遥かなる道〜藍楸瑛 編〜
いつからだろうか…。
いつからこの心の澱みは積もっていったのだろうか。
少しずつ、少しずつ…。
いつしか積もった澱みは、はっきりと形を現した。
もう目を背けることも、見えない振りもできぬ程に。
たぶん初めて気付かされたのは、あの時。
あの年若い王に「大事なものを選べばいい」と言われた時。
自分の大事なものは―――
昔から変わらない。
この体に流れる、藍の血。
藍家の為に生まれて、藍家の為に死ねたら、それは本望。
この上なく、幸せなこと。
ずっとそう思って生きてきた。
その日の貴陽の空は、抜けるような青がどこまでも広がっていた。その空は藍州の空の色に似ていた。
空の色に導かれる様に、王城へと向かう。
登城して自然に足が向かったのは、王の執務室でも軍の宿舎でもなく、ましてや後宮でもなかった。
侍郎室の扉をそっと開けると、久しぶりの知己の顔がそこにあった。
零れ落ちたのは常の様な軽口ではなく、一つの問いだった。
「絳攸、君の大事なものって何?」
―――君は黎深殿と主上、どちらかをとらなければいけないとしたらどちらをとる?
そう、彼に突きつけた。
以前、静蘭にも同じことを聞いた。
彼の元公子様は、実に彼らしいことを言ってのけたけれど。
どうしても、絳攸に聞きたかった。
以前、一度だけ絳攸に同じ質問をしたことがある。その時はただの好奇心から出た言葉だった。答えは貰えなかったけれど、本当は聞くまでもないことだった。
けれど、あれから八年の歳月が流れた。
そして、この二年があった。
共に花を受け取った相方は、その瞳で私に問いかける。
―――だったら、お前の大事なものはなんなんだ
大事なものは、藍の名。
ずっとそう思って生きてきた。
しかし、
本当はそう思い込みたかっただけなのかもしれない。
重すぎる家名を誇りに思うことで、自身を納得させて。誤魔化して。
その楔から、逃げるなんて考え付きもしなかった。
その楔を外せば、自分には何も残らぬことが判っていたから。
今も…
今もこの手には何も残らないだろうか。
藍州を遠く離れた、この地で自分が手にしたものは何だったのだろうか。
この地で、確かに手にしたものがあった。
それは、藍家からしたら些細なものかもしれないけれど。
自分はそれを確かに愛しいと、感じていた。
邸に戻ると家人から手紙を手渡された。裏の家紋を見る間でもなく誰からのものかは知れた。嫌な予感を覚えつつ手紙を開く。この国で最高級に位置する紙料に書かれた文字は、彩雲国王の変な恋文より短い。それもいつものことだ。問題なのはその内容。
『 卯月 貴陽邸 訪問 』
卯月って今だよね?貴陽邸ってここのことだよね??訪問って誰が???
そんな疑問を吹き飛ばすように慌しい足音が近づいてくる。
この邸の家人が作法も忘れて慌てることなど、滅多にない。
その滅多にないことが近づいてくるのを、楸瑛は感じた。
「失礼致します、楸瑛様!」
ああ、その続きは聞かなくてもわかってしまう己が悲しい。
「御当主様方がお見えですっ!」
…狙ってやってるとしか思えない。
「で、三人揃って来てしまって藍州は大丈夫なんですか?」
開口一番にそう言った弟に、三人の兄は同じ顔を向けた。
「久しぶりに会ったというのに」
「第一声がそれかい」
「なんて冷たい弟だ」
貴方達に言われたくない、という言葉は飲み込んだ。言っても無駄だ。
「何か言いたそうだね?」
「いえ」
「藍州だったら、大丈夫だ」
「玉華が我らの留守を守ってくれているよ」
「え、義姉上は懐妊中でしょう?」
確かに義姉はしっかりした人物だが、今は身重の体である。一人で大丈夫なのだろうか。
「龍蓮もいるからね。問題ない」
絶賛放浪中の弟の名前を出され、驚く。
「龍蓮が!?…よく大人しく…というか、今は藍州にいたのか」
「先日、ふらっと帰ってきたよ」
「『愚兄其の一と愚兄其の一の嫁の子に捧げる曲』と『姪又は甥の為に奏でる子守の曲』を演奏しにね」
「え!!??そ、そんなの聴かせて義姉上とお腹の子に何かあったら…」
「玉華は喜んでいたぞ」
「ああ、拍手喝采だ」
「子も腹を蹴って嬉しがっていると言っていた」
自分の心配をよそに兄達はけろっとしていた。
龍蓮の笛を胎教音楽なんかにしたら、どんな子が生まれてくるやら恐ろしい。
龍蓮以上の変人が生まれないことを切に願う。…私の人生の為にも。
「「「楸瑛」」」
三兄に名を呼ばれぞくりと、肌が粟立つ。
「…はい」
三対の瞳が体を縛り付ける。
「「「帰って来なさい」」」
半ば予想通りの言葉を告げられる。
しかし、零れた言葉は自分でも意外なものだった。
「…それは、命令ですか?」
清苑公子を探しに行けと言われた時も、国試を受けろと言われた時も、自分は何も言わずに従った。
「ほう」
「可笑しな事を言う」
「違う、と言ったらお前はどうするんだい?」
「…帰りません」
「では、そうだ、と言ったら?」
「…私は帰りたくないので、その命令には従えません」
「「「…正気か?」」」
「…はい」
「…藍の名を捨てるのか?」
「それで、お前はどうする気だ?」
「お前はここで、一体何をする?」
「…私は、」
言いかけた弟を遮るように、兄達は言葉続けた。
「楸瑛、止めておけ」
「お前は藍州で好きに暮らせばいい」
「何だったら、龍蓮と旅に出てもいい」
「大体、王の近衛など割に合わない仕事だ」
「うっかり王の代わりに死ぬことだってあろう」
「お前は貧乏くじを引かされるところがあるからな」
兄達らしくない言葉に楸瑛は目を丸くした。
…もしかして、心配してくれているのだろうか。
あの兄達が?鬼畜で厚顔不遜で天上天下唯我独尊を地でいく兄達が?徹底的に無駄を排除し、藍家と自分達の為にしか動かない兄達が?
有り得ないと思いつつ、「三兄は私にというか、弟に甘いのだ」と言った弟の言が蘇る。
兄達が一体何の為にここまで来たのか。
常のひねくれた言葉の、その裏にある真実の言葉。
そう、本当はいつだって守られていた。
楸瑛はゆっくりと口を開いた。
「私は何も捨てません」
羽林軍で築いた地位も、王の側近という立場も、藍の名も。
「一つ残さず掴みます。藍家の男ですから」
きっぱりと言い切った弟に、兄達が向けたのは呆れ顔だった。
「それはまた随分と」
「我儘になったものだな」
「昔は、それはそれは素直で従順だったのに」
「兄上達の弟ですから」
はは、と笑った後、楸瑛は口調を改めて三人の兄の名をそれぞれ呼んだ。
「私は…あの家に生まれてよかった」
初めて、心からそう思った。
私は、きっとずっと怯えていたんだ。
この兄達に、藍という名に。
藍家直系として生まれながら、『藍家当主』にも『藍龍蓮』にも成れなかった。
兄達の役に立たなければ自分の存在意味はない。兄達に見捨てられる。
そう、怯えていた。
けれど今
初めて、向き合えた気がした。
三兄は全く同じ瞳を見開いて固まっていた。
初めて見る兄達の表情に弟は子供っぽく笑った。
「行きます。泣き虫な王と、たぶん迷子の相方が待っているので」
弟が去った室で、三人の内一人がポツリと呟く。
「名前、間違えなかったね」
「間違えたら、大笑いして藍州へ強制送還するつもりだったのにな」
「あーあ、詰まらないなぁ」
「本当。まるで娘が嫁にいくときの父親みたいだ」
「そんな気分だよ。あの王に楸瑛は勿体無いのにね」
「そういうことは本人に言いなさいといつも言ってるだろ?それに可愛い弟が決めたことじゃないか」
「そうだけど…雪。あ、王に不幸の手紙でも送る?」
「いいね、それ!」
「止めなさい。そんな根暗なことは黎深がやってそうだ。それよりも…せっかくだから直接嫌味を言ってやろう」
「それはいい!今から行こうよ」
「流石、雪!」
あれは、まだ劉輝が王になって日が浅く、執務室に二人でいた時のことだった。
自分は王と約束をした。
『楸瑛。余は頑張る。頑張って頑張って、頑張る。それでもどうしても駄目で、どうしょうもなくなったら―――』
そう言った王に自分が返した言葉は―――。
全く、自分は口先ばかりで困る。
けれど、その約束を反故にする訳にはいかなくなりそうだ。
城に向けた自分の足取りに迷いはなかった。
迷うということがどんなことか、この数日で身をもって体験した。
歩いて30歩の所で器用にも迷う相方を思い出し、これからは面白がって見ていないですぐに助けにいってあげようかな、なんて思う。
彼らが進む道は困難だらけだろう。
その力になりたい。
競い合うより、傍で力になれる選択は間違っていなかったのだと確信に満ちた想いが過ぎる。
武官なら武官にしかできない方法で、「藍楸瑛」にしかできないことを。
彼らと共に歩んで行こう。
―――後に、藍楸瑛は黒燿世の後を継ぎ左羽林軍大将軍を務める。国王・紫劉輝や宰相・李絳攸の政を支える武官として数々の武勲を挙げることとなる。
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連載「さらば、貴陽!」と微妙にリンクしています。
原作「青嵐に〜」で楸瑛が問題発言かますので、かなり苦労しました。が、原作の内容は無視でお願いします。
弟の望みどおりにしてやりたいと思いつつ、素直になりきれない三兄達。紅家は百合姫がいるけど、藍家は黎深×3。流石、不憫!
07/4/30