遥かなる道〜李絳攸 編











吏部侍郎室に詰めて幾日が過ぎただろうか。もう数える気にもならない。
いい加減嫌気が差して筆を放り出した時、出仕を控えていると聞いていた男がふらりと姿を覗かせた。
常春男の顔を見るのも実に久しぶりだった。

男は常の様に軽口を叩くでもなく、ただ一つの問いを残す。

 

「絳攸、君の大事なものって何?」

 

腐れ縁の男は笑っていない瞳で、そう聞いた。

 

 

 

―――君の大事なものって何?

 

その問いを聞くのは二回目だった。
一回目は、まだ官吏になって間もない頃。
その時は「何を馬鹿なことを」と答えなかった。
勿論、言葉にせずとも答えなど判り切っていた。相手にも判っていただろう。
大事なものはただ一つ。
あの日あの時あの人にこの手を掴まれた時から。
大事なものはただ一つ。
官吏になった理由も。
生きる理由も。
ただ一つ。

 

それでよかった。

 

 

あの日あの時あの人の手が無かったら、自分はどうなっていただろう。
屹度、9年前の王位争いで死んでいただろう。
あの頃の自分は毎日毎日、その日生きるのに必死で
大事なものなんてなかった。
何かを望むこともとっくに諦めた。

 

そんな日々に、差し込んだのは紅の光。
目を焼くほどの、紅蓮の光。

 

紅の衣を纏った人は俺の手を掴んで「お前を拾うぞ」と言い放った。
「嫌だ」と振り払おうとしたその手を更に強い力で掴まれた。
行き成り広大な邸に連れてこられ、呆然としていると「何をぼさっとしている。今日からここがお前の邸だ」そう言われ、唖然となった。

 

あの日から目まぐるしい日々が始まった。

 

大事なものは、あの人。
官吏になった理由は、あの人の傍に居たいから。
生きる理由は、あの人の役に立って恩返しする為。
それでよかった。
それだけでよかった。

 

今までは。

 

 

―――君の大事なものって何?

 

大事なものは、いつしかただ一つではなくなった。

 

 

 

 

 

 




その日は朝から天気の好い日だった。
青い青い、澄み切った青空がどこまでも広がっていた。 

絳攸は紅家のある一室の前で迷わず足を止めた。この室の主には毎日会っているのだが、室に足を踏み入れるのは実に久しぶりだった。それでもこの室までの道は間違えない。自分はこの邸で育った。この室の主に育てられた。
重く豪奢な扉に手を置くと、小さな傷が目に入った。子供の頃迷子防止の為に自分が付けた傷だった。もう十年も前に付けたのだが、確かにそこに残っていた。その事実に少しだけ励まされ、絳攸は一つ大きく深呼吸をした。そして、中に居るはずの養い親に来室を告げた。

「黎深様、李絳攸お話があって参りました。失礼して宜しいでしょうか」

震えそうになる声を叱咤するように、できるだけ明瞭に大きな声で。

「…入れ」

なんの抑揚もない声が来室を促した。

 

室に一歩を踏み入れると、カツンとやけに沓の音が響いた。
黎深はこちらを向いていなかった。
それでも構わなかった。
きっと彼には自分のことなど何もかも判ってしまうのだから。
絳攸は静かに口を開いた。

 

「私は、宰相になります」

 

考えて考えて、辿り着いた答え。

 

末は史上最年少宰相か、と周りが噂していたことは勿論知っている。
しかし自分には全くその気はなかった。
自分がなりたいものはそんなものではなかった。
支えたいのは、力になりたいのは、王でも民でもなくて。

ただ一人。

 

けれど、この二年。

王の為に、民の為にたった一人で駆けていった少女を見た。
何もかも判った上で、王の味方であり続ける宰相を見た。
馬鹿で考えなしですぐにサボる癖に、誰より我慢してたった一人で耐えてきた王を見てきた。
「ただいま」と言える場所も「お帰り」と迎えてくれる温かい腕も、自分でさえ貰ったものを持たず、それでも笑える強さを持った王を、すぐ近くで見てきた。

 

宰相になりたい、そう思った。

いずれ、屹度、必ず、なってみせる。

 

「…李絳攸は、紫劉輝が王として立つのを傍で支えます」

 

自分の発した言霊が静かな室を満たしていく。
黎深は相変わらず黙ったまま、こちらを見なかった。

彼が自分に最初にくれたものは少々乱暴だったが、暖かな手だった。
「李絳攸」という名前だった。
そして「李絳攸」を形作る全てだった。

 

 

「…勝手にしろ」

 

やはりそう、彼は告げた。

 

 

 

 


どうやって黎深の室を出て、ここまで来たのか。
気付くと目の前には、百合の姿があった。
頬を柔らかな手拭で拭かれて初めて、自分が涙していたのだと気付いた。
気付いても止まらなかった。みっともないとか恥ずかしいとかそんなこと思う余裕もなかった。

「百合様…」

抱きしめられる。
ふわりと、優しい香の匂いが広がる。
百合は小さな子供をあやす様に頭を撫でながら優しく言った。

「親離れなさい」

「育ててもらった恩を忘れて…」

考えて考えて、辿り着いた答え。

それでも、自分が酷く裏切り者に思えた。

「親が子を育てるのは当然のことよ。恩なんて感じる必要はないのよ」

「ですが、黎深様は…」

例え百合にそう言ってもらえたとしても、黎深はどう思うだろうか。
自分など拾わなければ良かったと、後悔するだろうか。

「絳攸、わたくしが誰かわかってる?」

「え?」

そこで絳攸の体を離し、悪戯っぽく笑う。

「あの紅黎深の妻になれた女よ?わたくしの言葉に間違いがあって?」

そう言われてしまえば、絳攸は何も言えなくなった。

「大丈夫よ。貴方の望むままになさい。例えこの国を敵に回そうともわたくしは…いいえ、わたくし達は貴方の味方よ、絳攸」

それは、確かに「母」の言葉だった。

 

「ね、夫君?」

百合は絳攸越しに夫に声を掛けた。
絳攸が振り返るといつの間に居たのだろうか、黎深が立っていた。

「…ふん」

百合の問いには答えず手に持ったものを絳攸に投げる。

「忘れていた。お前にくれてやる」

投げて寄越されたそれを慌てて受け止める。
そして手のひらをそっと開く。
そこで光を放つのは一対の耳飾。

紅い紅い、瑪瑙。

 

何を言ったらいいか判らない。
常のように「行って参ります」とは言えなかった。
しかし「今まで有難う御座いました」とも言える訳がない。
感謝なんて一生懸けても返せる筈がないのに、そんな言葉で終わらせる訳にはいかなかった。
ただ何も言わず頭を下げる。

そして踵を返して走り出す。迷わず。

 

 


百合は走り去ってゆく、最愛の息子を見送った。
痩せた小さな子供だった絳攸は、いつしか自分の背を超し、見送った背中は大きく見えた。
本当は寂しい。もっとずっと手元の置いておきたかった。
しかし、傍にいることだけが愛情ではない。駆けて行く背中が誇らしかったのも本当。
百合は隣で、自分以上に寂しい思いをしているであろう夫を振り仰いだ。

「相変わらず、素直じゃないのね。子供は親を超えていくものじゃない。ねぇ、親になるって凄いことよね」

「…お前は、相変わらず煩いな」

「仕方のない人ね。…わたくし、貴方に呆れてはいますけど飽きてはいないから」

扇を持ったままの夫の手をそっと握る。

「一緒に居ましょう」

「私は別に兄上と秀麗さえいれば…」

「はいはい」

百合はぶつぶつ言う夫に投げやりな返事をした。
不愉快そうに眉を寄せる夫は、それでも手を握り返してくれた。

 

 

 

 




大事なものが沢山あって

そのどれ一つとっても、かけがえの無いもので

どれ一つ、失くしたくない。

自分は我儘だ。

でも、それは仕方がないことなのかも知れない。

自分は、紅黎深の養い子なんだから。

 

これから様々なことがあるだろう。それはもう想像もつかないくらい。

怒ったり泣いたり笑ったり。

それこそ目まぐるしい日々だ。

嫌になって投げ出したくなることもあるかもしれない。

けれど、

この選択を後悔だけはしない。

「李絳攸」の名に誇りと自信を持って

歩いていこう。

この遥かなる道を。

本当は民の為とか平和な国造りの為とか、立派な志ではないのかも知れない。

ただもう、ひもじい思いをするのも、誰かがするのも嫌だ。

自分が与えられたものを、自分も誰かに与えられたらいい。

道が困難過ぎて、転んだり迷うこともあるかもしれない。

そしたら、また起き上がって道を探せばいい。

泣き虫で甘ったれで頓珍漢で…誰より優しい、我が王と。

彼を支える多くの、仲間達と。

 

 

 

 




 

―――後に、李絳攸は劉輝治世を支える史上最年少宰相として、歴史に名を残すこととなる。












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我慢ならなくて書いてしまいました。と、いっても実際は「緑風は刃のごとく」を読んだ直後に我慢ならなくて書いたものに加筆したものです。
楸瑛が冒頭しか出てきませんね。双花話ではなく、王都組話ですので双花菖腐要素はかなり低いです。絳攸はどっかの不憫さんと違ってスパッと決断してくれたらいいな。…無理だろうけど。
絳攸視点で書いたら絳攸がどんだけ養い親のこと大事かって思い知らされました。相変わらず、百合姫捏造です。母は強いです。

07/4/10

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