天に架かる二つの虹⑩










あの日も、雨が降っていた。

ずぶ濡れの子供を無理矢理拾った、あの日。

 

それを拾ったのは、秀麗が熱を出したと聞き、見舞いの品を手当たり次第持って訪れた帰りだった。可愛い姪は頬を赤く染め苦しそうに寝込んでいたが、琵琶を弾くと嬉しそうに笑顔を見せた。敬愛する兄上も「仕様のない弟だね…」と笑ってくれた。

楽しいひと時を思い出し、黎深は頬を緩めた。

しかしその後、馬の嘶きと共に軒が急に止まり、黎深は折角の気分を損なう。

「…何だ」

「すみませんっ子供が」

低く問えば、焦った馭者の声が聴こえた。

不審に思って軒の中から外を覗けば、軒の行く手の水溜りに何かが転がっていた。

それが水溜りに突っ伏した薄汚れた子供だと気付くのに、一拍。

「おいっどきなさい」

馭者が子供に声を掛けたが、転んだ形のまま子供はぴくりとも動かない。

ああ死んでいるのか、と黎深は思った。最近は王都でさえ治安が悪い。子供の一人や二人、野垂れ死んでいたからといって何も不思議ではない。

それについて心を痛めるような感情を、紅黎深は持ち合わせていなかった。

痺れを切らした馭者が馭者台を降り、子供をどかそうとする。

その時、馭者が腕を抱えた子供と黎深の目が合う。

 

硝子玉だ、と思った。

 

透き通った、硝子玉。それは決して死者の持つものではなかった。

しかし、その硝子玉を有する幼い顔には一切の感情の色が無かった。

黎深はおもむろに、軒を降りる。

冷たい雨が直に掛かる。馭者が慌てて傘を差し出すのが目の端に映った。

気まぐれだということくらい、自分でも解っていた。

「おい」

黎深は何の感情も無い声をうずくまる子供に投げかけた。

「このままここに転がっていてもお前は死ぬだけだ」

子供の手がぴくりと動いた。

「答えろ、お前は死にたいか?」

「…い、やだ」

子供は呻いて土を掻いた。

「し、にたく、ない」

見上げた硝子玉の瞳が黎深を射る。

その目は、確かに生者の目だった。

子供は何も持っていなかった。死人のように転がって、襤褸の様な衣を纏っているだけ。その望みを手放した方がどんなに楽か阿呆でも判るのに。

それでも「死にたくない」と足掻く。

黎深はふっと軽く笑った。しぶとい餓鬼だ、と。

「いいだろう、お前を拾うぞ」

「ご当主!?」

馭者が慌てるのに構うことなく、黎深はその枯れ木のような腕を掴んだ。

「っ!」

その手は振り払われた。どこにそんな力があったかと思うほどの力で子供は黎深の手を振り払った。

「いやだっ」

子供の必死の抵抗を黎深は淡々と見下ろした。

「…何が欲しい」

硝子玉が見開かれる。その硝子玉は菫の色をしていた。

「お前が望むものをやろう」

見上げた菫色には、様々な感情が宿っていた。怯え、恐怖、怒り、悲しみ、喜び、そして期待。この子供は怯えながらも酷く何かを期待していた。

黎深はもう一度、その手を掴んだ。

「言え、何が欲しい」

硝子玉にゆっくりと溢れてくるものがある。

「…り、ゆう」


生きる理由が欲しい。

生きていていい理由が欲しい。


小さな、小さな呟きと共に子供の頬を雫が伝った。

 

 

「…俺を拾って何をさせるつもりですか」

軒に乗せられた子供は心許無げにしていたが、意を決したように口を開いた。

「阿呆か。私は見ての通り見目もいい、頭もいい、金も有り余るほど有る、素敵な兄上もいる。お前如きにしてもらうことなど何一つ無い」

黎深は子供の決死の問いを、一笑に付した。

子供は数度目をぱちぱちさせた後、考え込むようにそれきり口を閉ざした。

それから四半刻ほどで軒は紅家貴陽別邸へと辿り着いた。

「おい、降りろ」

軒が着いた先を子供は口を空けて見上げた。先を歩きながら、黎深は付いて来ない子供を振り返った。

「何をぼさっとしている。今日からここがお前の邸だ」

その言葉にびくっと肩を揺らした子供は、何を思ったか踵を返そうとする。

黎深は逃げようとするその首根っこを掴んだ。

「何処へ行く」

「いやだ!はなせっ人さらい!」

黎深は暴れてもがく子供にちっと舌打ちをした。

「この私がお前を拾うと決めたんだ。お前に拒否権など無い」

「なっ」

「私から逃げられると思うなよ」

口の端をあげてそう言った時の、子供の顔は傑作だった。まさに、この世の終わりのような顔だった。

黎深は満足して一瞬大人しくなった子供を小脇に抱え、妻が待つ邸へと向かった。

 

あの日から、子供は自分の養い子になった。

 

 

 

近頃のあれが浮かべるのは嫌な顔だった。

自分はその顔を見るのが嫌いだった。その顔をさせる相手が嫌いだった。いつかの鬘尚書のようにとことん追い落としてやりたいくらいに。

あれは王から、貴陽から離れたがっていた。だから、離した。

それでも、その顔は陰りを増すばかりだった。

自分にはあれの悩みくらい手に取るように解っていた。しかし、その悩みは理解出来ないことだった。行きたければ行けばいいし、残りたければ残ればいい。それだけのことがどうして出来ないのだろうか。

どこに居ようと、あれがあれであることは変わらない。あれの生まれが何だろうと、何処の誰だろうと、そんなことは瑣末なことだ。

何故、そんな簡単なことが解らない。

日々陰っていくその顔を見たくなくて、室から出るのが面倒になった。

『黎深様…いい加減になさいませ』

あの女は言う。

『そんなに気に入らない?悠舜様に自分を選んでもらえなかったことが?義兄上に紅州へ帰れと突き放されたことが?絳攸が…本当は貴陽に帰りたいって望んでいることが?』

気に入らない?

嗚呼、確かに。何故誰も彼も、自分勝手なことをするのだろうか。何故誰も彼も、自分から離れようとするのだろうか。何故、良い事等一つも無いとわかっていて、敢えてその道を進むのか。

自分には理解出来ない。

『義兄上も悠舜様も絳攸も貴方のものではありません』

それが人の心というものなのか?

『己の思い通りにいかないことなどこの世にごまんとありますわ』

それが生きるということなのか?

「死にたくない」と足掻いていた子供。

自分はあれに何ものにも囚われて欲しくない。だから、紅ではなく李姓を与えた。

だったら、今あれが囚われるものとは何だ。あれにあんな顔をさせるものとは何だ。

『貴方が変わらなければ、みんな…貴方から離れていく』

あれにあんな顔をさせていたのは…自分か。

だったらあれにとって重荷となるものを排除すればいい。

それが自分でも、自分が与えたものでも関係ない。

『もうお前は私の養い子ではない。好きな名を名乗れ』

これで、もう自由だ。

もう、そんな顔を見なくて済む。二度と見なくて済む。

 

そうだろ、絳攸―――私の唯ひとりの愛し子よ。

 

 

 

囚われるものもなく、自由になったはずなのに。動かない、身体。固く閉じられた、瞳。

黎深は寝台へと横たえられたそれを見詰た。

 

『黎深…』

どこかで敬愛する兄上の声がする。

遠い昔の、この紅の邸で。あの頃、世界は兄上が居れば完璧だった。兄と…おまけ程度に可愛くない弟と。世界は完結していた。

『君は、極端から極端へと走りすぎるよ』

兄上が頭を撫ぜてくれる。

『人は君を誤解する。もっとも、君はそんなの構わないのかもしれないのだけど。構う時が来たら…誤解されたくないという人に出逢ったら、ちゃんと言葉をあげなさい』

自分は「そんな奴に出逢うことはないです」と言ったのかもしれない。

『君にとって言葉にすることは意味の無いことなのかもしれない。言葉になどしなくても君には全て解っていることなのかもしれない。でもね、全ての人間がそうじゃないんだよ。言葉をあげなさい。君が大事だと思う人に。上手く伝わらないこともあるかもしれない。やっぱり君は意味の無いことだと思うのかもしれない。それもね、勉強なんだよ。君が変われば、変わった分だけ世界は返してくれる』

兄上は少し、淋しそうに笑った。

『黎深…、君が人である限りね』

 

 

「…い、」

ふいに見下ろしていたその口が開く。うなされる様に。

「や…っ、れ、」

黎深は空を掻いたその手を思わず取った。

その手はもう自分と同じ大きさだった。大きな胼胝のできた、剣さえ握ったことの無い手。

『聞けません!絶対離しません!!』

この手は、自分が断ち切ろうとしたものを離さなかった。

「り、こうゆう」

その名を決して、離さなかった。

雨の中、抱えあげて運んだその身体は重かった。それは―――命の重み。

「…絳攸」

黎深に応えるようにうっすらとその目が開く。菫の色の。

『言葉をあげなさい』

兄上の声がする。兄上はいつだって正しい。

だから。

仕方ない。くれてやる。

「絳攸、大丈夫だ。お前は―――」

その言葉を待っていたかのように、絳攸は眠りに落ちていった。

 

こうしてこんな寝顔を見ていたことがもうずっと前にもあった、と黎深は思う。

あれからももうどれ程の時が経ったのか。

それでも、目の前には安心したような寝顔がある。あの頃と変わらず。

 

その日は、拾った子供が熱を出して寝込んでいた。

大人しく寝ていればいいものを、目を離すとすぐ起きだそうとする子供に手を焼いていた。

「御伽噺でもしてあげたらいかが?」

妻の提案に黎深は盛大に眉を顰めた。

「何故、私がそんなことを…」

「わたくしはお粥を作って参りますので。後を頼みますね」

そう言うと百合は、黎深が止めようとするのも構わず行ってしまった。

取り残された黎深は「もう平気だ」と無理に起き上がろうとする子供を一睨みした。視線だけで子供を無理矢理寝台へ縫い止めた黎深は、実に不本意そうに口を開く。

「…いいか、この私が有難くもお前に御伽噺を聞かせてやる。だから寝ろ。寝て聞いたことを忘れろ。いいか、さっさと寝て忘れろよ。さもなければお前を蜜柑と一緒に煮込んで狸の餌にしてやる」

黎深の意味不明な脅しに、純粋な子供は怯えて布団にもぐりこんだ。

黎深はその様子を見て、子供に気付かれないようそっと息を吐いた。

そして、語り出したのは自分が唯一叶うと信じている御伽噺。

「…虹の生まれる場所には、幸いがあるという」

優しい、幸いへと導く虹の物語。

 

「…そうして、みんな仲良く暮らしました、めでたしめでたし」

そう言い終えた時には、子供からは健やかな寝息が聞こえていた。

黎深が視線を感じて振り返れば、意味深な笑みを浮かべた妻の姿があった。

「何だ」

「いいえ、何でもありませんよ」

手ぶらで室に入ってくる百合に黎深は眉を寄せた。

「…お粥とやらはどうした」

「なくなりましたわ。不思議なことに」

「…そうか」

黎深はそれ以上追求するのは止めた。

「可愛い寝顔ですこと」

百合は子供の寝顔を覗き込んだ。

「阿呆面だがな」

「…貴方に言われたくないでしょうよ」

「おい」

顔を顰めた夫を無視して、百合は子供の額に手をのせた。

「でも、熱はまだ下がってないみたいですわね」

「…蜜柑でも焼くか」

黎深の呟きに百合は首を傾げた。

「蜜柑?葱なら庖厨にありますわ。首に巻くんでしょう?」

「葱を首なんかに巻いたら葱臭くなるだろうが」

「当たり前でしょ。葱なんですから」

「私は葱は嫌いだ」

「…貴方の好き嫌いなど聞いてないんですけど」

「いいから蜜柑を焼いて皮ごと食べさせろ」

「庖厨にあった蜜柑ならもうないですわ。わたくしが食べてしまいましたもの」

「何っ?」

「わたくし、蜜柑が好きですの」

「お前の好き嫌いなど聞いていない」

「まぁ!仮にも妻になんてことをおっしゃるの」

「仮ってなんだ。大体お前が、」

「ん、」

小さく身じろぐ声がして、黎深と百合はぴたっと口を閉ざした。

そろりと子供を窺えば、起きたわけではなさそうだ。

黎深はちろりと隣の百合を睨む。

「絳攸が起きるだろうが、静かにしろ」

そう言った黎深に百合は何故だか一瞬目を丸くした後、堪え切れずに笑い出した。

ころころと笑い続ける妻に黎深は不快な顔を浮かべた。

「何だ、一体」

「嫌だわ、黎深様。まるで父親みたい」

 

そう言って、ころころとその女は更に笑った。

他愛も無い、些細な、昔の記憶。

今ここにある寝顔は同じでも、ここにもう一人の姿は無い。

黎深は全く馬鹿ばかりだ、と息を吐く。

そして、仕方ないとばかりに腰を上げた。

 

 

 

百合は寝台に寄ると、そっと絳攸の寝顔を見詰た。

安らかな寝顔にほっと息を吐く。

「…絳攸、ごめんね」

大きなその瞳が揺れる。

「さようなら…」

優しく、愛おしそうにその頬を撫ぜると、百合はその室を後にした。

 

「出て行くのか」

背に声を掛けられ百合は立ち止まったが、振り返ったりはしなかった。

「…過労と心労ですって。お医者様によれば今は眠っているだけだから心配いらないそうよ」

百合は祈るように、一度目を閉じた。

「傍に居てあげて。あの子が目が覚めた時に、傍に」

「質問に答えろ。お前はどうするつもりだ」

百合はゆっくり瞼を持ち上げると、振り返って己の夫を見詰た。

「どこぞのよい家柄の女性を奥さんにもらって下さい。藍家のように沢山の女性を囲ってもいい。子供を生んで、跡取りを作るべきだわ」

もともと、自分達を「夫婦」と呼ぶには可笑しかったのだ。

絳攸ももう母親がいなければいけない子供ではない。

ここに自分はもういらない。

「探せば貴方のような珍獣でもいいと言ってくれる奇特な女性だっているんじゃない?」

百合は笑った。

「…さようなら」

透き通るような笑みを残して、百合は黎深に再び背を向けた。

「待て」

百合の足を止めたのは、意外な言葉だった。

「私から逃げられると思うなよ」

「え?」

「お前が私から逃げるというなら、どこまでも追いかけてやる」

「ちょっと、」

話が変な方向へ走りそうで百合は慌てる。

「紅家の力を使って、お前に関わる全ての人間を不幸にしてやる」

百合は耳を疑う。それはどんな悪役の台詞だ。

「…脅す気?」

「そうだ」

「威張られても…」

困ると百合は言いかけるが、その前に黎深が言葉を紡ぐ。

「それが嫌ならここにいろ」

「…本気で、言ってるの?」

「ああ、本気だ。お前が言う奇特な女などいらん。そんな女はお前一人で十分だ」

百合は止めた息を小さく吐き出した。

「…勝手に珍獣好きにしないで欲しいわ」

一瞬、心が揺れなかったわけではない。それでも、流されるわけにはいかないのだ。

「もう…家族ごっこはお仕舞いにしましょう」

揺らがない百合の瞳に、黎深はふむ、と腕を組んだ。

「仕方ない」

黎深は百合を通り過ぎて廊下を歩いていこうとする。

「何する気?」

絳攸が眠る室へ向けて歩き出す黎深を怪訝に思い、百合は訊いた。

「あれを叩き起こしてくる」

「えっ!?止めてよ!倒れたのだって確実に貴方の所為なんですから!」

百合は驚いて、黎深の後を追った。

「お前の所為でもある。叩き起こして、『百合は私とお前を捨てて、若い男と駆け落ちした』とでも言ってやる」

「な、」

「屹度、あれにはトラウマになるだろうな。女嫌いに拍車が掛かって男色家の道へ一直線だ。それか、いっそふっきれて女をとっかえひっかえ…」

「な、なんてことを言うのよ!」

絳攸に限って、そんな!と百合は青ざめた。

「それが嫌なら出ていくのは止めろ」

その余りの物言いに百合は…キレた。

「どうしてっ!貴方って人はそんな言い方しか出来ないのよ!!傍に居てほしいとか、お前が大事だからとか、愛しているからとか…」

百合は自分で言っていて恐くなった。この男がそんなことを言い出したらこの世の終わりだ。いや、それはもう紅黎深ではない。屹度、別の人間だ。

不意に言葉を切った百合に、黎深は偉そうに言う。

「だからさっきから頼んでいるだろうが」

「へ?」

百合は素っ頓狂な声をあげてしまった。

「お前が言ったんだろう?『命令』では人の心までは手に入れることが出来ない、と」

「…呆れた。それが人にものを頼む態度なの」

「ああ」

百合は何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。

何だっていつだって、この男は自分の意地をあっけなく潰す。

呆れるほど我侭で厚顔不遜。

「百合」

黎深は気高いまでに美しい、その花の名を呼ぶ。

「私は気まぐれであれを拾った。だが、それだけで今まであれを傍に置いて過ごしてきたわけではない」

呆れるほど我侭で厚顔不遜。けれどこの男の言葉はいつも自分の心に届く。

「お前も、もっと単純なことだろ」

そう、本当は単純な理由なのだ。


ただ、愛おしかった。


傍で笑っていたかった。家族として。

「私は愛など知らんし、兄上は素晴らしいし、秀麗は可愛い」

この男はその場しのぎの言葉など口にしない。

「しかし、私の妻はお前だけだし、息子は絳攸だけだ」

それが真実。

黎深は今まで、ごく一部の人間を除いて他人と向き合うことが無かった。その性格ゆえに、向き合う「努力」をしたことが無かった。

それでも、今自分に向けられる言葉はこの男なりの最上級の「努力」の証。

伊達に、十年以上共に過ごしてきたわけではない。それくらい解る。

相手に好かれ、必要とされたいのなら、己も好かれる「努力」をする必要がある。相手に求める以上のものを相手に与えなくては、世界は返してはくれない。

百合は、困ったなと思った。

黎深が変わるなら、自分も変わらなければいけない。

けれど、と。

百合は最後の望みのような気持ちで口を開く。

「駄目よ…もう、切れてしまったのだもの」

百合は何が、とは言わなかった。

黎深も何が、とは訊かなかった。代わりに、心底呆れた顔を寄越した。


「お前は馬鹿か。切れたなら繋げばいいだけの話だろう」


もう駄目だ、と百合は先ほどとは違った意味で思った。

 

 

 

『こうゆう』

声がする。遠く、近くで声がする。

湖面のようにゆらゆらと、近付いては離れてゆく。

『こうゆう』

呼んでいる、俺を。

あの人が、俺を呼んでいる。

「…ん」

紅の光を押し上げて瞼を開ければ、そこにいたのは。

「…れい、し、ん、さま」

いやに重く感じる口を開けば、その人は応えるように一度瞬きをした。

「やっと目を覚ましたか」

口調とは裏腹に、その顔は穏やかに見えた。

絳攸は横になったままだった身体を起こした。

ゆっくりと意識が覚醒していく。

「お、れは…」

「随分と勝手に偉そうなことを言っていたな」

「…す、」

絳攸は言いかけて、口を閉じた。

「いえ、謝りません。全部、本当のことですから」

絳攸は己の手を見詰た。

今まで思っていたことを、思っていただけで口には出さなかったことを、言葉にしたいと思った。

「…黎深様、本当は俺、嬉しかったんです。無理矢理捕まれた手が。嫌だと言いながら、どうせ飽きたらまた捨てられるだけだと思いながら、でも本当はすごく嬉しかったんです」

あの時、嫌だと思う以上に嬉しくて涙が零れた。

「だから、全部。手放したくは、ないです。…貴方に、何も返せないままなのが辛いですが」

真摯に紡ぐ絳攸の言葉を、黎深は一笑した。

「阿呆か。私は見ての通り見目もいい、頭もいい、金も有り余るほど有る、素敵な兄上もいるし、可愛い姪もいる。…まあまあな妻とそこそこな息子もいる。お前如きにしてもらうことなど何一つ無い」

絳攸は一瞬「え、」と思ったが、黎深の態度がいつも通りすぎて聞き間違いかと思う。

「いいか、私は甘ったれも馬鹿も嫌いだ。私に何かを期待するな」

「…はい」

「自分のことは自分で決めろ、絳攸」

「…え、黎深様?」

絳攸は耳を疑う。

その名を、もう一度呼ばれるとは思わなかった。

もう捨てなければいけないと思った。


「阿呆みたいな顔をするな。自分の名も忘れたか」


絳攸は目を疑う。

確かに、目の前の人は微笑んでいた。

それはいつもの何かを企んでいそうな不吉な笑みではなく。

いつもは扇子に隠されていた素顔。

「黎深様…俺は、李絳攸でいいんですか…?」

声が震える。押し寄せる何かに必死に耐えるように。

「それ以外の何者にもなれないと大見栄きった奴はどこのどいつだ。全く、紅黎深の息子ともあろう者が情けない」

「っ、黎深さ…ま」

「泣くなっ、みっともない!甘ったれも馬鹿も嫌いだと言っただろうがっ」

「す、みま、」

どうしたって声は咽びへと変わってしまう。

 

外には変わらず雨が降っている。

出逢った時と同じように、雨が降る。

しかし、二人を包む景色はあの頃と全く違う。

それは、共に過ごした時が変えたもの。

泣き続ける子供を呆れながら見守る父の目がそこにはあった。

 


包み込むのは、温かな紅の光。

幸いへと導く虹の、欠片。












*************

10話は黎深様スペシャルでお送りしました。
不器用親子、万歳。似た者夫婦、万歳。
「私から逃げられると思うなよ」は愛の言葉。
08/4/13

戻る/続く