天に架かる二つの虹⑦











「悠舜、お前何を考えている」

くぐもった声がし、悠舜は椅子に座ったまま振り返った。

「鳳珠…」

相変わらず艶やかな黒髪を結わえず、その美貌の顔を仮面で隠した友人へと悠舜は顔を向ける。

黄奇人をその本名で呼ぶ者は極めて少ない。

決して短くない付き合いの悠舜には、この友人が仮面の下で浮かべているであろう表情が手に取るように解った。屹度、苦い顔をしているだろう。それが自分を心配してのものであることも悠舜は解っていた。

読んでいた貴族録を閉じると、悠舜は努めて明るい声を出した。

「少し、気になったことがありましてね。…鳳珠、貴方は王位継承権について考えたことはありませんか?」

「今更だな」

奇人の声は重い。

「はい。今更です」

「清苑公子は流罪となった茶州で死んだというのが通説だ。仮に生きていたとしても、公子の中で誰よりも賢かったとされる彼の公子が今更表舞台に舞い戻るとは思えん。その気があるなら二年前にとっくにやってるだろう」

「そうですね。でも清苑公子以外にも…」

「旺季か」

「もう一人」

「何?」

悠舜はゆったりと口を開いた。

「紫門四家の梗家」

「馬鹿な。梗家は先王によって断絶した筈だ」

「ええ。でも仮にその生き残りが居たら…」

奇人は仮面の下で眉を顰めた。

「悠舜。そんなことに首をつっこむな」

「心配いりませんよ、鳳珠。これはただの私の憶測に過ぎませんし、他言するつもりもありません」

「だったら、あの馬鹿のことも忘れろ。勝手に居なくなった者のことなど放っておけ」

踵を返しかけた奇人に、悠舜は苦く笑った。

「その仮面…黎深が居なくなってから毎日同じですね」

「代えるのが面倒なだけだ」

そう言って完全に背を向けたもう一人の友人に、悠舜は言った。

「ですが、実は百合姫にお願いされてしまったんですよねぇ」

ピタリと奇人の足が止まった。

「…何だと」

その余りに解り易すぎる反応に悠舜は一瞬不安になった。もしや、と思う。

「…鳳珠。もしかして貴方、今でも百合姫のこと…」

「馬鹿なことを言うな。とっくに吹っ切れている。未練など無い」

言い切った後、その声が小さく「それでも」と言った。

「彼女の願うことがあるなら叶えてやりたい。幸せで居て欲しい。…そう思うだけだ」

奇人は思い出す。

艶やかな花の名を持つ女性。あの女性は「ご冗談を」と、笑った。

『その顔の隣で奥さんなんかやってられません』

どれ程の痛みを伴ったのだろう。

その言葉よりも、その言葉を言わせてしまった事実に。

彼女は屹度、自分がどんな顔でそれを言ったかなんて知らない。

自分は彼女にそんな顔をさせることしか出来なかった。

けれど、あの男は…紅黎深は違った。

それに気付いてから、自分は仮面を被り続けている。

そして。

あの夫婦は揃って、自分に仮面を贈ってくるようになった。それが彼らなりの気遣いだと気付いていない訳ではない。

奇人はゆっくりと息を吐き出した。

「尤も、あんな男の妻というだけで幸せとは程遠そうだがな」

その言葉に悠舜はくすりと笑った。

「苦労はしそうですよね」

そう言いつつも悠舜には解っていた。屹度、鳳珠も気付いているだろう。

紅黎深という人物の妻になどなれる女性など、百合姫しかいなかったということを。

悠舜は自分に会いに来た時の百合の顔を思い出し、気付いていないのは本人だけかもしれないと思った。

「…それで。百合姫は何を」

真摯に問う奇人に悠舜は顔を綻ばせた。

その優しさが、黄鳳珠という人物の生来の性質なのだ。

「百合姫のお願いは二つです。それは―――」

 

 

 

「ゆ、り、様?」

絳攸の顔から色が抜け落ちていく。百合はその様子を瞬きもせずに見詰た。

余計追い詰めてどうするのだという思いと、これが切っ掛けになればいいという思いがあった。

 

自分が黎深に嫁ぐ前、色々と問題が多かった当主に紅家は頭をかかえていたらしい。その当主が妻を娶る気になったとあって紅家は諸手を挙げて喜んだ。

そして、只でさえ直系の少ない紅家のこと。直ぐに跡取りを期待された。

『紅家当主に嫁いだからには、そのお役目を果たされませ』

その言葉を聞くたび、何かが欠けていく気がした。今まで自分が作り上げてきたものが剥がされていくようだった。

紅家に嫁いで一年くらいだろうか。限界がきたのは。

完璧だった筈の自分が崩れていく。

切っ掛けは何でもよかった。

誰でもよかった。

そして。

あの日、黎深が一人の子供を拾って来た。

 

「絳攸」と、あの日から幾度となく口にした名を、百合は呼んだ。

「結局、わたくしは…いえ、わたくしもあの人も自分の都合で貴方を拾い、育ててきただけ」

完璧でない自分が作り上げた家族もやはり完璧ではないのだ。壊れるなら粉々に壊れてしまえばいい。

それで、この子が前に進むことが出来るのなら。

「貴方ももっと自分のことを考えていいのよ。わたくし達に合わせてここにいる必要はないの。ここよりももっと他に行きたいところがあれば行けばいいのよ」

「ゆ、百合様…それは、」

絳攸はそれ以上何も言えなかった。

沈黙が降りた室に、ただ雨の音だけが聴こえた。

 

それから数日が過ぎても、百合が絳攸の室を再び訪ねることはなかった。

 

 

 

頭に靄がかかったようだと、絳攸は思った。

何もしたくない。誰にも会いたくない。

邸に居たくなくて、邸を抜け出した。

黎深様は室から出てこない。百合様もあれから会っていない。

何かが壊れてしまったのだろうか。

…壊れてしまったなら、それは屹度自分の所為なのだろう。

『ここよりももっと他に行きたいところがあれば行けばいいのよ』

思いつく場所は…一つしかなかった。

けれど。

自分にはそれを口にする資格などないのだ。

何もかも放り出して、考えることも向き合うことからも逃げ出して。そこに行ってどうする。何かが解決するのか。

 

結局、自分の居場所などどこにも無いのかもしれないと、思った。

 

歩いて、歩いて、足を止めた先に人影があった。

「…お前、まだ居たのか」

その男は木の幹に身体を預けて座っていた。

「だから言っただろ?君を迎えに来たって」

その暢気に聞こえる台詞に、絳攸はいらいらと言い放つ。

「だからっ俺は帰れと言った」

楸瑛は立ち上がると苦く笑った。

「この前も思ったけど、顔色悪いね。ちゃんと食べてる?」

絳攸は自分の額に伸ばされた手を振り払った。

「人の心配してる場合かっ!大体っお前がいつまでもこんなところに居れる訳ないだろ!?」

早く、と思う。一日も早く、帰れ。

帰ってくれ、と懇願するように思う。

この男はこんなところに居ていい筈はないのだ。この男が居るべき場所はこんなところではないのだ。

「心配してくれるの?」

「誰もお前の心配なんてしていない」

「主上の、でしょ?君が心配してるのは」

絳攸の眉がピクっと動く。

「あとは、吏部?大変だろうねぇ。尚書、侍郎共に不在じゃ」

「俺は、」

ふいに切った言葉を楸瑛が引き継ぐ。

「もう関係ないって?」

「…俺は」

ゆっくりと息を吐く。

「言った筈だ。あいつの傍に居てやってくれ、と」

僅かな沈黙の後、静かな声が響く。

「ねぇ、絳攸」

その呼び方は、男の口癖のようなものだった。

「私は君の味方だよ」

ひたりと自分を見据える鉄色の瞳。

「でもね」

その瞳に揶揄の色は無い。

「それが本心でない限り、叶えてあげることは出来ない」

「何を、」と言葉を詰まらせる絳攸に男は続ける。「ねぇ、」と。

「絳攸、『何もかもすべてうまくいく方法』があるって言ったら君は信じるかい?」

「…そんなものは、ない」

それは搾り出すような声。

「うん。私もそれを訊かれた時そう思った」

菫色の瞳がもの言いたげに、揺れる。

それを受ける鉄色の瞳には一点の曇りも無い。

今まで一度も信じたことはなかった。そう、ただの一度も。今までは。

でも。

「でも、今は違う」

菫色の瞳と鉄色の瞳が交差する。

 

沈黙を破ったのは、遠くで絳攸を呼ぶ声だった。

絳攸は重い口を何とか開く。

「楸瑛」

再び遠くで呼ぶ声がする。

「もう俺に構うな。お前がしなきゃいけないのは、こんなことじゃないだろ。お前が選んだものを俺は選べなかった。…楽しかった。でも、それだけではだめだったんだ」

そして、絳攸は声がする方へと向き直った。

「それでも、私は待ってる」

その背中に声が掛かる。絳攸は振り返らない。

「主上も」

一歩、足を踏み出す。

「屹度、多くの人が」

二歩目も、立ち止まらない。

「君を待ってる」

 

 

しばらくすると、絳攸が去った方向から人がやってきた。

それは絳攸ではない。紅家が差し向けた影でもない。もっと小さい。

その人物は楸瑛に問う。

「旅の方ですか?」

「ええ、まぁ」

楸瑛は緩く笑った。

「道にお迷いとか?」

「いえ、人を待っているんです」

「…来るんですか?」

「さぁ、どうでしょう」

「来ないかもしれませんね」

少年はすっと楸瑛の背面を指差した。

「貴陽はあちらです、藍楸瑛殿」

紅蓮の血を引く少年は無邪気に笑って見せた。

「それは親切にどうも有難う。紅伯邑君」

「あまり、しつこいと嫌われてしまいますよ?」

「そうだね。でも私のしつこさは彩雲国一だと自負しているからねぇ」

「なるほど」

そう言うと少年はくるりと楸瑛に背を向けた。

来た道を戻って行く背を見ながら、楸瑛は思う。

嫌な餓鬼だな。まぁ、自分の子供時代も似たようなものなのだろうが。

所詮藍家と紅家など同じ穴の狢だ。また、王家も然り。

劉輝があそこまで真っ直ぐに育ったのが不思議なくらいだ。

楸瑛とて劉輝が心配でないわけはない。

それでも。王としての命を受けたからには手ぶらでは帰れない。

何もかもすべてうまくいく方法。それは確かにある。そう信じている。

けれど。

時間がないのも事実だった。

 

 

「伯邑様」

絳攸は伯邑の姿を確かめると、ほっと安堵の息を吐いた。

「絳兄様。邸に姿が見えないので探しました」

「すみません。伯邑様の声が聴こえたのですが…会えて良かったです」

声がする方に向かった筈なのに、そこに伯邑の姿が無く焦った。

「絳兄様、今夜も勉強を見て下さいますか?」

見上げてくる少年に絳攸は笑顔を作った。

「いいですよ。伯邑様は本当に勉強熱心でいらっしゃいますね」

「絳兄様が紅家の当主となられたら、少しでもお役に立てるようになりたいですから」

言葉を失った年上の義理の従兄に、伯邑は首を傾げて促した。

「帰りましょう、絳兄様」

 

絳攸は、「嗚呼…」と思う。

この少年の願いは、自分と同じだった。

自分も伯邑と同じ年の頃、そう思っていた。その想いだけで、寝る間も削って机案に向かっていたのだ。

『気まぐれで拾われて、たとえもう一度捨てられたとしても、構わなかった。それまでは、そばにいて、少しでも、何かの、お役に…』

それは今でも変わらない。

それなのに。

泣きたい気持ちになるのは何故だ。

何を選んでも、何を捨てても、この胸は痛むというのだろうか。

 

だったら…心などなくなってしまえばいいのに。













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だって伯邑は黎深様の実の甥っ子なんだよ。
絳攸がまだぐるぐる迷子です。むしろ元将軍の登場で頑なになった気がしないでもない…え、ダメじゃん!
5月の新刊発売までに時間がないのも、事実だ。…なんとか完結させなくてはっ。
08/3/9

戻る/続く