青嵐の後に残るもの
「まさか、貴方が来て下さるとは」
藍州に現れたのは、思いも寄らない人物だった。
「楸瑛、迎えにきたのだ」
自分の目の前で屈託無く笑っているのは、紛れも無いこの国の王だ。
栗色の髪に冠を載せていなくても、紫の衣を纏っていなくても。
ここに、紫州を遠く離れたこの地に居ていい人物ではない。
「国王が城を離れてしまってどうするんですか」
自然と責める様な口調になる。自分にはそんなことを言う資格さえないだろうに。
「今の余…いや、私は王ではない」
劉輝は口の端をニッと吊り上げた。
「え?」
「ただの劉輝だ」
「貴方という人は…」
どこまでもまっすぐなその瞳に、泣きたい気持ちになった。
「今更、帰れると思いますか?」
楸瑛が何かを諦めた様な奇妙に歪んだ顔で聞いても、劉輝の表情は曇らなかった。
「楸瑛は格好付けなのだな」
「…そうかもしれませんね」
「でも、本人が思っているほど格好良くない」
面と向かって酷いことを言う劉輝に、楸瑛は眉を顰めた。
「…主上」
「劉輝だ」
「そうでした、劉輝」
楸瑛はちょっと笑った。
「格好悪くていいではないか。私なんて大好きな部下にはあっさりフラレるし、秀麗には…何回フラレていることか…」
ここで初めて劉輝の表情が曇って、涙目になる。ぐすっと鼻を啜る。
「…それでも、貴方は諦めないんですね」
「…もしかしたら、いつかは諦めなければならない時が来るかもしれない。…それでも今はその時ではない。自分が出来ることをするだけだ」
楸瑛は瞳を揺らした。
彼は何をも手に入れる力を持っているのに、その力に溺れることなく相手に委ねる優しさを持ち続ける。
「貴方は格好悪くなんて、ないですよ」
「いいや、格好悪いのだ」
劉輝は妙にきっぱりと言い切った。
「…私は楸瑛が」
いつになく真剣な劉輝の眼差しに、楸瑛は自然と息を詰めた。
「一緒に来てくれなければ、ここで心中するのだ!」
「は?」
ここは、そなたがどうしても必要だから、とか。愛の告白なのではないのか!?
「ちょ、脅す気ですか!?」
慌てる楸瑛に劉輝は胸を張った。
「そうだ!言ったであろう?私は格好悪いのだ」
…そんな得意そうに言われても。
「私は…形振り構っていられないのだ。命さえ賭けてもいい」
―――嗚呼、だからか。
劉輝は「余」という一人称を使わなかった。
「王」は誰か一人の為に命を賭けたりしてはいけない。
ぎりっと胸が痛んだ。
「私にはそんな価値ないです。私なんかよりもっと優秀な者がいるでしょう」
「そうだな」
「…即答ですか」
妙にあっさりと答えた劉輝に、肩透かしを食らった気分だ。
「だが、」
劉輝は静かに楸瑛を見詰たまま、言った。
「私は藍楸瑛がいい」
微笑んだまま、当たり前の様に目の前の彼は言い切った。
「私はもう兄上の帰りを只泣いて待つだけの子供ではない。欲しいものは自分の手で捕まえる。人一人の心を動かすことができず、王など務まるものか」
劉輝は腰に佩いていた刀を差し出した。鍔に花菖蒲が彫られたその刀は2年間自分の元にあった。
頂いた花を返すという酷い仕打ちをしても尚、与えられる絶対の信頼。
五つ年下の彼が酷く大人びて見えた。
知らずに握り締めていた手には薄っすらと汗が滲んでいた。
ゆっくりと息を吐き出しながら言葉を紡ぐ。
「私から藍をとったら何も残りませんよ」
「その藍ごと、楸瑛であろう?」
もうずっと昔、同じ様なことを言った人がいた。
『藍家なんて関係ない?誰がそんなこと言うか!その藍家だってお前の一部だろう』
彼らは無意識にすごいことを言う。
「藍楸瑛」の全てを受け入れようとする。
子供の頃から自分に寄って来る者達は自分の後ろにある「藍」を見ていた。
私自身を見て欲しい。
本当はずっとそう願っていた。
そう思っている癖に自らは藍家から離れることなどできないし、しようとも思わない。
「貴方が藍家の直系だろうと、家柄なんて関係ない。私が好きなのは貴方自身」そう言ってくれる女性もいた。それでも、何かが違った。
私を形作る「藍」ごと受け止めて欲しい。
そんな、無意識の願望をあっさりと叶えてくれる。
ぐらぐらと、天秤の様に揺れていた自分の心。ずっとずっと揺れ続けていた。…藍州に帰ってからも。
何かがことりと動いた。
「…貴方と心中は嫌ですね」
「なら、もう一度勝負するか?私は負けんぞ」
「囲碁なら受けますよ」
「それでも負けん」
二人は顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「負けましたよ、貴方には」
笑い声と共に吐き出された言の葉。
「私は腕を磨かないといけませんね。王より近衛の方が弱いなんて聞いたことありませんから」
劉輝の瞳が見開かれる。
「どうするんですか。私、きっといい笑い者ですよ」
劉輝は何だか拗ねた様に言う楸瑛に「自業自得なのだ」とは喉が詰まって言えなかった。
「絳攸は、来てくれなかったのですね」
刀を腰に差しながら、楸瑛はぽつりと零した。
「あー、うん、まぁそうだな。絳攸は留守番だ」
曖昧に返事をしながら、劉輝は納得した。
だからか、楸瑛がこの室に入ってきて僅かに何かを探すように視線を彷徨わせたのは。
いつも三人一緒だった。しかも、楸瑛と絳攸は王の側近となる以前からの付き合いである。楸瑛の心情を劉輝はなんとなく察する。
「自分もケリをつけないといけないことがあると言っていた。仕事もあるしな。悠舜殿だけには任せおけないから」
「…そうですか」
「そんな顔をするな。帰れば直ぐに会える」
楸瑛は劉輝の言葉に少し驚き、次いで頷いた。
「…ええ」
劉輝が「藍州に行ってくる」と告げた時の絳攸は別段驚きも怒りもしなかった。
ただ「そうか」と。
「一緒に行かないか」と言えば、「俺はいい」と緩く首を振った。
旅立つ自分を笑って送り出してくれた。でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。楸瑛が藍州に帰ってからの絳攸は覇気がないというか、花が枯れたようだった。
「悠舜殿がな、絳攸を怒らせるのは簡単な様で実は難しいと言っていたのだ。恐いが、怒っているほうが絳攸らしい」
「私も、そう思います」
絳攸を簡単に怒らせることができる人間のおそらく第一位である楸瑛は、ひっそりと笑った。
「長旅で疲れているでしょう。室を用意させますから休んでいて下さい」
「楸瑛は?」
「城へ。兄達に会って来ます」
楸瑛の言葉に、劉輝は「うむ」と力強く頷いた。
「早かったのだな」
一刻もしない内に帰って来た楸瑛に、劉輝は驚いた。
「ええ…それが。門前払いでしたよ…」
三兄と面と向かい会うのもそれはそれは色んな意味で辛いのだが、会ってくれてもよさそうなものである。
「兄君達は…怒っておるのか?」
「どうでしょうね。私には兄達の考えなど図りかねます。ただ…」
兄達に代わって対応に出た家臣は忠実に当主の言葉を伝えた。
『お前がどこに居ようと、我らの弟であることに何ら変わりはない』
『お前が「藍楸瑛」であることが変わらぬようにな』
『そこでお前が何を為すのか、我らはしかと見届けよう』
「ただ?」
「いえ、何でもありません」
「そうか?」
訝しむ劉輝に楸瑛は緩く笑った。
「…帰りましょうか。皆貴方の帰りを待っていますよ」
「それは違うぞ、楸瑛。私達の、帰りを待っているのだ」
楸瑛は笑おうとして、少し失敗した。
*************
そんなあっさり意思が変わる位ならはじめっから実家帰えんな!ってとこです…(汗)でも本当に書きたいのはここじゃないのであっさりさせます。
07/5/30