遥かなる道〜紫劉輝 編











子供の頃の自分にとって、大事なのはただ一つだった。

兄上だけだった。

 

その兄を失って、世界は色を失った。

色のない世界でただひたすら、兄を待ち続けた。

本当は「王」になどなりたくなかった。

なりたくもないのに、「生き残った公子」というだけで押し付けられた。

必要なのは「王」であって、「紫劉輝」ではない。

「王」でない自分は求められていない。

 

そう思い込んで、昔の優しい思い出に縋って、殻を閉ざしていたのは自分だった。

秀麗に出逢って、そのことに気がついた。

邵可や宋太傳が居たから、自分はあの場所で生き続けることができた。

自分が変われば、世界も色を取り戻した。

いつしか、大事なものがその手に増えていった。

兄上でさえ、形を変えて帰ってきてくれた。

 

 

けれど

自分にとって大事なものが沢山あるように、

自分の大事な者達にもそれぞれ大事なものがある。

 

「君は優しすぎる」と優しい兄は言った。

それは違う。

自分は優しいのではなく、卑怯なのだ。ただ失いたくないのだ。

気付かなくていい、気付いて欲しくない。傍に居てくれるならそれでいい。

優しい二人に付け込んでいたのは、自分の方。

 

 

 

 

劉輝は執務室に一人だった。いつも傍にいる側近の一人は、掛け持ちの職場の仕事が片付かない為ここには居ない。もう一人の側近は数日前から休暇をとっていた。

 

書翰や紙料が積み上がった室は酷く静かだった。

絳攸の怒鳴り声も楸瑛の笑い声もしない。するのは、紙の匂いと自分の息遣いだけ。

自分は一人で居ることに慣れている筈だ。夜だって、もう一人でも平気だ。

なのに。

優しいぬくもりを知ってしまってから、自分は弱くなったのかもしれない。

 

忘れかけていた孤独の影が忍び寄る。

 

 

休暇をとる前に楸瑛は、自分に問いかけた。

「何故、私達だったのですか?」そう問いかけた、泣きそうな瞳。

 

―――何故?

 

理由は酷く簡単だった。

ただ、欲しかった。

 

本気で怒ってくれて、本気で優しくしてくれる。

 

代わりなんて居ない。

誰も誰かの代わりになんて、なれない。

それを教えてくれたのは

他ならぬ彼らなのだ。

 

「王」としての力を使って繋ぎ止めることは、簡単だ。

しかし、それを成した時点で自分は永遠に失ってしまう。

秀麗を力ずくで妃として召抱えることと一緒だ。

全くもって理不尽である。

王だから頑張らねば為らぬのに、王としての特権は使えぬとは。

なんて損な仕事だ。

 

でも、「王」であったから彼らに会えたのも事実。

 

 

絳攸は「貴方だからここに居るんです」と言ってくれた。喩え一時の気持ちではあっても、嬉しかった。

優秀は兄上ではなく、自分を認めてくれた。

 

 

優しい思い出に浸りながら、劉輝は室を見渡す。

仕事をしなくては。自分は、頑張って頑張って頑張らなければならない。

頑張って頑張って頑張ると、楸瑛と約束した。

本人はもう覚えていないかもしれないけれど。その約束が嬉しかった。

 

 

気付けば青い空は、いつしか色を変え始めた。

劉輝はふと現れた人の気配に振り返った。

 

「おい、何サボってやがる」

 

いつもなら「いや、夕暮れが綺麗だなぁと思って余所見をしていただけでサボっていたわけでは…」と言い訳をするところなのだが。

驚いて、言い訳するのも忘れてしまった。

 

「…吏部の仕事は?」

「まぁ、きりはついた」

「そうか」

随分と久しぶり絳攸の顔を見た気がする。

「…貴方に言い忘れていたことがありました」

まっすぐに見詰てくる絳攸の瞳に、劉輝は無意識に息を詰めた。

絳攸は劉輝の前まで歩み寄ると、膝を折った。

 

「李絳攸、頂いた花菖蒲にかけて紫劉輝陛下に心からの忠誠を」

 

絳攸は正式な礼をとり、淀みなくはっきりと告げ、頭を垂れた。

劉輝はふらりと立ち上がった。

「…余は王なのだ」

「そうだな」

「好きな者だけで政はできん」

「それはそうだろう、そんなことしたら国が滅ぶ」

我ながら何でこんなことを言っているのだろう。

差し出されたものが余りに渇望していたもので、臆病になっているのだろうか。

「何だ、好きなだけなのか?」

絳攸は口の端を上げた。

「…違う。心から信頼している。二年前よりもっと」

 

 

「おや、絳攸に先を越されてしまったようだね」

 

のん気な声が聞こえて、休暇をとっていた人物が姿を現す。

常の様に綺麗な微笑を浮かべて、男は絳攸の隣に膝を着く。

 

「同じく藍楸瑛、泣き虫で誰より優しい我が君に心からの忠誠を捧げます」

 

二人が並んで自分の目の前に居る。膝を折り、自分の言葉を待っている。

ずっと欲しかった。失いたくなかった。

でも

失う覚悟もしていた。

 

「…い、いいのか?」

ここで「やっぱり嘘です」と言われても困るのだが、つい確認してしまう。

一人は苦笑いで、もう一人は眉を寄せて答える。

「ええ、二年も待たせてしまいましたね」

「うろたえるな。王なら堂々としていろ」

もう顔を上げていられなかった。

「もし、もし紅家と藍家と争うことになったらどうするのだ…」

それは質問というより呟きだった。

「そんなことはさせません。どんな手を使っても」

「そうですよ。鬼畜な兄達ですが、ああ見えて弟には甘い(らしい)のですよ」

「黎深様は…俺の手には負えないが邵可様がいれば…」

「そんなこと言って君、その耳飾り紅尚書から貰ったのだろ?紅い瑪瑙は『家族愛』かぁ。愛されてるねぇ」

「う、煩い!」

主の前で膝を付きながらいつもの如く言い合いを始めた側近達に劉輝は、泣きたいのか笑いたいのか判らなくなった。

 

「二人とも我儘なのだ」

「俺の養い親は黎深様だぞ」

「私も、あの三兄の弟ですから」

劉輝は少し笑った。

「余も我儘だな」

「あの兄の弟ですからね、仕方ないのでは?」

楸瑛は正月の宴での、元公子の嫣然とした微笑を思い出す。

 

―――どちらかを選ぶ?何故そんなことする必要があるんですか?

 

「王だろうが何だろうが、大事なものを大事だと言って何が悪い」

絳攸の言葉に隣の楸瑛がにやにやと笑う。

「では、君の大事なものに私も入っているのかな?」

「―っこの常春頭が!」

劉輝は相変わらずな二人の前に両膝を付き、目の前の衣を両手でそれぞれ掴む。

ぎゅっと。

もう離さない。

 

佩玉と剣鍔に彫られた花菖蒲が夕日を浴び、優しく輝いた。

本当に欲しいものは、再び帰ってきた。

 

下を向いていたせいで、床にうっすら水溜りができている。

頭に優しい手が降りる。二つも。きっと一人は微笑んで、もう一人は怒ったような顔をしながら照れて。どちらも優しく頭を撫ぜていく。

 

「…あと5分だけだぞ」

「う、」

絳攸の言葉に劉輝は現実に引き戻される。

「相変わらず厳しいねぇ」

「お前らは、この書翰の山が眼に入っていないのか!?」

「うう、」

涙を更に誘う台詞だ。

「仕方ありませんね、約束ですから。主上には頑張って、頑張って頂かなくては」

楸瑛が懐から取り出した手巾を差し出す。

「っ!楸瑛、覚えていたのか?」

意外な言葉に顔を上げる。

「おや、主上は私のことを何だとお思いで?」

「何の話をしている?」

話についていけない絳攸が王と相方の顔を交互に見る。

「えーと、だな」

差し出された手巾で鼻をかみながら、劉輝は何と言ったものかと、言葉を濁した。

「聞いたら君は怒るから、教えてあげられないよ」

「何だ、それは?!」

「お、落ち着くのだ」

楸瑛が意味有り気に笑うのが癇に障ったらしい絳攸が掴みかかろうとする。

それを劉輝が宥める。

 

王と臣下にしては異常な光景。けれど彼らにとっては極有り触れた光景。これからも幾度と無く繰り返されるであろう光景。

何かが終わった訳ではない。まだまだ始まったばかり。

さぁ、歩き出そう。この遥かに続いてゆく道を。

 

夕暮れの暖かな日差しが、静かに惜しみなく三人に降り注いでいた。

 

 

 

―――後に、紫劉輝は彩雲国の歴史の中でも最上治と称えられる程の名君として名を残す。その傍らには常に、双花菖蒲と謳われる李絳攸と藍楸瑛の姿があった。












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彩雲国には「分」という時間の単位は無い…ですよね。江戸時代の日本と同じ「刻」だと思うんですが、一刻を二時間とすると四半刻でも三十分…。絳攸がそんなに待ってくれる訳がない。
原作6巻で楸瑛の質問に静蘭は何と答えたんでしょうね。秀麗を選ばない訳はない。けれど、玉座に縛り付けたままの弟を見捨てる訳もないと思うんですよね。
王都組心の底から大好きです。早く三人が笑い会える日が来ることを待ち望んで。
07/5/6

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