに言ったが、成功したかどうかは判らない。
「ねぇ絳攸。私は傍に居てくれる?、なんて聞かないよ」
常春男はどこか楽しそうに言った。ここからその顔は見えないが、屹度笑っているだろう。不敵そうな顔で。
「そんなこと言っても、君は一人で突っ走ってしまうからね。私が、君の傍に居るよ。喩え君が嫌だと言ってもね」
何だか視界が霞むのは、屹度疲れているからに違いない。
最近は仕事が片付いてもちっとも眠れなくて、睡眠不足が続いていたから。
先程より緩んだこの腕を振り解けないのは、寒いからだ。
何だか心臓の奥が軋んで痛いのは…
何故だろう。
理由はよく判らない。
「…勝手にしろ」
溜息の様なその返答に、心が満たされる。
「うん」
君の傍に居る。
喩え幾年が過ぎようとも。
抱き締めた絳攸からは仄かに墨の香りがした。
触れ合った先から愛しさが溢れ出す。
例えば、珠翠殿の邵可様に対する想いだとか、邵可様の細君に対する想いだとか、迅と十三姫の想いだとか、主上の秀麗殿に対する想いだとか…屹度、誰にも誰かとの想いの大きさを測ることは出来ない。
それぞれに異なる形と大きさをもって、それは存在する。
私の中にも、確かに灯るものが在る。
「あ…」
ふと何か思い出した様に、絳攸の体が揺れる。抱き締める腕の力を緩めると、おずおずといった様子で絳攸が体を俄かに離す。その頬はうっすらと染まっていた。
「どうかした?」
「…その、別に深い意味が有る訳ではないが、まぁ、その、言い忘れというか、何と言うか」
ぶつぶつと言う絳攸に首を傾げる。
「うん?」
絳攸が意を決した様に口を開く。
「……、お…かえり」
ほら、やっぱり。君は、いつだって私の想像を超える。
『ただいま』
君のところへ。
ようやく帰って来ることが出来たよ。
ありがとう、ありがとう、ありがとう
言葉になんて、ならない位。
君に出逢えた、全てに、心からの感謝を。
気恥ずかしさから瞳を逸らしてしまった絳攸の唇に、柔らかいものがそっと当たった。
余りに自然で何が起こったか判らないくらいに、それは触れた。
絳攸は数回目を瞬く。
「…今」
「ん?」
わななく絳攸に楸瑛は極上の笑みを浮かべ、もう一度絳攸を抱きすくめた。
「お、お前…!」
「あ、」
「え?」
怒鳴り散らそうとした絳攸だったが、楸瑛が何かに気付いて空を見上げるのでつい怒気を抜かれる。つられて空を見る。
「雪だ…」
季節外れの粉雪が、二人の頭上に舞い降りた。
楸瑛は考え深い思いで、その雪を見上げた。
かつて雪は長兄を思い出させ、通じて長兄を愛する義姉を思い出させた。
その二人と同じ想いが確かに、自分の心にも存在する。それが、誇らしい。
冬の終わりと新しい季節の始まりを告げる雪が降る。
春がやって来る。
腕の中の愛しい人が言うには、私の季節だ。
嵐の後に残ったのは―――
私は愛を手に入れた。
*************
告白より先に、プロポーズって感じで(笑)
楸瑛は珠翠にフラレても玉華にフラレても生きていけるけど、絳攸に見捨てられたら生きていけない…そんなヘタレを希望。
「さらば〜」は劉輝に、「青嵐の後に〜」では絳攸に『おかえり』を言わせてみました。
07/7/2