天に架かる二つの虹⑧
ゆらゆらゆら、と。
揺れる、揺れる、揺れる。
揺れて、燃えて、染まって、流れて、落ちる。
赤く、紅く、あかく、あかく、あかく。
目の前は、ただ一色。
その『あか』が炎なのか血なのかは判らない。
どちらでもないような気もしたし、どちらでもあるような気もした。
『あか』の後にあったのは、飢えと死体と雨。
それが、自分の思い出せる限りの古い記憶。
あの人に出会うよりもっと古い記憶は、ただそれだけ。
そして。
訪れた、紅の光。
『お前が望むものをやろう』
「こー、兄さ、ま」
寝台に臥したまま世羅はとろんとした目を絳攸へと向けた。
「世羅姫、お加減はいかがですか?」
世羅が熱を出して寝込んでいると聞いて、絳攸は世羅の室を見舞った。
「熱も下がりましたし、もう大丈夫ですよ」そう言って、世羅に付き添っていた侍女は席を外した。
「先日、雨に濡れた所為かもしれませんね。すみませんでした」
謝る絳攸に世羅は首を傾げた。
それに曖昧に笑い返して、絳攸は窓を見た。
「今日も、雨ですね…」
雨が窓に当たり、水跡が奇妙な模様を作っていた。
「あ、め?」
「はい、朝から降ってますよ」
だからだろうか、あの夢を見たのは。過去の残像とでもいうべき夢。
絳攸は軽くこめかみを押さえた。あの夢を見た日は、頭が軋む。
だが、それもここ数年は見ることがなかった夢だ。
「あ、め、あめ、雨…」
己の気分とは対照的に、嬉しげに呟く世羅に絳攸は首を傾げる。そして「ああ、そうか」と思う。
「そういえば、世羅姫。雨の日の楽しみとは何だったのです?」
思い出し訊いた絳攸に、世羅は赤い頬で笑った。
「にじ、です」
「虹?」
「はい。雨がやんだらにじをさがすの、です」
「世羅姫は虹が好きなのですね」
こくりと、世羅が頷く。
「父上が、にじの生まれるばしょには、さいわいがある、と」
「幸い?」
「はい。父上がおとぎ話をしてくれたの、です」
幼い少女は嬉しそうに笑った。
玖琅と御伽噺がどうしても不似合いで、絳攸は意外に思った。
「…御伽噺」
言葉を口に中で転がしてみる。
御伽噺。虹の生まれる場所。
ふと、思い出す。
『虹の生まれる場所には、幸いがあるという』
それを言ったのは誰だっただろうか。
確か、三人の兄弟が虹の生まれる場所を目指すという…そんな話。
『そうして、みんな仲良く暮らしました、めでたしめでたし』
そんな御伽噺を。
世羅のように幼い頃、誰かに聞かされた…御伽噺。
それを言ったのは、誰だっただろうか。
「…こう兄様?」
思考に浸っていた絳攸は顔を上げた。
黒目がちな瞳が心配そうに絳攸を見上げていた。
「まだ、お腹いたい?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「でも」と世羅は口籠もった。
「ずっといたい顔、してる」
「世羅姫…」
「こう兄様いたいと、世羅もかなしい。世羅、にじ、さがすから…だから」
絳攸は小さな赤い頬に手を寄せた。
「世羅姫、」
絳攸が何事か言おうと口を開いた時、世羅の室にもう一人の人物が顔を出した。
「絳兄様、こちらにおいででしたか」
「伯邑様…」
話があると言う伯邑に続いて、絳攸は世羅の室を辞した。
「絳兄様はもうお聞きになったでしょうか?」
「何をですか?」
伯邑はそっと耳打ちをした。
「貴陽で―――」
絳攸の顔が一瞬で強張る。
「っ!」
絳攸が最後まで聞かずに駆け出そうとするのを、伯邑は袖を引いて止めた。
「伯邑様!?何をっ」
絳攸は慌てて、袖を引いた少年の顔を見た。そして息を呑んだ。
少年はひたりと自分を見詰ていた。その瞳は、あの人と同じ色だった。
「絳兄様。絳兄様は主上が『好きだった』んですよね?『それだけでは駄目だった』んですよね?」
それを言ったのは他ならぬ自分。
そう、それだけでは駄目なのだ。駄目だと、自分に言い聞かせて。
それでも。
「すみませんっ伯邑様!」
今、自分を走らせようとするのはただ一つの想い。
伯邑の手を無理矢理振りほどいて、絳攸はある一室へ駆け込んだ。
「玖琅様っ!」
玖琅は机案に座って書き物をしていた。突然現れた絳攸に玖琅はきつく眉を顰めたが、絳攸は構っていられなかった。
「主上が、王が何者かに命を狙われたというのは本当ですかっ!?怪我を負ったとっ!どうなのですか!?」
礼儀や作法の一切も忘れて、絳攸は玖琅に掴み掛かりそうになった。
「絳攸」
「玖琅様っお願いです!!主上はっ!?無事なのですか!?」
「絳攸!落ち着け」
酷く静かな低い声が絳攸の鼓膜を侵す。肩で息をしながら、絳攸は数度視線を彷徨わせた。
「…失礼を。申し訳ありません」
自分の足元へと視線を落とした絳攸に、玖琅は一つ息を吐いた。
「誰に聞いたかは知らんが、私はそのような報告は受けていない」
絳攸の瞳が安堵に染まる。しかし続く玖琅の「だが」という言葉に再び影が落ちる。
「確かに、王位やなにやで貴陽がきな臭いのは本当だ。近々謀反が起こるのでは、という読みもある」
「…謀反」
色を失った唇が小さく震える。
「紅家は、」
「今は動く必要はない。下手に手を出して要らぬ火傷を負うつもりもない。他の彩六家、特に藍家の動きも気になるがな。もし戦火が大きくなるようなら、紅家筋の官吏は貴陽から引き上げさせねばならん」
絳攸は唐突に理解した。
茶家の若き当主は劉輝の前に膝を折った。従うと言った。忠節の剣、忠諫の盾をもって仕えると。
玖琅は、黎深は、違う。
そして、自分は…。
「…玖琅様は」
口を吐いたのは自分でも意外な言葉だった。
「虹の生まれる場所を、ご存知ですか?」
「絳攸?」
「…私は、」
絳攸は口を噤んだ。
「…失礼を致しました」
深く頭を下げると絳攸は室を後にした。
玖琅は深く椅子に座り直すと、大きく息を吐き出した。
そして再び視線を扉へと向ける。
「伯邑、お前か?絳攸に確証の無いことを言ったのは」
「申し訳ありません、父上」
「謝るのは私にではないだろう」
「…はい」
「伯邑」
室を下がろうとした息子に玖琅は声を掛けた。
「何でしょうか?」
「お前は御伽噺を信じるか?」
伯邑は軽く首を傾けた。
「いいえ?」
「…そうか」
玖琅は視線を床に転じ、軽く手を振って伯邑を下がらせた。
虹の生まれる場所を…知っている。
喩え、もう辿り着けなくても。
永遠に失ってしまうわけにはいかないのだ。
それだけは、どうしても出来ない。
夢だとていい。失ってしまえば、夢見たことさえ忘れてしまう気がした。
あの場所を、失いたくない。
どんなに自分に言い聞かせても、自分を誤魔化しても。
その想いを、願いを、捨てることなんて到底出来ない。
「楸瑛っ!」
気付けば雨の中、叫んでいた。
もう居ないかもしれない。帰ったならそれでいい。しかし、まだ居るなら。
「楸瑛、楸瑛、楸瑛、楸瑛っっ!!!」
自分の声だけが山に木霊する。
どうか、と思う。
どうか、どうか、助けてくれ。
彼を、あの王を、一人死なせるわけにはいかない。
「楸瑛…!」
「呼んだ?」
安穏と声を発した男はすぐ背後に居た。
「…楸瑛」
「ん?」
絳攸はその男に掴みかかった。
「楸瑛!主上が!!」
絳攸はひたすらにしゃべった。事が起きてからでは遅いのだと、一刻も早く主上の下に帰らなければ手遅れになると。
「戻らないよ」
話を聞き終えた楸瑛は信じられない言葉を口にした。
絳攸には楸瑛の言った意味が理解出来ない。
「君が一緒に戻ってくれるまで、私は貴陽へは帰らない」
「な、何言ってんだ、俺の話が…」
「主上の命令は、『李絳攸を連れ戻す』こと」
「お前のやることはそんなことじゃないだろうがっ!主上を守ることがお前の仕事だろう!!その為にっお前は戻って来たんじゃないのかよ!?」
激昂する絳攸とは対照的に、楸瑛はさらりと言う。
「今の私は羽林軍の将軍ではないんだ」
絳攸の顔が歪む。
「今の私は、今の自分が出来ることをするだけだ」
「…そんなの、」
「君は何をそんなに怯えているの?」
絳攸は怪訝そうに顔を上げる。
「紅家も藍家も王家を利用してきたから今まで続いてきた。今の王に利用価値がなくなれば、使い捨てるだけだ。使い捨て、利用価値のある新しい者を玉座に据える。君が紅家の人間になるってそういうことだよ」
淡々とかつて藍の名に属していた、その男は言う。
絳攸は信じられないものを見るかのような顔をしていた。
雨が降る。次から次へと。
雨の音に支配された世界で「ねぇ、絳攸」と男は言う。
「君が外朝で歯を食いしばってきたのは誰の為?」
絳攸は顔を顰めた。
絳攸の答えを聞かず、楸瑛の言葉は続く。
「黎深殿の為?」
絳攸は思う。それは違う、と。
ただ、傍に居て。貰ったものを一つでも返したい。
それを望んだのは自分だけで、その願いは結局は自分の為でしかない。あの人は自分に何かを求めたことなんてない。
「君にとって紅黎深って何?」
答えられない絳攸に楸瑛は言う。
「そんなに好きなら抱いてもらえば?」
揶揄さえ感じられないその言葉を理解するのに数拍。本気で言っているのかと思えば、怒りで目の前が赤く染まる。
「黎深様を侮辱するなっ!」
絳攸は楸瑛に殴りかかった。
「していないよ。侮辱っていうなら、むしろ君の方じゃないのかい」
その拳を顔の横で受け止めながら、楸瑛は僅かに眉を顰めた。
「何だとっ」
「君は黎深殿と百合姫が何故、君を拾って育ててきたと思っているんだい?」
「それは…」
「それは?」
「邵可様が静蘭を拾ったから…それで、黎深様も」
そう、ただの気まぐれだった。
『敬愛する兄上が先頃一人の少年を拾ったそうでな。私もそのご苦労を疑似体験すべく適当に誰か拾って育ててみることにした』
『紅家に対する当て付けだったわ』
ただの気まぐれと当て付け。自分とあの人達を繋ぐものは。
「君が言うそれは切っ掛けだよ」
楸瑛は静かに言い切った。
「本当にそれだけの為に、今まで…十年以上も君達は過ごして来たの?共に、家族として」
絳攸には楸瑛の言いたいことが解らない。じりじりと何かが押し寄せてくるようだった。
「本当はもっと単純な理由なんだよ。屹度」
楸瑛の声は優しさを帯びる。「私はね」と、何かを懐かしむように。
「あんな兄弟だけど、血が繋がってるからって突き放せない部分もあった。赤の他人と十数年も暮らしていくなんてそれだけですごいことだと思うんだ」
楸瑛の声色に反するように、絳攸の心は荒れていった。
「君は信じていないんだよ。黎深殿と百合姫と過ごした時を。そんなものなの?君達の十年って?それは何よりの侮辱じゃないの?」
「…黙れ」
絳攸は低く唸る。
「お前にっ」
こんなこと言いたいわけじゃない。こんなこと言ったって無意味だ。
解っている、解っている。
それなのに。
「お前に何が解るっ!!!お前なんかに何が解るっ!藍家のお前にっ!!」
言葉は堰を切ったように止まらない。
「藍家直系の、親も兄弟も皆に囲まれて、愛されて、多くの人間にかしずかれて、羨望の目で見られてっ!そんなお前に俺の何が解るというんだ!?」
そこまで一気にぶちまけて、絳攸は我に返る。
惨めだった。ずっと対等だと思っていた相手に、こんなことを言う自分が酷く惨めだった。
「…そうだね」
自己嫌悪に陥る絳攸の頭上に雨粒と一緒に、言葉が降ってきた。
「解らないよ。君が言ったんだ、私と君は違う。君の人生は君の物であって私の物ではないからね」
絳攸は当たり前だと、思った。
頭が軋む。心が軋む。このまま消えてしまいたいと思った。
「だけど」
ふと、腕に暖かさを感じた。
それが楸瑛の手なのだと気付くのに、しばらく時間がかかった。
「解ることもあるよ。君がずっと一人で頑張ってきたのを、私は知っている。見てきたんだ、ずっと」
絳攸はどこか遠くでその言葉を聞いていた。
「君が黎深殿の恩に報いようと、少しでも何かのお役に立とうと必死だったのを知っている。君にとって紅黎深だけが絶対の存在だと。君の存在はあの方があって初めて成り立つんだって」
この、時に不安定な年下の友人の近くにあって、何度となく思い知っただろう。硝子玉のような瞳にはそれ以外には生きる意味がないのだと。
でも。
「もういいんじゃないかな」
「もう、いい?」
自分を見上げたその瞳はやはり硝子玉のようだった。
「うん、もういいんだ。絳攸、囚われるのと大切に思うのは違うよ」
捨てられた絳攸にとって拾い主の黎深だけが世界なのだ。
それは、楸瑛にも覚えがある。
確かに兄達だけが自分の世界だった時期がある。何よりも兄達に「役立たず」の烙印を押されることを恐れていた。
「私はね、絳攸。自分から『藍』を取ったら何も残りはしないと、思っていたんだ。もう立てないと思っていた」
でも、今は。その兄達に勘当された、今は。
「でもね。そんな私でも、こうして立っている」
自分の人生丸ごとを欲しい、と言ってくれる人が居る。
あの兄達の弟なのだ、と胸を張って言える自分が居る。
一度彼に背を向けた自分が言うのは間違っているのかもしれない。
それでも。
それでも、本気で悩んで迷って決めたことに後悔はしていないから。悩んで、立ち止まった時間でさえ、無駄ではなかったと思えるから。
届いて欲しい。誰より、目の前の彼に。
「全てを捨てた訳じゃないんだ。大切なものはちゃんと持っている」
悩んだことも逃げ出したことも傷ついたことも傷つけたことも。
全部、全部。
今の自分を形作るもの。
あの鬼畜な兄達と変人の弟と卵焼きみたいな義姉と。
全部、全部。
天然な王と人間離れした大将軍達と羽林軍の皆と。
そして目の前の彼と。
全部、全部。
藍の名を名乗れなくても、羽林軍の将軍という地位がなくても。
「大切なものは全部、持っている」
この手の中に。
それに気付いた自分だから。やっと気付けた自分だから。
『一切の手抜きも遠慮もしない』
それは何も劉輝に対してだけではない。
「本当はもう、自分で選んでいるんだろ?だから辛いんだ。それでも動けないから辛いんだ」
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ヘタレてない楸瑛ってもしかして初めてなんじゃ、と思って震えております。
楸瑛が藍州に発つ時の双花が余りに余所余所しすぎたので、偶にはおもいっきりぶつかるのもありかと…思ったんですが、絳攸が弱り過ぎてて倒れそうです…ガンバレ。
虹の御伽噺はザビの全サ冊子の小説『虹の生まれる場所に』と外伝の『お伽噺のはじまりは』に出てきたお話を合わせてみました。
08/3/24