天に架かる二つの虹⑥
その男は絳攸と世羅を順に見た後、不思議そうな顔をして自分を見詰ている少女に笑顔を作った。
「初めまして、紅家の小さな姫君」
膝を折り、世羅と目線を合わせて男は名乗った。
「貴陽にて主上に御仕えしております、楸瑛と申します」
絳攸にしたら胡散臭いとしか映らない笑顔でも、初対面の世羅には効果があったのか、世羅はおずおずといった様子で口を開いた。
「…はじめまして。世羅ともうします」
世羅は「良く出来ました」とばかりの顔を浮かべている男と、傍らの絳攸の二人を見比べた。
「こう兄様のお友達ですか?」
それに答えたのは絳攸だった。
「違います」
「おやおや、はっきり言うねぇ君」
おどけた様子の男に、絳攸は低く唸った。
「…楸瑛」
咄嗟に「何しに来た」と言い掛けて、絳攸は慌てて口を噤んだ。
それを訊いてどうする。
本能がそれを訊いてはいけないと告げる。
しかし。
「何しに来た…って訊かないんだ?」
こちらの思考を読み取ったかのように、男は問い掛ける。
聞きたくない。
聞きたくないと、思っているのに。男はどこか誇らしげに口を開いた。
「劉輝様の命で君を迎えに来たんだよ」
絳攸は唇を強く噛み締めた。男の顔を見ていられなくて、視線を地面に移した。
絳攸は言う言葉を一つしか持たなかった。
「……帰、れ」
これ以上、迷わせないで欲しい。
俺は、お前とは違うんだ。あれだけ大事に思っていた「藍」の名を名乗れなくても、誇らしげな顔が出来るお前とは。
絳攸は楸瑛が藍州で捨ててきたものに気付いた。
いや、本当は貴陽の自邸で会ったときに既に気付いていた。
男はずっと身に着けていた準禁色の藍色の衣を纏っていなかった。将軍職を示す組紐も。
ただ一振りの剣だけを差していた。
二輪の菖蒲の花が鍔に彫られた剣だけを、その身に帯びていた。
「帰れ…」
絳攸は同じ言葉を再度祈るような気持ちで告げて、男の顔を見ないままに傍らの世羅に目を向けた。
「世羅姫、邸に帰りましょう」
「こう、兄さ、ま?」
戸惑った様子の世羅の手を掴むと絳攸は振り返ること無く、来た道を戻り始めた。
「…こう兄様。…あ、」
ポツリと何かが空から落ちてきた。
直ぐに、空が湛え切れないとばかりに雫を降らせ始める。
絳攸は世羅の手を引いたまま走り始めた。
走っても、走っても、雨脚が追いかけてきた。
「うーん、振られてしまったか」
楸瑛はしっとりと濡れた前髪を掻き上げた。
絳攸が去っていった方を見詰め、切なげな溜息を一つ。
「ま、相手は意地っ張りな姫君だからね。…さて」
一人ごちた後、その手を腰に帯びる剣へと伸ばした。
「今日は何人かな」
突き刺さる殺気に、男は野生の獣のようなしなやかさで笑った。
「今日も引き篭り?」
ギィと重い音を立てて扉を開け、百合は室へと入って来た。
「いい天気なんですから、偶には外の空気でも吸ったらいかが?」
「…今日は雨だ」
むっつりと返した夫にも、百合は変わらず笑みを湛えていた。
「ええ、知ってます。頭を冷やすには丁度いいでしょ?」
黎深はちらりと妻を見やった。
「……何が言いたい?」
「いつまでこうしているつもりなのかしら、と」
黎深は答えなかった。
「黎深様…いい加減になさいませ」
百合の声が室に静かに響く。
「紅州に帰ってきても、貴方は何一つ変わってやしない。当主としての仕事をするでもなく。逃げてばかり」
百合は知っていた。
養い子の深憂の原因が何か。そして、この紅州に誰が来ているのか。
もしかしたら、黎深のたった一言で全てが解決するのかもしれない。
しかし、この男はそれをしない。いつも解っていて、それでも何もしない。
百合はいつも思う。解っていても何もしないのだったら、何も知らないのと同じだ。
「そんなに気に入らない?悠舜様に自分を選んでもらえなかったことが?義兄上に紅州へ帰れと突き放されたことが?絳攸が…本当は貴陽に帰りたいって望んでいることが?」
黎深はやはり答えなかった。
もし今、絳攸が「貴陽に帰って、今まで通り主上に仕えたい」と言い出しても黎深は「勝手にしろ」と言うだろう。そう、突き放すだろう。
そして、黎深の手には何も残らない。
「もう気付くべきですわ。義兄上も悠舜様も絳攸も貴方のものではありません。『命令』では人の心までは手に入れることが出来ない」
なまじ頭が良すぎるばかりに、人の十歩先どころか百歩先まで見通せてしまうばかりに、紅家という名門中の名門の直系に生まれたばかりに。
彼は何の努力をしなくても、自然と色んなものが手に入る。
けれど、本当に欲しいものは彼の手には残らないのだ。
「己の思い通りにいかないことなどこの世にごまんとありますわ」
百合は目を閉じた。
自分は…子が欲しかった。
子の出来ぬ体だと知った時、自分は一生独りで生きてゆくつもりだった。
誰も好きになどならない。その人の子を産みたいだなんて思いたくなかった。降る様な縁談を蹴り飛ばしてきた。
一人、たった一人。心が揺れた人がいた。…その人の子を産んでみたいと思えるような。
優しい人だった。誰より綺麗な心を持った、優しい人だった。
だから、一番傷つける言葉を態と選んだ。
「貴方が変わらなければ、みんな…貴方から離れていく」
その「みんな」には百合自身も含まれていた。
「お前は」
背を向けた百合に、声が掛かった。
「『あれ』にだけは優しいのだな」
「あら、焼餅?当然ですわ。母親ですもの」
「母親か…」
黎深が浮かべたのは、くっと馬鹿にしたかのような笑いだった。
百合は綺麗な眉を顰めた。
「お前がそうやって執着しているものは何だ?『あれ』か?それとも『母親』でいる自分か?」
百合はそれには答えず、扉を閉めた。
百合が去った室からは、何かが壊れて割れる音がした。
もう駄目かもしれない、と百合は思う。今まで無理矢理繋ぎ止めていた何かが切れてしまうのではないか、と思った。
百合は軽く頭を振った後、廊下を歩き出した。
その前にふと、人影が現れた。
「百合さ、ま…」
世羅の手を取ったまま、ずぶ濡れの絳攸が立ち尽くしていた。
世羅を家人に任せ、絳攸と百合は絳攸に宛がわれた室に居た。
着替えを済ませた絳攸だったが、髪はまだ濡れたままで雫が床へと落ちた。
百合は苦笑いを浮かべて、近くの椅子の背に掛けられたままの布に手を伸ばした。
「ちゃんと拭かないと」
腕を伸ばして、見る角度によって色が変わる色素の薄い髪を拭いてゆく。
絳攸は俯いたまま「すみません」と小さく呟いたものの、大人しく百合に髪を拭かれていた。
この様子では貴陽からの使者にもう会ったのかもしれない。
そして気付いたのだろう。己の真の望みに。
百合は絳攸を拾ったのが自分だったら良かったのに、と思った。
今までそれを思ったこと何度かあったが、これまでで一番それを願った。
絳攸にとって黎深の存在は余りに、大きかった。
絳攸からは黎深の手を離すことは出来ない。だったら手を離すべきなのは、黎深だ。捨てるのではなく、愛情を持って解放してやれるのは黎深にしか出来ないこと。
それなのに、と。
百合は歯がゆくて、歯がゆくて、悔しかった。
八つ当たりは百も承知で、夫に嫌味を言いに行った。尤も、反撃も受けた訳だが。
「百合さ、ま…」
言葉が落ちてきた。
「なぁに?」
「…すみません」
養い子は先程と同じ言葉を紡いだ。
「いいのよ」
そう答えると、絳攸は緩く首を振った。
「お、…私、は百合様に嘘を…」
「いいのよ」
百合は再び同じ言葉をあげた。
「絳攸は覚えているかしら?うちに貴方が初めて来た時も、貴方は濡れていたわ。雨は嫌いだけど、絳攸と初めて会えた日も雨だったから本当は好きよ。ほら、わたくしも貴方に嘘を言っていたわ。許してくれる?」
悪戯っぽく言う百合に、絳攸は泣きそうな瞳で笑った。
「百合様は…」
絳攸は組んだ手を僅かに動かしていた。落ち着かない時の癖だ。
百合は微笑んで先を促した。
「なぁに?」
「百合様は…どうして私を育てようと思ったのですか?」
百合は僅かに瞠目した。
「黎深様がどうして拾って下さったかはお聞きしましたけど…」
夫が勝手に連れてきた子供を育てなければいけない理由などない。妻が反対すれば黎深だって考え直したかもしれない。
なのに、百合は一体どうして得体の知れない子供を受け入れる気になどなったのだろうか。
絳攸にはそれがずっと不思議だった。
「…それは、」
百合は一度開いた口を閉じ、用意してあった答えを言うのを止めた。何より嘘が嫌いなこの子に嘘を吐きたくなかった。
「…わたくしは『母』になりたかったの」
執着したのは『母』でいる自分。
『母』で居ることで必死に守ってきたのだ。完璧な自分を。
『子が出来ない』
それを口にしてしまえば、認めることになるから。
今まで作り上げてきた完璧な己を、欠陥がある人間と認めたかのように。
けれど。
「でも、本当は…それだけはなかったの。…わたくしが、貴方を育てようと思ったのは」
その真実がこの子を傷つけることになっても。
「紅家に対する当て付けだったわ」
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「さらば~」と違い「天に~」は絳攸一人の問題ではなくて、紅親子3人の試練の時だと思って書いてます。
秀麗の話を入れたら話が逸れたので、カット。…捏造百合姫の話を入れた時点で話が逸れるのは百も承知ですよ
08/2/17