さらば、貴陽!I(完)











走り出した足を止めたのは聴き慣れたくもない怪音だった。

「り、龍蓮…」

思わず廊下に突っ伏しそうになるのを根性で食い止める。
いつの間に城に入ったのか。弟は廊下で意気揚々と愛用の笛を吹いていた。だが、楸瑛が足を止めると龍蓮は笛を口元から外した。
楸瑛は龍蓮が背に抱えているものにちらっと目をやったが、敢えて見ていない振りをした。

「君に礼を言う日がくるなんて思ってもみなかったよ」

微苦笑で言えば、弟は顔色一つ変えずに返す。

「だから愚兄は愚兄だというのだ」

「ん?」

「大事なものは決して手を離してはいけない。それはあまりにも簡単に失われてしまう」

実のこもった弟の言に、楸瑛は瞳を閉じた。

「…そうだね。ありがとう、龍蓮」

「しかし、愚兄は愚兄だが私の兄だけあって友人の趣味はよい」

「ああ…全くだ」

そう言った愚兄の顔にはいつかのような後ろめたさは微塵もなかった。
弟は兄に気付かれぬ様、ひっそりと笑った。




「ところで龍蓮。君、まさか絳攸も心の友にしようなんて考えてやしないだろうね?」

「………………」

その沈黙をどうとったのか、楸瑛は更に言葉を続ける。瞳が真剣そのものだ。

「駄目だよ。絳攸は私の親友なんだから」

「私の」を強調して言えば、弟は呆れた様に半目になった。

「…だから愚兄は自己形成未発達未成熟だというのだ」

「……放っておいてくれ」

脱力した様に言う楸瑛に、くるっと背を向けて龍蓮は歩き出した。怪音を再び響かせながら。その音色が常よりほんの少し、優しく聴こえたのは気のせいだろうか。




無自覚に弟に甘い愚兄其の四は、本気で自分が何かを望めば何でもくれただろう。
尤も何かを望んだことなどないが…仮に、望めば文句を言いつつも自分に与えてくれただろう。
けれど、今の楸兄上には弟にさえ譲れないものがあるのだ。
態々声に出して確認しなくてはいられないあたり、愚兄が自己形成未発達未成熟だというのだ。
後ろめたく思う必要などない。自分にも兄でさえ譲れないものが、できたのだから。



それは、至宝の輝きにも似た想い。












室に戻るとそこに兄達の姿はなかった。居たのは絳攸だけだった。広い室の真ん中で、こちらに背を向けて立って居た。
楸瑛の足音を聞いて、絳攸が振り返る。
楸瑛は絳攸の元に駆け寄ると、その身を抱き寄せた。

「楸…え…い?」

「…うん」

訳が判らない絳攸が声を掛けても、それきり楸瑛は何も言わなかった。
自分の肩に額を乗せ微動だにしない。絳攸は一度、常春男を引き離す為に手を持ち上げたが、すぐ降ろしてしまう。一つ息を吐く。そして、再び上げた手を暫し躊躇った後、楸瑛の背に置きポンポンと叩いた。


いつかとは立場が逆だな、と思った。












室に入ってきた夫に玉華は静かに微笑んだ。玉華には足音だけでそれが誰だか判る。視覚以外の全ての神経が常人の比ではない。息遣いや、揺れる空気の違いまで感じることができる。藍家の揃い子に初めて会った時「あまり似ていませんのね」と言えたのは屹度、玉華だけ。
雪那は玉華の傍まで来ると、妻の腹をそっと撫ぜた。

「行ってしまいましたね」

「ああ」

玉華は夫の言葉から僅かな寂しさを感じ取る。

「ねぇ、雪那さん」

「なんだい玉華」

「楸瑛にも大事な人ができたんですって」

「うん、そうみたいだね」

その言葉からもほんの少しの寂しさと、それ以上の嬉しさ。

「どんな子なのかしら?会ってみたいわ」

「きっと輝く銀の髪と藍州の清水にも負けない綺麗な瞳を持った子だろうね」

夫の口ぶりに思わず、笑いが漏れる。

「よく知ってるのね…ふふ。さぞ可愛い娘さんなのねぇ」

娘ではないのだが。まぁ、そんなことはたいしたことではない。紅黎深の養い子であることもたいしたことではない。大事なのは可愛い弟の幸せ。

三人だけで生きてきた日々。それに終わりを告げたのは可愛い弟。
自分達が不吉と忌み嫌われる揃い子であることを、弟に知られたくなくて末の弟が生まれるまで隠してきた。知った後は3日間室に籠ってしまった弟に三人でハラハラしたものだ。



「…しかし、楸瑛は肝心なところで押しが弱いからね。未だに想いを伝えることさえできていないんじゃないかな」

「あら」

「やはり、我らが何とかしてやらねば」

屹度、夫は悪戯を思いついた子供の様な顔をしていることだろう。でも、その言葉はいっそ嫉妬さえ抱くほどの愛に溢れていた。
…その愛が本人に伝わることはないかもしれないが。ここに本人が居たら「そっとしておいて下さることが1番なんですけど」と言っただろう。

「ねぇ、玉華」

「はい」

「こういうのはどうだろうね…」

何か思いついたらしい夫は、内緒話をするようにそっと妻の耳に口を寄せた。













貴陽に帰ると、王が未処理の書簡の海で溺れていた。

幾度と無く修羅場を見てきた側近の二人も思わず息を飲んだ。しかし劉輝は楸瑛の姿を認めると、半泣きで抱きつこうとした。…が、書簡の海に阻まれてそれは叶わなかった。

「しゅ〜えぃぃ」

えぐえぐとベソをかきながら、こちらに泳いでくる。
その子犬のような態度に苦笑いを浮かべた楸瑛だったが、すぐに真顔に戻り器用に周りの書簡を除けて膝を付いた。

「主上。此度のこと藍楸瑛、如何なる処分をも受ける覚悟で御座います。しかしながら許されるなら今一度…」

「ん?何のことだ?楸瑛は実家に里帰りをしていたのだろう?」

本当に何事も無かった様に、王はきょとんとしていた。

「主上…」

「楸瑛が何を気にしているか余は判らぬ。楸瑛はここに帰ってきた。その事実だけで余は十分だ。な、絳攸?」

楸瑛の隣で二人の遣り取りを見ていた絳攸は劉輝のその言葉に溜息を吐いた。

「…俺はこの書簡の海を片付けることが今最も重要な事だと思う。常春の奇行など今に始まった事ではないしな」

そう言って早くも書簡に目を通し始めた。



楸瑛は片手で両目を覆った。



―――なんて、甘いんだ。


いつもいつも自分が多くの女性達に吐いてきた言葉なんか、比べ物にならないくらい。

もしかしたら、1番年上の自分が1番甘やかされているのではないだろうか。



「楸瑛。おかえり、なのだ」


「…はい。ただいま、です」








「絳攸」

「…なんだ?」

書簡の山の隙間から覗いて呼べば、面倒くさそうな顔が見えた。

「ちゃんと言ってなかったから…ありがとう。君が迎えに来てくれて嬉しかったよ」

「っ…!!煩い!しゃべってる暇なんてないんだぞ!!!」

そう怒鳴って顔を背けた絳攸の耳が赤く染まっているのに目を細めながら…




―――私は屹度、他人が羨むものを沢山持っているけれど…

1番の誇りは君だよ、絳攸




口に出したら又怒鳴られてしまうから、心の中だけでそっと囁いた。












*************

終わった…!!!双花なのにラスト劉輝においしいところを持ってかれた様な気がしないでもない。流石は王様。そして、藍家出張りすぎ?楸瑛は不憫だろうが不幸気質だろうが本当は「結構愛されてる?」んだ。きっと。「?」が付くのが重要!←えっ。原作で書かれるであろう3人の別れを思って書きました。楸瑛が迷った時に連れ戻すのは絳攸であればいい。
ここまで読んで頂き有難う御座いました。おまけもありますので、読んでやって下さいませ。
07/3/18

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