さらば、貴陽!B











ここ数日の吏部侍郎の機嫌は酷く悪かった。
悪鬼巣窟の異名を持つ吏部の猛者達でも、声を掛けるのを躊躇う程に。
普段から「鉄壁の理性」と渾名される吏部の副官がにこにこ、へらへら笑って仕事することなど今まで一度たりとも見たことがないし、有り得ないだろうから鋭利な表情は何時も通りといえば何時も通りであったが。それでも周囲に判る程苛々していることは稀であった。「何かあったのだろうか?」と、思う者も居たには居たが、その疑問を口にする様な度胸も暇もなかった。触らぬ神に崇りなし、である。そして尚書は相変わらずいや、何時も以上に仕事をサボっていた。


その吏部侍郎、李絳攸は書簡で埋まった侍郎室に居た。
(うずたか)く積み上がった書簡の山の中から一つを取り出そうとして、失敗した。盛大な音を立てて山が雪崩れを起こした。

「――ちっ」

舌打ちして床に落下した幾つかを拾い上げた。しかし全てを拾い上げる前に、仕事を再開させた。仕事はちっとも片付かないのに時間ばかりが過ぎてゆく。苛々が募ってゆく。
仕事が終わることはないが、吏部での仕事にきりをつけたら、執務室に戻らねば。

あの室でたった一人、机に向かっているであろう人物を思う。
王が弱音を漏らしたのは楸瑛がいなくなった翌日の一回きりだった。
それ以来、王は楸瑛の名を口にしない。
常ならば「秀麗の饅頭が食べたい」だの「疲れたから休憩したい」だの言いまくる王が、何も言わずただ仕事をこなしている。
王にはそうあって欲しいと思ってきた筈なのに、何故かその姿は痛々しく映った。

楸瑛の辞任の保留にも限界がある。
藍家の思惑について探りを入れてはいるが、相手は彩七家の筆頭名門。雲を掴む様なものだ。



もう、居ない。もう、帰って来ない。

本当に…?


「――――絳攸!」

「…っはい!!」

思考を中断するように名を呼ばれ、慌てて顔を上げる。眼前に上司兼養い親の姿があり、絳攸は飛び上がった。

「な、何でしょう?」

「何でしょう、だと?お前こそ何をしている?」

「え、あの…」

手元を見ると書き掛けの紙料に墨が滲んでいた。

「そんな上の空でこなせる程吏部の仕事は甘くはない」

「…申し訳ありませんでした」

「…使えない者は必要ない。頭を冷やしてこい」

「必要ない」の言葉にビクッと肩を揺らした養い子を黎深は冷たく見下ろした。口元は常のように扇で隠したまま、黎深は蒼白となった絳攸の目の前に分厚書物を数冊重ねて置く。

「府庫に返しておけ」

それだけ言うと黎深はさっさと踵を返し、侍郎室を出て行った。








この角を右に曲がれば府庫の扉が見えてくる…筈。
しかしあったのは行き止まりの壁だった。絳攸はギリッと奥歯を噛み締めて立ち止まる。


『また、迷ったの?』


『何って、武官になったんだよ。国武試を受けてね。今日から晴れて左羽林軍だ』


『私が急に居なくなって寂しかったからって、そんなに怒らないでくれよ』


そんな馬鹿な台詞を吐いて、頭に花を咲かせた男はにやけ面で、現れた。…あの時は。
自分が何かを期待しているようで酷く吐き気がした。
廊下の欄干を思い切り叩く。


一人の人間が朝廷を辞めた。それだけだ。それだけのこと。新人として朝廷に入る者もいれば、去る者もいる。よくあることだ。
名門のしかも藍家の直系ともなれば、本人の意思より家の考えが優先されるのは当然で、そんなのも判り切っていたことだ。そこに他人が入り込む余地等なく。
…だったら、どうして自分はこんなにも苛々しているのだろうか。何がこんなにも引っ掛かっているのだろうか。



「絳攸殿?」

背後から声を掛けられ、弾かれたように振り返るとそこには府庫の主・紅邵可が心配そうに立っていた。








場所を府庫に移して(邵可に府庫まで連れて来てもらって)、邵可に預かっていた書物を返す。書物を受け取りながら邵可は憔悴した様子の義理の甥に話し掛けた。

「大丈夫ですか?」

「は、吏部の仕事でしたらいつもと変わったことはありませんし、主上の方でしたら他の部署からも人員を裂いてもらっておりますし、武官にも…」

「仕事のことではないのですよ」

邵可は絳攸の言葉を穏やかに遮った。

「え…あの、どういう…?」

「随分と苛々しておいでのようでしたから」

「…そうかも…しれません」

絳攸の瞳は一瞬大きく開いた後、そっと逸らされる。

「どうされたのでしょうね…?」

邵可は誰がとは言わなかった。

「…判りません。俺にはあいつの考えていることなんて」

俯いたまま掃き捨てるように言葉を漏らす絳攸を邵可は黙って聞いた。

「あいつは昔からそうなんです。大事なことは何一つ言わず、秘密主義で…」

そこではっと気付き、慌てて邵可を見る。

「もちろんっ!家のことを言えないのは当たり前で…そんなの理解しているんです…」

邵可が頷くのを見て、また俯いて呟く。昔から不思議と邵可になら意地を張らずにしゃべれる。養い親のことを抜きにしても、心から慕っていた。どんなに小さな声でもこの人は全部掬い取ってくれる。

「あいつは…人のことを勝手に親友だ何だと言っている癖に…結局は」

「言いたくても言えなかったのでしょうね」

「…?それはどういう意味ですか?」

邵可の言葉の意味を図りかねて絳攸は問い掛けた。

「貴方は引き止めてはくれないでしょう?」

僅かに首を傾げながら言う邵可に、絳攸の眉が苦しそうに寄った。
あいつが何も言わずに勝手に朝廷を辞したことを怒っている。それは確かだ。でも。だったら、あいつがあの夜それを告げていたら…?
そしたら自分は「そうか」としか言えない。「元気でな」とか「あまり頭に花を咲かせ過ぎて馬鹿な女に刺されるなよ」とかそう言って見送るだろう。

「俺…私には口出す理由がありませんから」

「そうですね。藍将軍はそれも判っていたと思いますよ」

引き止めて欲しい訳じゃない。悲しい顔をしてくれることを望んだ訳じゃない。ただ…思い知るのが嫌だった。怖かった。自分が居ても居なくても何も変わらないなんて。

「藍将軍と最後に会ったのは絳攸殿だったのでしょう?」

「はい…」

あの日、共に酒を飲もうと誘われた。どうしても今夜がいいと。
酒を酌み交わし、他愛もない話をして。昔話をして。

「それが彼の精一杯ではなかったのでしょうか」

「………………………」

「人は臆病なのです」

大切なものが増えるたび人は臆病になる。自分も、きっと目の前のこの人もそれを知ってる。

「俺は…」





その時、府庫の扉を勢いよく開ける者がいた。












*************

なんだか絳攸が楸瑛のことすごく好きみたいです…。そんなの絳攸らしくない!
貴陽から藍州まで一体どれ程の距離があるのか…それを考えただけで頭がパンクしそうになったので、誤魔化します!!
07/1/12

戻る/続く