さらば、貴陽!G











振り向いたら、会いたいと思った人がそこに居た。

その人は相変わらずつれなくて、怒ってばかりで。それがあまりに彼らしくて。ついつい嬉しくて、優しい言葉を期待した。けれどそんなものはもらえなくて。…代わりに殴られた。突然殴り付けられて、胸倉を掴まれたかと思ったら、ぐいっと引き寄せられた。吊り上った柳眉の下の菫色の硝子球には間抜けな自分の顔が映っていた。殴られた左頬が痛い。武術の心得等ない筈なのに、なかなかの拳だった。見っとも無く倒れたりしなくて本当に良かった。

絳攸は言っていることが滅茶苦茶なのに、怒っているのに…それでも、自分の決めたことなら認めてくれようとする。その彼なりの優しさが、胸に沁みた。

形の良い唇から紡がれる怒声達は、拳以上の衝撃をもって私の心を揺さぶる。



「じゃあ…戻ろうかな」

碌に考えもせず、するっと口が滑る。
金魚のように口をパクパクさせている友人の顔を見て自分が何を言ったのか理解する。だが、理解してみればそれが至極当然の様な気がした。自分が居るべき…居たい場所は、ここではない。
自分にはもう選べないと思っていた。王に対して思ったことは自分にもいえることだ。この家に生まれたからにはその責務を全うする。そう思ってきた。もうずっと昔から。楽しい時間は終わってしまった筈。なのに、なんて自分勝手で我侭で欲張りなんだろう。

絳攸は期待した言葉なんてくれなくて。でも、それ以上のものを自分にくれた。
自惚れでもいい。自分勝手で我侭で欲張りな自分さえ許された気がした。







すっかり臍を曲げってしまったらしい友人は自分に背を向けてスタスタと歩き出した。どうやって機嫌を直してもらおうかと思案して後ろを歩いていると、絳攸は数歩目で立ち止まり、こちらを振り返る。眉間の皺もきつい眼差しもそのままだったけれど、もう怒ってはいないようだ。

「絳攸?」

「………楸瑛」

絳攸は僅かに逡巡した後、自分の名を呼んだ。そして、ぞんざいに手を差し出す。先程私を殴った右手だ。


「帰るぞ」


自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。自信がない。
ここは藍州で、自分が生まれ育った場所で、謂わば故郷なのだけど。
なのに、君は「帰ろう」と言った。自分達の居るべき場所へ。
ぎこちない仕草で、初めて絳攸から差し出された手を握った。自分より高い掌の体温が心地良かった。
一瞬、このまま二人でどこかへ行ってしまいたくなったが、そんなことを言ったら間違いなくこの手を振り払われてしまうので口には出さず、代わりに少し強めに手を握った。

絳攸は何やら自分の取った行動が恥ずかしいのか、ギクシャクと歩き出す。

「…絳攸」

「な、なんだっ!?」

「…非常に言い難いんだけど…貴陽に帰るなら逆だよ?」

言ったら怒るだろうから珍しく控えめに言ってみたのだが、結果は同じだった。

「っ、早く言え!!」

赤くなる絳攸に構わず、楸瑛は絳攸の手を引いて逆の方向へ再び歩き出す。


―――君はまだ私に約束を守らせてくれるんだね。

本当は君を連れ戻すのは私じゃなくてもいい筈なんだ。私がいなくてもいい筈なんだ。君が迷っても、いざとなったら養い親がなんとかするだろうし。私が居なくちゃいけない理由なんて何処にも無い。
なのに、君はそれを私に許す。
空っぽだった私にとってそれは、救いであった。


帰ろう。愛しい世界へ。











「…そう、上手くはいかないか」

楸瑛は突然足を止めると、呟いた。

「楸瑛?」

楸瑛の呟きに絳攸が不思議そうに顔を上げる。
楸瑛は絳攸に苦笑いを浮かべると、握っていた手をそっと放した。


「楸瑛様」

背後から掛けられた声に楸瑛はゆっくりと、絳攸は急いで振り返った。
そこに居たのは一人の男だった。歳は30代後半といったところだろうか。均整のとれた体よりも表情の無い瞳に目がいく。紅家の「影」を知っている絳攸には男がただの藍家に仕える家人ではないだろうことが判った。
楸瑛は絳攸より一歩、男の前に進み出る。

「何?まさか引き止めるつもりかい?」

楸瑛の口元は笑みの形に上がっていたにも関わらず、目は笑っておらず危険な色を湛えていたが、楸瑛の背に隠れる形になった絳攸からは楸瑛の表情は見えなかった。
男は楸瑛の質問に答えるでもなく、抑揚の無い声で告げた。

「当主様方がお戻りになられました。貴方をお呼びです」

その表情からも何も読み取ることはできない。
楸瑛は一つ溜息を吐いた。強行突破できない訳ではない。が、ここでそれをするのは不利だ。

「……判ったよ」

「おい、」

楸瑛の言葉に絳攸は思わず声を掛ける。安心させるように楸瑛は微笑んだ。

「大丈夫だよ」

多分、という言葉は意地で飲み込んだ。

「李絳攸殿も御一緒においで頂く様に仰せつかっております」

やはり淡々と告げる男の言葉に、絳攸は驚く。

「は?俺も?!と、いうか何故俺の名前を知っているんだ?」

「………やはり、お見通しか」

楸瑛は思わず頭を抱えたくなった。できれば絳攸を兄達に会わせたくなかったのだが…。










堀と水路を張り巡らせた湖海城と呼ばれる城の中の一室。宝石が散りばめられた豪奢な扉の前で、楸瑛と絳攸は並んで立っていた。

「ねぇ、絳攸」

「何だ」

絳攸は隣の男を振り仰いだ。

「まるで結婚の報告するみたいだね」

「っこの常春が!」

絳攸はここが藍家の城だということも忘れて、スパーンと隣の春真っ盛りの頭を叩いた。

「痛いよ、絳攸」

避けもせずにへらへら笑う男に、ついに頭が腐ったかと思ったが、少なからずこの常春が緊張していることが伝わってくる。
自身も気を引き締める。この扉の向こうにいるのは彩七家筆頭の藍家当主。紅家の関係者としても、王の側近としても色々と気を張らなければいけない相手だ。…尤も紅家当主の黎深からすると「私の兄上に馴れ馴れしくするんじゃない!この性悪三つ子めっ!!」らしいが。








「失礼します」

たっぷり三回深呼吸をした後に、押し開いた扉の先に三兄達は居た。それぞれ椅子に座って面白そうにこちらを眺めていた。
後ろの絳攸が僅かに息を呑むのが気配で判った。無理も無い。実の弟の自分だって、三兄を完璧に見分けられる自信は…無い。


「やぁ、楸瑛」

「久しぶりだね」

「元気にしていたかい?」

「…ええ、お久しぶりです。兄上達もお元気そうで何よりです」

あまりに似ている兄達は、間違いの存在しない間違い探しの絵画の様だった。

「我らに益々、顔が似てきたな」

「左頬が赤いが?どうした」

「別れ話がもつれて女性に殴られたか?」

「…………………違います」

殴った本人である絳攸は四人の会話に口を挟めずにいた。
ふと、三兄の一人が絳攸に目を向ける。

「そちらが、李絳攸殿?」

楸瑛が口を開く前に、絳攸は一歩前に進み出ると優雅な所作で膝を折った。

「初めまして、李絳攸と申します。藍家当主様方におかれましては…」

「いや、堅苦しい挨拶は無しだよ」

「そうそう。こちらに座って色々と話を聞かせて欲しいな」

「ゆっくりしていくといい。なんだったら藍州に邸を用意させようか」

三兄の中一人が絳攸の腕を取って立たせると、にこにこ笑って室の奥に設えられた卓に引っ張っていこうとする。

「あ、あの当主様方…」

三兄の波状攻撃に初対面の絳攸は対応しきれず、困惑していた。

「邸ではなく、この城に室を用意させてもいいな」

「ああ、そうだね」

「楸瑛の隣の室でいいだろ」

「では、早速…」

取り残されそうになった楸瑛は慌てて兄達から絳攸を引き離す。

「お、お待ち下さい!」

「「「なんだい?楸瑛」」」


「…兄上達にお話があります」


それまで笑っていた三兄達が笑みを隠す。


情けないな。

屹度、顔が引きつっているだろう。手にはじっとりと汗を掻いている。
口ではどんなに「鬼畜だ」なんだと言っていても楸瑛にとって一族の当主である三兄は絶対の存在だった。


「私は…貴陽に帰ります」


三組の瞳がじっとこちらを見詰ている。

「「「で?」」」


「…許して頂こうとは思っておりません。例え藍姓を名乗れなくなっても…失いたくないものが彼の地にはあります。…私は絳攸と帰ります」


沈黙が降りた。
三兄の口がゆっくり開くのを楸瑛は息を止めて待っていた。












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双花の2人は「え?付き合ってるの??」ってかんじですね…。おかしいな〜。
やっとお兄様達が出せました!人の話を聞かないのは藍家の特徴でしょうか。次回は雪兄様のお嫁様が出ます。 …完全なまでの捏造です。
07/3/1

戻る/続く