天に架かる二つの虹⑨










絳攸はゆっくりと、瞬く。降り注ぐ言葉を反芻するように、ゆっくりと。

 

辛い…嗚呼、そうだ。辛かったんだ。辛くて苦しくて。心などなくなってしまえばいいとさえ思った。

辛いのは自分の望みを知っていたからだ。本当は、自分が何を望んだのか知っていた。心のどこかで、本当は選んでいた。選んでいた…のに。

選んだものと選ばなければいけないものが違ったんだ。本当は選ばなければいけないものを選べない自分に絶望して、苦しかった。

迷っていたわけじゃない。一歩も踏み出せなかっただけだ。

「それ」を選んでしまえば、自分とあの人達を繋ぐものが何もなくなってしまう。傍に居て、貰ったものを一つでも返さなくては、血や姓でさえ繋がっていないあの人達と自分を繋ぐものは何もなくなってしまう。突然の始まりのように終わりが訪れ、その後に残るのは何も持たぬ己のみ…そう思っていた。

けれど。

残るのだろうか。「それ」を選んでも、自分の手に、残るのだろうか。大切なものは、捨てずにいれるのだろうか。

あの人達と共に過ごした記憶が、今もこの胸にあるように。

『李、絳、攸、だ。自分の名前くらい書けるようになれ』

『大好きよ、絳攸。わたくしの可愛い息子』

あの日々は少しも色あせることなく、ここにある。

 

絳攸はゆっくりと、ゆっくりと瞬く。硝子玉のような瞳に色が戻ってゆく。

 

雨の中、腕に暖かさがある。

自分を掴んだ手。武人らしい無骨な大きな手。この手はいつだって、道を間違えそうになる自分を導く。「また、迷ったの?」そう笑って。

手の持ち主は、柔らかな鉄色の瞳で自分を見詰ていた。

「ねぇ、絳攸。君はどうして黎深殿の手をとったの?君が欲しかったものは何?」

『いいだろう、お前を拾うぞ』

差し出された手を、初めは拒んだ。

期待して裏切られるのも、何かを失くすのも御免だった。尤もその時の自分は失くすほど、何かを持っていなかったが。あったのは唯、生命のみ。それさえ、手放しそうになっていた。だから失くすほどのものを持つのが恐かったのかもしれない。

それでもその手を取ったのは、どうしても欲しいものがあったからだ。

あの人は―――紅黎深という人はあの雨の中、手を差し出しながらそれを自分にくれたんだ。

『お前が望むものをやろう』

欲しかったものは―――。

 

楸瑛は腕を掴んでいた手をずらし、冷たくなった絳攸の掌を握る。

無骨な武官の手とは違う繊細な、けれど胼胝のある手。

この手にしか掴めないものが、ある。

楸瑛は何かを確かめるように、握る手に力を込める。

「昔の君は、この手で黎深殿の手をとった。じゃあ、今の君のこの両手は何の為にあるの?

絳攸は握られた自分の手を見下ろした。

この手に掴んでいたいものが、ある。

それは黎深様の袖じゃない。

 

「…まだ、間に合うだろうか」

呟いた自分に、楸瑛は握っていた手を離した。そして鉄色の瞳にからかいの色を灯して、いつもの調子で問う。

「君は、誰?」

『李絳攸。今日からそれがお前の名前だ』

李、それはあの人が一番好きな花。

絳、紅よりなお深い深紅。

攸、自由に、何にも阻まれることなく思うがままに。

 

自分が『李絳攸』である限り…失うものなど、何もない。

 

「誰に向かって言ってる、楸瑛?」

ふっと口の端を上げた絳攸に、楸瑛は面白そうに目を細めて笑う。

「俺は『李絳攸』だ」

「だったら…間に合うんじゃないかな」

「…そうか」

「うん」

「…俺は、行かなくはいけない」

「うん」

「あの人に、」

「うん、ちゃんと向き合っておいで」

 

身体が自然に動いた。まるで糸で引き寄せられるかのように。

足元で水が跳ねる音がする。

 

ああ、行かなくては、と思う。

迷っている暇も、立ち止まっている時間ももう、ない。

大切なあの人に会いに行こう。欲しいものがあると伝えに行こう。

自分はもう手を差し伸べられるのを待つだけの、子供ではない。

自分で掴みに行こう。

この両手はそれを掴む為にあるんだ。

虹の生まれる場所に、もう一度辿り着く為に。

虹の生まれる場所に、今も自分を待っている奴がいる。

 

悠舜様のことは尊敬している。

それでも、あの時確かに芽生えたのは―――嫉妬だった。鄭悠舜が茶州から帰還し尚書令を請けた時に、自分は嫉妬したのだ。

彼の初の宰相は、己が身と引き換えに絶対の忠誠を誓った。王の『楯』となった。

あの時の王の顔を忘れることが出来ない。声は少し震えてかすれていた。

近くにいたのに、と思う。自分がやらなくては、ならなかったのに。自分が、守らなければいけなかった。…守りたかった。

あいつは世間知らずでお子様で天然ボケで大馬鹿で泣き虫で不完全だから。

 

「好きだった」「楽しかった」それだけでは、駄目だった。

けれど。

それ以外に必要なものとは何だ。

王の器だから?尊敬しているから?自分の力を試したい?民の為?国の為?尤もらしい理由をつけることは簡単だ。

屹度、単純なことなのだ。

力になりたいのだ。

自分を必要としてくれるから応えたい。

悲しんで欲しくない。

笑っていて欲しい。

黎深様も、百合様も。笑っていて欲しい。

自分も笑っていたい。

一緒に笑ってくれる王だから。

そんな彼が治める国だから。

彼が王であり続ける限り。

その道を守っていきたい。

 

その為に、生きていたい。

 

 

 

小さく笑んで踵を返したその背を見送って、楸瑛は深く息を吐いた。

『お前に何が解るっ!!!お前なんかに何が解るっ!藍家のお前にっ!!』

自分で言わせて傷ついていたら世話がないと、軽く呆れる。

土足で踏み込んだと思う。彼が一番触れられたくないところに。そして、己の触れられたくない部分を晒したと思う。

今まで避けていたことに、本気でぶつかったつもりだ。

そうしたのは甘えや遠慮が出来ない本気の心だから。

それくらいで、何かが駄目になるようなやわな関係じゃない。自分と彼も。

ただ。

まだ、たった一つの問いを残している。

楸瑛は憂いを含んだ瞳を揺らし、そっと閉じた。

それでも彼なら、絳攸なら―――。

 

 

 

パシャリと、地に落ちた雨が跳ねて足に掛かった。

絳攸は足を止める。

降り続く雨で視界は良くない。その中でも紅い傘は、よく映える。

それを見て、泣きそうな笑みが浮かぶ。

やはり、この人には自分のことなどお見通しなのだ。

絳攸は佇む人影にそっと近づく。

 

『ただ、傍に居て。貰ったものを一つでも返したい』

ずっとそう思ってこの人の近くに居た。

それこそが、欲しかった『理由』なんだ。

紅黎深という人物は、自分にとって尊敬だとか、大切だとか、思慕だとか。そんな言葉では言い表せない。

 

どうしても欲しかった―――『生きる理由』だった。

 

拾われる前の自分は、いつも死にたくないと思っていた。死にたくなくて、死にたくなくて、毎日、毎日、這いつくばる思いで生きていた。死んだら負けだと、本能のように思っていた。

けれど。

ある日、気付く。自分は、一体何に負けるというのだろうか。

他人を騙し、物を盗み、ごみを漁り、鼠を追いかけ、物乞いをしてまでして勝ちたいものとは何なのか。

死にたくなかった。しかし、生きなくてはいけない理由もなかった。

あの日、紅の光は自分にその理由を与えてくれたのだ。

「お役に立ちたい」とか「恩返しがしたい」とか本当はそんなものではなくて。「生きなくてはいけない」理由があった。

あの頃の自分はその理由がなければ、生きていけなかった。…そう、あの頃は。

『もういいんじゃないかな』

もういいんだろうか。その理由を手放して。

「死にたくない」ではなく「生きなくてはいけない」ではなく。自分は「生きていきたい」のだ。自分の意思で。

そう思えるのは…「生きていていい」と思わせてくれたのは…『李絳攸』として過ごした日々だった。

そして、この人だった。

 

「…黎、深様」

紅の傘に阻まれ、養い親の顔は見えない。

「黎深様、私は欲しいものがあるんです」

「決めたのか?」

その声からは何の感情も読み取れない。

「…はい。私は…行かなくは、」

ぱたぱたぱたと雨が傘を叩く。

「…お前もか」

黎深の呟きは雨音に掻き消えた。

「黎深様?」

紅の傘が揺れ、その顔が露になった。

しかしその顔は声と同様、何の感情も宿してはいなかった。

黎深はその顔色を変えることなく、口を開く。

「お前が何処に行こうと、私には関係ない」

静かな、雨音さえ消してしまいそうな静かな声が、絳攸の心を急速に冷やしていく。

絳攸の顔が歪む。

自分は、何を甘えていたんだろう。この人のどんな言葉を期待したというんだろう。どんな道を選んでもお前がお前であればいいと、他には何も望まないと、秀麗のように言って欲しかったのだろうか。

それは、甘えだ。

この人が何より甘えた人間が嫌いなことを知っていて。

『わたくし達に合わせてここにいる必要はないの。ここよりももっと他に行きたいところがあれば行けばいいのよ』

百合様にさえ、あんなことを言わせて、傷つけて。

それでも。

自分はその願いを、捨てられない。

欲しいものが、ある。

 

絳攸は震える唇で、言葉を探す。

「黎深様…貴方は?貴方は、ずっとここに居るんですか…?」

黎深は眉一つ動かさなかった。

「貴陽にいらした時の方が、貴方はずっと楽しそうだった。百合様も今は…塞ぎこんでおられるようで。…それは私の所為なのかもしれませんが」

虹の生まれる場所を知っている。

それは、自分にとってだけでなく―――。

「黎深様…わ、たし、は」

「絳攸」

「はい…」

「その名も、もう必要ないだろう」

「…え?」

時が確かに止まった。

「もうお前は私の養い子ではない。好きな名を名乗れ」

立ち尽くした絳攸に構う事無く、黎深は続ける。

「兄上も、悠舜も、お前も…皆あの洟垂れのことばかりだな。お前も、洟垂れの所でも何処へでも行くがいい。私はお前の顔など二度と見たくない」

何一つ顧みる事無く、紅の傘はすっと翻る。

しかし、数歩進んだところでその傘が地に落ち転がる。

雨が直に黎深に降り注ぐ。

黎深は後ろに引かれて崩した体勢を整え、怪訝に振り返る。

自分の腕を掴んでいる者が居る。黎深は冷たくそれを見下ろした。

「…離せ」

「嫌です」

その返答に黎深の眉間に皺が寄る。

「離せ…!」

「嫌です」

しがみ付くように、絳攸はその腕を引き寄せた。

今この手を離したら駄目だ、と脅迫観念のようにただただ強く思う。

そんな言葉では駄目なのだ。

それでは何も残らない、この手には。

捨てたい訳じゃない。

全部、全部。掴みたいだけ。

一つ残さず。

『李絳攸』を作り上げたもの全てを。

甘えだけれど、我侭だけど、解っているけれど。

踏み出すための一歩が恐くて、怖くて、コワイ。だから、断ち切るのではなくて、背中を押して欲しい。

この人に。

生きる理由をくれた、人だから。

 

欲しかったのは、生きる理由。

欲しいのは、踏み出す勇気。

 

 

黎深は苛立たしげにそれを見る。それはいつだって自分が言うことに「嫌だ」と言った。しかしいつだって最後には自分に従った。

「嫌だと?私の言うことが、」

「聞けません!絶対離しません!!」

それは、悲鳴のような叫びだった。

黎深はふと、思う。振り切ろうとした小さな手を無理矢理掴んだのは、もう何年前のことだったのだろう。

今自分の腕を掴むその力は強い。しかし震えていた。

「俺はっ」

震える声。

「俺は『李絳攸』なんですっそれ以外の何者でもないっそれ以外の何者にもなりたいとは思わないっ!」

黎深の瞳が見開かれるのに、絳攸は気付かない。

「俺はっ生きたいんですっ」

その頬を何かが伝う。その何かが雨なのか、それ以外の物なのか絳攸自身にも判らない。

「貴方から貰ったものを一つも捨てずにっ『李絳攸』としてっ」

菫色の瞳が、そこにある。そこにはもう、「死にたくない」と言っていた幼い子供の姿はない。

「貴方の…貴方の、息子として」

黎深は声もなく、それを見る。

「俺は生きていたい。貴方がくれた全てのものが、誇りなんです。俺自身なんです…だから…」

ふいに、その言葉が途切れる。

ずるりと、掴んでいた手がずり落ちる。

「…絳攸?」

バシャと降り続く雨の中にその身体が倒れこむ。

黎深は目の前で崩れ落ちる体を受け止めることも出来ず、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。

 

「絳攸っっ!!!」












*************

絳攸が動き出しました。と、思ったら倒れました。
ええと、黎深様に悪気は無いんです。極端に走った結果があれです。
次回、絳攸と黎深様の出会いを捏造です。
果たしてあと何話なのか…ガンバレ絳攸、ガンバレ私。
08/4/5

戻る/続く