青嵐の後に残るものA











暦の上ではもう春だというのに、その日は随分と冷え込んだ。

「名残雪となるかもしれないな」

「そうですね」

劉輝が馬から降りて、薄暗い幕が掛かった空を見上げる。

楸瑛もそれに倣う。

星は見えなかった。

「楸瑛、行こう」

その言葉に目を空から劉輝に移した楸瑛は、劉輝に続いて一歩を踏み出した。もう二度と踏むことは無いと思っていた貴陽の王宮へと。



 

 

 

三人で二年という時を過ごした執務室からは、うっすらと明かりが漏れていた。

絳攸はその室で一人、筆を動かしていた。

黙々と動かしていたその手がふと、止まる。

その時その室…というか、この城の主がひょっこりと現れた。

 

「絳攸、ただいまなのだ」

絳攸は劉輝の姿を認めると、ほっとした顔をして椅子から立ち上がった。

扉口にいる劉輝に近づいて行く。

「主上、ご無事で」

「うむ。余は頑張ったのだ。ちゃんと連れ帰ってきたぞ」

その言葉に絳攸の瞳が見開かれる。

劉輝は「さあ、褒めてくれ」と言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。そして、未だ廊下に立っている楸瑛を振り仰いだ。

「ほら、楸瑛」

劉輝はなかなか室に入って来ない楸瑛の腕を、ぐいぐいと引いた。

「主上、そんなに引っ張らないで下さい」

「そなたらしくないぞ。照れているのか?」

楸瑛が苦笑いを漏らせば、どこかからかう様に劉輝は言った。

「そんなんじゃありませんよ」

ただ、なんとなく気まずいというか気恥ずかしいのだ。こんなこと初めてである。

恐る恐る視線を上げると、そこにはよく知る知己の顔があった。

自分の姿を捉えた絳攸が、一度ゆっくりと瞬きをしたのが判った。

随分と久しぶりに見た彼は、以前より痩せたように思えた。

「…絳攸」

名を呼んだのはいいが、何故か続く言葉が見当たらない。

絳攸は怒っていなかった。ただ自分を見ていた。それが酷く…恐かった。

いつもみたいに怒ってくれたら、と思う。そしたら、自分はいつもみたいに軽口を叩いて、いつもみたいに…いつも通りでいれるのに。

頭の中で必死に言葉を探す。喉が渇く。絳攸の方から何か言ってくれたら、と思う。

 

「…楸瑛、」

 

絳攸の薄い唇が開いたその時、廊下にひっそりと現れた者がいた。

 

「おい」

にこにこと側近二人を見守っていた劉輝は、視線を下に移した。

「リオウ!」

そこに居たのは、仙洞令君を務める少年だった。

「ただいまなのだ。今感動の再会中なのだから静かにな」

劉輝はリオウに笑顔を向けた後、そっと人差し指を口元に当てた。

リオウは劉輝のそんな様子を無表情に見詰た後、静かに口を開いた。

 

「…あの女の居場所が判った」

 

漆黒の瞳の持ち主は、そう告げた。

「え?」と、劉輝が口にするのと楸瑛がリオウの肩を掴むのはほぼ同時だった。

「珠翠殿のか!?」

相手が仙洞令君ということも忘れて、声を荒げる。

「ど、どこなのだ!?」

リオウは詰め寄る楸瑛と劉輝を交互に見た。彼の瞳は何をも染め上げる闇色だ。その瞳がすっと横に逸らされる。

「説明するより、付いてきた方が早い」

そう言って踵を返したリオウに、劉輝は慌てる。

「判ったのだ!絳攸すまぬ、後を頼む!!」

室に居る絳攸を振り返り、叫ぶ。

「ああ、気を付けろ」

絳攸はバタバタと去って行く劉輝の後を目で追った。その硬さを含んだ面に呼び掛ける。

「…絳攸」

何度と無く呼んできた相方の名を呼べば、その瞳が自分を捉える。彼の視線が自分を縛る。

「楸瑛」

凍りついた様に固まった自分に、彼ははっきりと、どこか力強く告げた。

 

「行ってこい」

 

はっきりとその声が静かな室に響く。けれど、その声色とは対照的な表情を彼はしていた。

決して短くも、浅くもない付き合いなので、自分は絳攸のことを理解しているつもりだった。しかし、その表情の意味は掴めなかった。

ただ何かが危ういと、感じた。

 

「楸瑛!」

何か言わなくては、という思いは劉輝の呼び掛けに霧散される。

劉輝が廊下に立ち止まって、早くと自分を促している。

絳攸の視線が自分に向けられていることを背に感じながら、走り出した。

けれど

どうしても絳攸の表情が気になって振り返った。

 

彼の、朝廷では鉄壁の理性と呼ばれる彼の面を覆っていたのは―――。

泣きそうな顔。

幼い子供が置いてきぼりを喰らった様な、そんな顔。

 

酷く心が痛んだ。

もしかしたら、あの時も彼はそんな顔をしていたのかもしれない。

 

 



 

自分のことで精一杯で絳攸の事を考える余裕も無く…。

なんて嘘。

考えたくなかった。

会いに行こうと思えば、行けた。

けれど、会いたくなかった。

 

あの瞳を見るのが嫌だった。

初めて会った時から

惹かれてやまなかった、菫色。

真っ直ぐなあの瞳が、私を責める。

 

そして、彼に酷い言葉を与えた。

一番近くで誰より彼を理解していると思っていた自分が、突き放した。

 

 



 

後ろ髪を引かれる思いで、けれど楸瑛は止まらなかった。

最後に見た珠翠の泣き顔が彼の足を走らせた。












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これってホントに双花!?いやいや、ここからここから。絳攸との再会に照れる楸瑛が書きたかった(笑)
自分の言葉でどれだけ絳攸と双花好き(私も)を傷つけたか思い知るがいいさっ!(え
07/6/2

戻る/続く