さらば、貴陽!











その日、吏部侍郎・李絳攸は相変わらず仕事に追われていた。
彼の養い親兼上司が全く仕事をしないことも、彼の腐れ縁の友人がそれをからかいに来ることも相変わらずだった。だが、その日は少々様子が違っていた。

「絳攸、生きてる?」

吏部侍郎室の扉を軽く叩いた後に覗かせた顔は、部屋の主を不快にさせた。

「なんだっ!?要件があるなら手短に済ませろ!ないなら失せろ!」

楸瑛の顔を見たのはほんの一瞬のことで、視線はすぐに書簡に移された。無駄話などしている時間は米粒程もない。

「う〜ん、すごい殺気だね。実はいい酒が手に入ったから今夜一杯どうかなって…」

「見てわからんのか!?無理に決まってる!!」

楸瑛にとっては吏部侍郎室の書簡の山は見慣れた光景だった為、この現状を目の当たりにしても顔色一つ変えないが、他の官吏だったら見た瞬間に裸足で逃げ出しただろう。

「そうみたいなんだけど……どうしても今夜がいいんだ」

絳攸は楸瑛の言葉に引っかかりを感じて顔を上げた。

「何だ?何かあるのか?」

今夜でなければ駄目ということは急を要する話なのだろうか。しかし、仕事の話で急を要するなら夜まで待って酒を飲みながらする話でもないだろう。絳攸は不思議そうに首を捻った。

「……まぁね。と、いうことで遅くなって構わないから今夜、私の邸で待ってるね」

絳攸は楸瑛が曖昧にはぐらかしたことよりも、既に行くことが勝手に決まっていることに反応した。

「はぁ?誰が行くと言った!?」

「君が来てくれるまで、待っているから」

そう言うと、楸瑛は絳攸の言葉を待たずにさっさと行ってしまった。

「…なんなんだ、あいつ」

楸瑛が出て行った扉を見つめて呟いた絳攸だったが、考えても判らないことは考えても無駄なので、またすぐに書簡に向き合い筆を走らせた。






「やぁ、いらっしゃい」

その夜、絳攸は楸瑛が予想したより早くやって来た。一言も「来る」と約束しなかったにも関わらず、楸瑛は絳攸が来ることが判っていた。凄まじい早さで仕事を終えて。彼は約束を違えない。例えその約束が一方的なものであっても。彼はそういう男なのだ。
出迎えたのは藍家の家人ではなく楸瑛だったのだが、夜半に人の邸を訪ねることに抵抗を感じるのか絳攸はどこかそわそわして見えた。

「無理に誘ったのは私だよ。気にしないで」

「…ああ」






「で、何が言いたいんだ?」

とびきり上等の酒もそこそこに、絳攸は単刀直入に切り出した。酒が単なる口実であることぐらい判っていた。でも絳攸にそれを見抜かれていることぐらい気付かぬ楸瑛ではない。絳攸の質問にもいつもの食えない笑顔を返しただけだった。
全くもって腹立たしい。絳攸には楸瑛が何を考えているかさっぱり理解できない。それなのに楸瑛には絳攸の考えていることなどお見通しなのだ。礼部尚書の下らない言葉に心を乱した時も何も聞かず、ただ邵可様に頼んだ。昔からそうだ。いつもからかってばかりいる癖に絳攸の出自についてからかったことは一度たりともない。藍楸瑛はそういう男だった。

「思えば私達が共に国試に及第してもう7年になるんだね」

「は?」

何をいきなりと思ったものの、そう言われてみると確かにあれからもうそんな年月が過ぎていた。毎日が忙しすぎてそんなことをじっくり考える暇もなかった。

「ねぇ、絳攸。私達の出会いを覚えているかい?」

楸瑛は絳攸に酒を注いでやりながら聞いた。

「…ふん。忘れたくても忘れられないな。お前は印象最悪な男だったからな」

酒を一口含んで飲み込んでから絳攸は眉を顰めて言った。

「ははは。…やっぱり?」

楸瑛は子供っぽく笑った。






それから、酒を飲みながら他愛もない昔話をした。昔の話をされるのは女嫌いになったある事件も関係あって嫌がる絳攸だったが、酒も進んでいたことに加えて、楸瑛の様子がいつもとどことなく違うこともあって別段話を変えることはしなかった。






国試受験生の時も、進士の時も、官吏になってからも散々な目に合って来た。「朝廷随一の才人」などと羨望の眼差しで見られることは、ごく最近のことでしかない。好奇や嫉妬の目に晒されてきた。貶めようとする者、その才を取り込もうとする者。様々な思惑が渦巻く世界。そこに身を置こうと、役に立とうと決めたのは己自身。だから、自分の所為で養い親に迷惑をかけたくなかった。官吏として上司に泣きつくわけにはいかなかった。彼はそんな甘ったれた人間が嫌いなことを知っていたから。一人で乗り越えなければいけなかった。一人で立ち続けなければいけなかった。だが、そんな時いつも傍にはこの男がいた。
本当は知っていた。いつも助けられていたことを。本当に助けが欲しいぎりぎりのところでいつも、こいつはやって来た。
感謝していた。けど、相手の性格と自分の矜持の所為で一度も言葉にしたことはなかった。
それでも。大事な人間なのだと本当は知っていた。






段々と楸瑛の話に打つ相槌も怪しくなり、絳攸は卓に突っ伏したまま眠ってしまった。絳攸は文官とはいえ毎日毎日上司に扱使わ…激務をこなし、更に迷子になることで体力の消耗が激しい。背中に衣を掛けてやっても身動き一つせずに熟睡している。

「……ごめんね」

楸瑛は絳攸を見下ろして呟いた。
絳攸はどう思うだろう。まただ、と思うだろうか。
約束を違えることをどう思うだろうか。怒るだろうか。それとも…彼にとっては何も変わらないのだろうか。

「あまり迷っては駄目だよ」

絶対、とは無理な相談だろうから。目を細め、子供に言い聞かせるように言う。
絳攸の長い前髪を分けてやると、形の良い眉が現れた。寝ている今は眉尻も下がり、あどけない。楸瑛は僅かに躊躇った後、その瞼にそっと唇を寄せた。






庭園に面した室に一陣の風が舞い込んだ。その後に現れた僅かな人の気配に、楸瑛は真顔になる。

「楸瑛様、お時間です」

どこからともなく声が聞こえた。

「ああ、わかっている」

その声に返した楸瑛は誰も見たことのないような冷めた顔をしていた。そして―――。

「…ただ、貴陽での最後の酒は君と飲みたかったんだ」

最後に泥のように眠る親友に優しい微笑を注いだ。






朝、絳攸が目を覚ますとそこは藍家・貴陽邸だった。客室の寝台で藍色の衣を掛けられ眠っていた。しかしその別邸の主の姿は邸のどこにもなかった。












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連載始めました。タイトルまんまです(笑)
相変わらず片想ってます!でも迷子は無自覚なだけで両想い…だといいな。唇にしようか迷って瞼にしちゃった将軍!ヘタレ万歳!!!

06/12/25

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