さらば、貴陽!A
「もう出掛けたのか?」
「…申し訳御座いません。絳攸様」
深々と頭を下げた初老の男性は藍家の家人で、この邸で一番の古株だ。絳攸とも面識がある。
「いや…。用事があったのだろう?こちらこそ長居をしてしまった。悪かった」
昨夜の楸瑛は用事がある様なことは言っていなかったが、武官には文官にはない早朝訓練もあるだろう。
「…主人から朝餉と軒の用意を言付かっております。どうぞこちらへ」
「ああ、すまない」
絳攸の質問には何も答えず、朝餉が用意されている室へと案内する男の背中を絳攸はぼんやりと見詰めた。別邸とはいえ、藍家の家人を長年勤めた男だ。客人に対するもてなし、礼儀作法、気配りなど抜かりはない筈だ。……なのに。今日のこの家人からは違和感が漂う。
ふいに胸の奥がザワリと疼く。咄嗟に手で着物の袷を握ってしまった。
「絳攸様?どうかされましたか?」
足を止めてしまった客人を不審に思って家人が声を掛けてきた。
「…何でもない」
―――きっと昨夜の酒がまだ残っている所為だ。
絳攸はそう、自分に言い聞かせて歩き出した。
午前中は吏部での仕事をこなし、午後は王の執務室で過ごすのが本日の絳攸の予定であった。しかし、何の因果か本日一番に辿り着いたのは吏部ではなく、もう一つの仕事場であった。
「―――くっ!」
何だってこう、いつもいつも。誰かの呪いだとしか思えない。
内心では激しく動揺していても、表情はそれを綺麗に包み隠していた。
絳攸は一つ息を吐き出すと、内心の動揺をすぐに消し去り、執務室でこれから片付ける仕事の内容や順番を頭の中で整理していく。
纏まったところで、扉を数回叩いた。
「主上、李絳攸です」
絳攸が重い扉を開けて執務室入ると、そこには王しか居なかった。
特別な任務でもない限り、この刻限なら絳攸より早くここを訪れて「遅かったね」だとか「今、探しに行こうと思ってたんだよ」だとか、癇に障るにやけ面で居るであろう人物の姿はそこになかった。
何故かいつも目的地になかなか辿り着けない自分と違って、楸瑛が時間に遅れることなど今迄なかった。思わず握った手に力が入る。そのことに気付かぬ振りをして絳攸は室の主に話し掛けようと口を開いた。
「お早う御座います、主上」
「…絳攸」
劉輝が一枚の紙料から顔を上げた。その顔が不安気に歪められていることに、絳攸の心臓が音をあげた。どうしてそんな顔をするのか、聞かなくてはならないと頭は判断していたが、心は拒絶していた。嫌な予感が自身を犯してゆく。
「しゅ…」
「楸瑛が朝廷を辞した」
嗚呼、そうか。だからなのか、昨日のあいつの様子が変だったのは。
だからなのか、今この場に居ないのは。
驚いていることよりも、妙に納得している自分がいた。
「絳攸、何か聞いてはおらぬか?」
―――いえ、何も。
縋り付くような王の視線に自分はどんな顔を向けているだろう。もしかしたら冷笑さえ浮かべているのではないだろうか。心の芯が冷えてゆくような感覚に囚われる。
この感覚には覚えがあった。もう何年も前。
そういえば先程の会話でさえ覚えがあった。どこかで同じ会話を繰り返した気がした。
『お前は、何も聞いていないのか?』
あの時と同じだ。楸瑛が文官を辞めた時。あの時も自分は何も聞いていなかった。
楸瑛が朝廷を辞したことは、あまりに急であり、その理由も定かではなかった。ただ、一通の手紙が主上の元に届いただけだった。その為、楸瑛自身の…いや、藍家の考えが明確に判るまで楸瑛の羽林軍・将軍職兼主上付の辞任は一時保留としたのが劉輝の采配である。楸瑛の不在は休暇を兼ねた藍州の視察ということになっており、事実を知る者はごく一部だった。
例え、身近な人間の行方が判らなくなろうが、日々の執務が減ることはなく…それどころか、文官としても優秀だった人物が抜けた穴は大きく、王と側近は大量の書簡に囲まれていた。
「絳攸…」
「何ですっ!?」
「……いや。…なん、でもない」
「何でもないんだったら、さっさと手を動かす!!!」
「……はい」
常にも増した気迫に劉輝は何も言うことができなかった。
只管(
「〜っアンタ、やる気がないんですかっ!!」
怒鳴りつけても顔さえ上げない。
席を立って近づいて行くと、劉輝は小さな声で言った。
「絳攸、余はどうしたらいい…?」
その泣きそうな呟きに絳攸は固まった。
「余は…何か間違えただろうか…?」
*************
細かいことは気にしないで下さいっ!!というか、今回に限ったことではないのですが、可笑しなことは多々ありますけど…もう笑って許して下さい!と、しか言えない(汗)
私は絳攸・劉輝・楸瑛の王都3人組が大好きですっっ!!←力説。何というか双花の間に入っていいのは私の中で劉輝だけなんですよね。
07/1/2