さらば、貴陽!H
「馬鹿」 「間抜け」 「憐れ」
「………………………………………………………………は?」
ええっと、この兄達は何を言っているのだろう。特に最後の「憐れ」の意味が判らない。
固まる弟に兄達は言葉を続けた。
「はっきり言わねば判らぬようだね」
「お前は勘違いしている」
「誰も貴陽に帰るな、とは言っていない」
何か嫌な汗が出てきた。
「…しかし文には『藍州、即刻、戻』と」
辛うじて紡ぐ言葉にも、兄達は当然という顔をやはり三人共した。
「ああ、確かに書いた」
「我らが出掛ける用事があったからな」
「流石に州を治める者が不在という訳にもいかぬ」
「…まさか、私を呼んだのは」
とんでもなく嫌な予感がする。
「「「留守番だ」」」
留守番…留守番?…
「「「お陰で、邵可様に我が藍州最高級の塩をお届けすることが出来た」」」
浮き浮きと語る三兄に、気の所為ではなく頭痛がする。
「やはり、自分達で手渡ししなくては」
「感動も薄れるというものだ」
「喜んで頂けて良かった」
「今年の塩はここ10年間でも1番の出来だしね」
「しかし、邵可様の娘さんに会えなかったのは残念だったな」
「清苑にも会いたかったな」
弟の衝撃など微塵も感じ取らず、三兄達はさらっととんでもない事を言っていた。
「そ、そういうことは早く言って頂かないと…」
言っても無駄だということ位今までの経験上判っているが、言わずにはいれない。
「自分の勘違いを棚に上げて我らを責めるのかい?」
「何て弟だ」
「そんな弟に育てた覚えはないぞ」
楸瑛は笑い出したくなった。いや、泣き出したいのかもしれない。
「……………………では、もう帰ってもいいんですよね?」
一応、確認してみた。
「もう行くつもりなのかい?」
「何も慌てることもないだろう」
「まぁ、ゆっくりしていきなさい」
「そういう訳にもいきませんので。私も絳攸も」
ここで押し切られるわけにはいかない楸瑛は、はっきりと言った。兄達は確実に自分だけでなく絳攸も巻き込むだろう。そうなっては流石に彼の養い親が黙ってはいまい。紅藍両家の全面衝突にも為りかねない。
「「「なんだ、詰まらないな」」」
弟の心配等全く気に止めもせず、兄達は口を揃えて言った。
「では、失礼します…」
兄達の暇潰しにこれ以上付き合っていたら身が持たない楸瑛は絳攸の腕を引いて、逃げるように告げた。
「楸瑛、お前玉華に会っていかないのか?」
室を出ようとしたところで、長兄・雪那が楸瑛の背に向かって言った。
残りの二人が僅かに視線を合わせた。
「玉華はお前に会うのを楽しみにしていたのに…なんて冷たい義弟なんだ」
楸瑛は足を止めて、小さく息を吐いた。
「………判りましたよ。あの人は室ですか?」
雪那が頷くのを認めると、隣の絳攸に苦笑を浮かべた。
「絳攸、すまないけど君はここで待って居てくれるかい?」
「え?」
「すぐ戻ってくるよ」
絳攸に微笑んだ後、兄達を振り返る。
「兄上達、絳攸に変なことしたり吹き込んだりしないで下さいね」
「変なこととは?」
「例えば、お前が末っ子が生まれるまで我らが三人だと気付かなかったこととか?」
「例えば、お前が知らずに手を出そうとした異母姉妹の数は片手では足りぬとか?」
「例えば、お前が…」
「絳攸!兄達が言うことは全部嘘だから!!」
楸瑛が退室して室に室に取り残された絳攸はどうしたものか、と考えていたが藍家の当主達は自分そっちのけでくすくすと笑い出した。
「我らが『留守番だ』と言った時の楸瑛の顔」
「ああ、やはり可愛い」
「楸瑛は素直で真面目だから」
当主達の言葉を聞いた絳攸の頭に、疑問符が浮かぶ。
素直?真面目?可愛い?楸瑛が??いや、まぁ仕事に関しては真面目なのかもしれないが。どうにもそれらの単語と楸瑛が結びつかない。
「やはり急いで帰って来てよかったな」
「邵可様に聞いた時は驚いたよ」
「まさか、末っ子が動くとはね」
「『初めての兄孝行』か」
「本当、可愛い弟達だね」
「ああ、やはり我らの弟だ」
そう言って同じ顔を向かい合わせて笑い合う三人の顔は先程までとはまるで違っていた。
当主達は一見自分に対して親しげにしていた。だが、それは楸瑛が居たからだ。自分に向けられる顔の口元は笑っているが、その瞳は値踏みしているようだった。そういえば、出逢ったばかりの頃の楸瑛もそんな顔で自分を見ていた。
「本当は『留守番』だけではないのでしょう?」
絳攸の口から思わず言葉が漏れた。
彩七家筆頭名門の藍家当主がたかだか留守番の為に弟を呼びつけるとはどうしても思えなかった。楸瑛だったら「君は兄達のことをよく知らないから…」とでも言ったかもしれないが。
他人だからこそ、判るものもあるのではないだろうか。
この室に入った時に目に入ったのは不自然に並んだ机。その一つは屹度、四男の為に用意された物。
当主達は会話も笑みも止め、絳攸の顔をじっと見詰てくる。絳攸は居心地の悪さを感じた。
すると、当主達は急ににやりと口元を持ち上げた。
「成る程ね」
「流石、頭がいい」
「楸瑛を抜いて国試に及第しただけのことはある」
「それに楸瑛が親友を名乗るだけはあるね」
「及第点をあげてもいい」
「うん、そうだね」
そう、本人が『帰る』と言い出さない限り言うつもりもなかった。あわよくば、弟を藍州に留めるつもりだった。
邵可は久しぶりに会った藍家当主達を見て「そういうことですか…」と困った顔をした。邵可は弟を貴陽に戻してやれ、とは言わなかった。ただ、自分の義理の甥が藍州に向かったと。
三人は15年前に交わした約束を思い出す。それは、末っ子を守る為に当主を継いだ時に三人で交わした約束。『藍家当主』にも『藍龍蓮』にも
三人の腕がこちらに伸びてくる。絳攸は思わず肩を竦めそうになったが、三つの手はそれぞれ絳攸の右頬、頭、左頬を撫ぜた。その手達はぎこちないながらも、優しいものだった。
「「「黎深の養い子よ、愚弟をこれからも宜しく」」」
これからもなんて冗談じゃない、そう言ってやりたかったのに。
楸瑛によく似た顔で、そんな不器用そうに「兄」の顔をされたら…絳攸は何も言えなくなってしまった。
「楸瑛!」
楸瑛は室に入った途端飛び込んできた女性を受け止めた。
「…人妻が行き成り夫以外の男に抱きつくのはどうなのでしょうね」
「ちっとも帰ってこないんだもの。大きくなったわね」
ぺたぺたと顔や体を触る玉華に、楸瑛は苦笑いを浮かべた。
「すみません」
「顔付も変わったわね。表情が穏やかになったわ」
「…貴女は」
―――変わっていませんね。その容姿も。相変わらず見えているような口ぶりも。
「まさか、貴女まで貴陽に行っていたとは」
少々呆れ気味に言う楸瑛にも玉華は笑っただけだった。
「どうしても一度、邵可様にお会いしてみたかったのよ。邵可様って不思議な方。雪那さん達がお慕いする訳ね」
「ええ」
確かに邵可は、あの兄達の心を掴むことができる稀有な人だ。
「龍蓮のお友達にも会ってみたかったのだけど」
「それは…またいずれ、ですね」
「そうね。ふふ、あの子に初めて会った時のことを思い出したわ。花の香をつけた方は今までにいたけれど、本物の花の香りを身につけた子は初めてだったの」
玉華は当時を思い出して笑った。
「ああ、そうだ楸瑛。貴方に報告があるのよ。本当は手紙で知らせるつもりだったのだけど…」
「…?」
玉華は優しく自分の下腹部を押さえた。聡い楸瑛はそれで気付く。しかし、咄嗟に言葉が出てこなかった。
藍家当主の子として生を受けた子が背負っていかなければならないものは―――。
「大丈夫よ。優しい叔父さんが四人も居るんですもの」
玉華の言葉に楸瑛は、はっと顔を上げ、次いで微笑んだ。それは心から染み出る様な微笑みだった。
玉華の目が見えないのが生まれつきなのか後天的なものなのか、楸瑛は知らない。
長兄・雪那が玉華を娶った当時、当主唯一の妻の目が見えないことに藍家の長老達は酷く騒いでいた。前当主の様に側室を設けるべきだと。
雪那は「我が終生の妻は玉華だけだ」そう、長老達に宣言した。
玉華の涙を見たのは後にも先にもその一度だけ。
その時に渦巻いた己の心の醜さ。それを誰にも知られたくなくて国試受験を理由に逃げるように紫州に旅立った。
本当は玉華に会いたくなかった。会ってしまったら、また醜い感情に囚われてしまうから。そう思って、ずっと逃げてきた。
だが会った今、心に灯るのは―――。
彼女を前にして穏やかな気持ちで居れる理由なんて、判りきっていた。
貴陽で彼と過ごした日々はとても楽しいものだったから。
今なら言える。閉じ込めていた想いを開放してあげよう。
「義姉上」
「なぁに?」
「愛していました」
ずっと。
「ええ、私も愛しているわ」
玉華からの返事は花が綻ぶ様な笑顔だった。
今、すごく温かな気持ちだ。胸を締め付けるような痛みも苦しみもない。ただ彼女の幸せを願える。自分が幸せにしたい、ではなく。幸せで居て欲しいと素直に思える。
答えなんてもうとっくに出ていたんだ。
彼女は自分を「楸瑛」と呼ぶ。ずっと昔から。三人の兄がそう呼ぶ様に。
素直に「愛していた」と告げた。でも玉華は笑って「愛している」と言ってくれた。
―――嗚呼、さようなら私の恋心よ。どうか安らかに。
「また行ってしまうのね」
残念そうに言う玉華に楸瑛はふわりと微笑む。
「ええ」
「寂しいわ」
本当にそう思ってくれているのが、素直に嬉しかった。兄達とはえらい違いだ。
「私が居ないと困ってしまう子がいるんですよ」
「まぁ、楸瑛にもそんな子が!」
玉華は、末っ子に心の友が出来たと聞いた時と同じ様に驚いた。
「…すごく大事なんです」
そう、零した楸瑛に玉華は映らぬ瞳を細めた。何でも器用にこなしてしまう義理の弟は、昔から執着心が薄かった。出来の良すぎる兄弟を持つあまり、自身に対してでさえ。そして、そのことにも気付かずに。
ずっとそのことが心に掛かっていたが、もう大丈夫だ。
玉華は、子供にする様に義理の弟の頭を撫ぜた。
「貴方も、見付けたのね」
楸瑛は、背を屈めて義理の姉に頭を撫でられた。
「…はい」
玉華の室を出た楸瑛は兄達の室へ戻る為、歩き出す。いつしかそれは早足になる。そして、髪や衣が乱れるのも構わず駆け出す。らしくない、なんて思う暇もない。早く、早く―――。
*************
すみません!玉華を勝手にこんな設定にしちゃいました(汗)初めは口が利けない設定にしようかと思ったのですが…どっかでそんな子いたよなって思ったら、春姫でした(笑)楸瑛はうっかり告白してないで、とっとと本命に言うべきですよね〜。絳攸は無事、舅達に認められたようです(笑)
次回完結です。
07/3/11