珠翠が目を覚ましたのは、街の診療所の質素な寝台に身を横たえられて間も無くだった。
「嗚呼、よかった」
徐々に形を成す視界に、誰より愛しい人が居た。
「…しょうか、さま?」
「うん、もう大丈夫だよ。珠翠」
視線を巡らすと、室の隅には心配そうな面持ちの主上と藍将軍の姿もあった。
邵可の「大丈夫」の言葉が優しく珠翠の胸を満たす。
その人はまるで子供でもあやす様に、優しく頭を撫でてくれた。
その手を本人は血に汚れた手だと、以前苦笑していたけれど。自分にとっては少し不器用なその手が何より代えがたいものだった。
そして頭を撫でる邵可のもう一つの手には、一枚の手巾が握られていることに気付いた。
そこに縫い込まれたのは、獅子の様な牡丹の花。
痺れの残る腕を何とか持ち上げると、邵可の左頬に残る血の痕にそっと触れた。
「邵可様、好きです」
気付いた時にはもう、言葉は紡がれていた。
「珠翠?」
止めることなどできなかった。
永い想いが溢れ出す。
「貴方のことが好きです。貴方の大事なものが好きです。秀麗様も奥様も」
二年前、自分と同じ様に悪戦苦闘をして、けれど自分より余程綺麗に刺繍を仕上げていた少女が居た。
その少女はその後優しい恋を手に入れたと、人伝に聞いたけれど。
自分はもう、手遅れだ。この想いを手放すことなどできない。
「ありがとう、珠翠。私も秀麗も君の事が大好きだよ」
甘やかな痛みと共に、珠翠はその言葉を抱き締めた。
珠翠の瞳から一筋の雫が頬を伝った。
その涙を見ながら、楸瑛は悟る。
―――嗚呼、私の入り込む隙間などどこにもないのだ。
判りきっていたこと。
それが嬉しくて、悔しかっただけ。
彼女の舞を見て、涙を流した雪の日。
あの日から、自分はいつも彼女の後ろに義姉を見ていた。義姉に伝えられない言葉を彼女に重ねた。
そして、また彼女に自分を重ねた。彼女がたった一人を想い続けることで、自分を安心させた。自分はまだ義姉を想っていても許されるのだと。
そう、決して彼女を見て義姉を忘れることなどなかった。
けれど、今の自分に涙は無い。
あの頃と今の自分は違う。
本当は気付いていた。
藍州に帰って会った義姉は、昔と変わらずふわふわと笑っていた。
その姿に安堵さえすれ、どろどろとした想いに苦しむことはなかった。
だから彼女のことが気になった。
もう一人の自分はどうしているだろうかと。
彼女の想いの末を自分は見届けたかった。
そして
もう一人の私は、その愛を成就させた。
それが
嬉しかった。
「…藍将軍」
珠翠は寝台に横になったまま、楸瑛を呼んだ。それに慌てて近付く。
「珠翠殿」
「貴方にも迷惑をお掛けしました」
珠翠は瞳を伏せた。
「そんな、私は迷惑だなんて…」
「もう充分でしょう?」
伏せた瞳をまっすぐに向けられ、少し戸惑う。
「珠翠殿?」
「お止めなさい。私に自分を重ねるのは。私は何より誰より好きな方に、好きだと言って頂けて幸せです。私と貴方は違います」
「…ええ」
彼女はそのことにとっくに気付いていたのだ。流石だと、思わずにはいれない。
「それと、数多の女性に愛を囁くより、誰か一人を想ってみっとも無く涙を流していたその姿の方がよほど貴方らしい」
皮肉めいて告げられたことより、彼女が覚えていた事実に驚く。
「…覚えていたのですか?」
「忘れていました。今さっき思い出しただけです」
相変わらずの冷たい物言いが、苦笑いを誘う。
「貴方が逃げ回った先で見付けたものは何ですか?」
珠翠の自分を射るその眼差しが、彼の人を思い出させる。
「貴方の欲しかったものは、すぐ傍にあった筈です」
頭を過ぎるのは…
怒った顔。迷子になって途方に暮れる顔。照れた顔。そっぽを向いて、でも逸れない様に付いて来る必死な顔。笑顔は…滅多に見れないけれど、それでも溶けるように笑う。
そして、泣きそうな顔。
「…珠翠殿」
「早く行ったらどうですか」
自分は確かに彼女に義姉を重ねて見ていたけれど、彼女自身のその優しさに救われたのも事実だ。
「私は貴女のそういうところがとても好きでしたよ」
とても美しい宝石を見るかの様な目で楸瑛は告げた。
「私は貴方のそういう色ボケたところが嫌いです」
毛虫でも見るかの様な目で珠翠は告げた。
手を離してから気付くことばかりだ。
自分はずっと、探していた。
例えば義姉から手紙が届いた次の日は無性に会いたくなって。
「どうかしたのか?」
ふと、言う君に。
甘えて、はぐらかして怒られて、傍にいることを当然だと決め付けて。
何度も義姉を忘れた。
それなのに、また逃げ出した。
いつだって自分は逃げてきた。
義姉に寄せる己の心から逃げ
仮初の恋愛に逃げ
向き合うことを恐れてあの瞳からも逃げて。
いつだって、彼と居る自分が一番自分らしく居れたのに。
彼に見放されたら、私は自分を見失ってしまうのに。
どこに居たって探し出せるのは…たった一人。
「主上、」
「うむ、後は大丈夫だ」
楸瑛が何か言う前に、劉輝は頷いた。
その笑顔が頼もしかった。
彼は一体どこまで判っているのだろうか。流石は我らの主といったところか。
「楸瑛、今度は三人で団子を食べような」
「はい!」
その時楸瑛が浮かべた笑顔は、いつもの表面だけの食えないものではなかった。
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はい、無理矢理です。いいんです。双花をくっつける為ならどんな妄想もします。お母様だって引っ張り出します。
次、絳攸サイド。
07/6/24