青嵐の後に残るものC
「全く、無茶をする」
閃光が去って目が慣れると、そこには無傷の珠翠が立って居た。
しゃんと背を伸ばして、口元には笑みさえ浮かべて、どこか優雅に佇んで居た。
劉輝と楸瑛は珠翠の姿に瞳を見開いた。
そう、姿は珠翠だ。
しかし、その表情や纏う雰囲気は彼女が持つそれではなかった。
「珠翠、なのか?」
呆然と劉輝が呟く。
「主上、気を付けて下さい。何があるか判らない」
楸瑛はそっと息を詰め、その女性の動向を窺った。
ただ邵可だけが、声もなくその女性を食い入る様に凝視する。
まさか…という思いと、それでも…という思いがせめぎ合う。
自分が彼女を見間違える筈もない。
その雷光の様な眼差しが、己を捉える。
そして珠翠は口の端を上げた。その唇が言葉を紡ぐ。
「久しいのう、邵可」
自分の名を呼ぶ、愛しき華。
「…君は」
―――出逢った時から変わらない。なんて、心臓に悪い女性なんだろう。
邵可が浮かべたのは泣き笑いの顔だった。
「一体どうなっているのだ?」
劉輝が漏らした言葉に、楸瑛は「さぁ」と言うことしかできなかった。
珠翠はカラカラと笑い出すし、邵可からは緊張感がすっかり抜け落ちてしまった様だ。
何が起こったか理解できない二人に、珠翠が近付いて来た。
「楸瑛殿も、懐かしいな」
その感覚が、何かを思い出せそうで思い出せない。どこかで会った様な錯覚を覚える。
「貴女は、一体…」
呆然とする楸瑛を余所に、珠翠はそこできょろっと辺りを軽く見回す。
「今日は絳攸殿はおらんのか?あの時は、そなたらのお陰でほんに良き時間を過ごせた。思いがけず秀麗の饅頭まで食せたからのう」
艶やかな笑みを見せる目の前の女性に、楸瑛は瞳を瞬いた。
「知り合いなのか?」
劉輝がその言葉を聞きとめて首を傾げる。
いや、まぁ姿は珠翠なので知り合いというのも可笑しな気がしたが、ここまでくると珠翠の体に誰かの意識が入っているということには察しが付く。
こんな状況は初めてだが、それまでも珠翠は誰かに操られている様だったし、そんなこともあるのかもしれない。
そして今珠翠の中に入っているのは、邵可の近しい人だ。
邵可の彼女を見詰める表情がそれを物語っていた。
「紫劉輝かえ?」
その女性は視線を劉輝に移した。
「はい」
何故か背筋を伸ばしてしまった。
女性は劉輝を上から下までとくと眺めた。
不快という訳ではなかったが、何故か緊張する。
女性はくすりと小さく笑った。
「あの小さかった秀麗が后妃とはな…ま、元だが」
呟きに「え?」と返すが、女性の強い眼差しが劉輝を捉える。
「あれはそう簡単に折れたりはしないぞ?妾がそうであったように。そなたの想いを拒む。それでも」
「その覚悟はとうにできております」
迷い無く言い切る劉輝に、女性は目を細めた。
「…よい目をする」
そうでなくては。彼の兄が彼を可愛がったりなどしない。あの霄の馬鹿が彼を王になどしない。
愛し愛されるだけでは、どうにもならぬこともある。それでも、それを決めるのは自分ではない。秀麗とこの年若い王だ。自分にできるのは今回の様にあの一族や馬鹿男が横槍を入れないように目を光らせることだけだ。
その女性はふと、何かを考える様に視線を巡らせた。その相貌に少しだけ影を落として「嗚呼」と呟く。
「こちらも無理をしてしまったからな。そうゆっくりはできぬか」
そして、顔を巡らせてひたりと邵可を見詰た。
「妾は後悔などしておらぬ。そなたに逢えたことも、秀麗を産んだことも、秀麗の命の為に肉体を失くしたことも。何一つ」
その女性は嫣然と微笑んだ。
「人間」になれて、幸せだった。
今まで生きてきた年数からすれば、ほんの僅かな時間だった。それでも。
瞬きの様な時間に自分は、それまでの考えなど覆されて、今までの何倍も笑って笑って、愛した。
失ったものも確かにあったのだけれど、それ以上のものを手にした。
何を悲しむことがあろうか。
「我が背の君」
最期の時と同じように、薔薇の君は笑った。
「愛しているぞ」
そして、珠翠の体は崩れ落ちた。