天に架かる二つの虹⑤











「何を熱心に見入っているかと思えば」

その声に清雅は広げていた料紙から顔を上げた。

「今更、辞めた人間のことを調べてるんですか?余程気になるみたいですね」

その料紙を覗き込むようにして男は含み笑いをした。それを清雅は「まあな」と軽く流した。

父親の名も、母親の名も記録にある。兄弟は彼を含めて五人だ。もっとも両親共に家族は八年前の王位争いの時に全員死亡している。

生活困窮の為に捨てられ、貴陽の街で彷徨っていたところを拾わる。以後『李絳攸』と名乗る。

…それがあの男が紅黎深に拾われるまでの記録だ。

御使台で調べてもこれ以上のことは解らない。

いや、これ以上のことなど記録に残っている方が珍しい。

しかし、何度見ても違和感を覚える。

何故だ…?

しかし、清雅は直ぐに考えても時間の無駄だと悟る。

あの男はもう居ない。

「…もう少し粘るかと思ったが、詰まらないものだな。所詮それまでの男だったわけだ」

「そうですね」

男の返答に、清雅はふんと鼻を鳴らして立ち上がった。

「行ってしまうんですか?」

「生憎忙しいんでな」

「それは残念」

 

清雅の気配が完全に遠ざかったことを確認すると、男は口元に刷いた笑みを止めて真顔に戻った。その背に控えめな声が掛かる。

「楊修様…」

呼ばれた男は振り返り、後輩の官吏をとっくりと眺めた。

「尚書令様より文を預かっております」

男はくつりと笑った。

受け取っただけで、中身は未だ見ない。

「尚書令まで引っ張り出しますか。さて、大変だ」

「楊修様」

珀明は物言いたげな視線を男へと向けた。

「侍郎、と呼ばれる練習でもしておきましょうか?」

「楊修様っ!」

「それとも、君がなってみますか?吏部侍郎に」

あからさまに顔を顰めた珀明に楊修はくすくすと笑った。

「碧珀明、君が目指す場所はどこなのかな?」

「僕の目標は李絳攸様です」

迷いなく答える年下の官吏に楊修は目を眇める。

「君の崇拝もここまでくると感服しますよ。…はて、それが終着なのか通過点にすぎないのか。君の年には彼は…李絳攸は決めていましたよ。終着をね」

「え?」

楊修の言葉の意味を図りきれず、珀明は聞き返した。

しかし、楊修は食えない笑みを浮かべたまま踵を返した。

「吏部に戻りましょうか。仕事は待ってくれませんからね」

現在の吏部の様子を思い浮かべた珀明は一度身震いをした。吏部に配属されてから幾度と無く地獄というものを見てきたが、今回はそんなものではなかった。

思わず逃げ出したくて、足が竦む。

けれど。

珀明は憧れて止まない彼の人の姿を思い浮かべた。

今はこの朝廷に居ない、あの人。

それでも目標だと言い切れたのは、信じているからだ。

屹度、必ず―――。

 

珀明は吏部に向けて駆け出した。





 

 

 

「玖琅様、今何と?」

紅家の書庫で書物を捲っていた自分の元に来た玖琅に、絳攸は聞き返した。

「だからな、お前もいつまでも客人のようにしている訳にはいかんだろ。しかるべき地位と役職を与えねばならん」

「ですが、私は紅州について何も…」

「まぁ十年は人の下について色々と学べばいい。紅州と一言で言っても広い。自分の目で現状を把握しなくてはいかん。まずは南の岵匡が良いだろう。州都よりは無論小さいが、商業も栄えている」

「く、玖琅様…私は…」

上手く言葉が見付からない。

自分は客人ではない。確かに、解っていたことなのに。

紅家に入るということがどういうことか、解っていたことなのに。

急に自分のこの先を具体化されて、戸惑う。

どうにか先延ばしに出来ないだろうかと考え、その考えに自分自身が驚く。

上手く思考が纏まらない。

「絳攸」

玖琅は顔色一つ変えることなく、静かにその名を呼んだ。

養い親と同じ色のその瞳が、全てを見透かしているようだった。

「…はい」

「お前は何を遠慮している?」

「え?」

「お前が李姓で紅姓ではないからか?」

「…………………」

違うとは言えなかった。

確かに、紅州に入ってから尚更それを意識する自分が居たのも事実だ。

「秀麗との結婚が先だと思っていたが。お前がそれを気にするなら、私から黎兄上に言って改姓をしてもらおう」

絳攸はそれに是とも否とも答えることは出来なかった。

 

 

自分は紅姓になりたかった。

ずっと。もう十年以上もそんなことを思っていた。

李姓を与えてくれた養い親の真意が解っても。それがどんなにか嬉しくても。

それでも。

紅姓になれたらどんなにか、いいだろうと思っていた。

誰に憚る事も無く、あの人の息子だと胸を張れると思っていた。

それを、ずっと望んでいた。

それなのに。

今は手放しで喜べない自分がいる。

紅姓になったら…屹度、引き返せない。

 

引き返す?

どこから、何から?

自分は一体、何に、何処へ、帰りたい?

 

 

「こう兄様!どこへ行くのですか?」

廊下で、行き成り思考を断ち切られて絳攸は狼狽した。

辺りを見回したが、声の主は自分の下に居た。

「…せ、世羅姫」

どこに行くかなんて考えもせず歩いていたが、それでも咄嗟に「外に」と答えてから、外の空気を吸いたいと思った。

「お外に?」

「はい」

見上げてくる大きな瞳に、何とか笑顔を作ることに成功した。

「世羅もごいっしょしてよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

絳攸は極自然に差し出された世羅の小さな手を取った。その手から子供特有の暖かな体温が伝わってきた。

 

 

絳攸は紅邸の裏手にある山に向かった。特に目的は無かった。ただ歩いていたかった。

「こう兄様。雨がふりそうですね」

世羅は空を見上げてから、隣を歩く絳攸を見上げた。

「そうですね。…世羅姫は、雨は嫌いですか?」

絳攸も重く雲を湛えた空を一度仰ぎ見てから、世羅に訊いた。

世羅はぶんっと首を横に振った。

「いいえ。雨がふると楽しみがあるのです」

「楽しみ?」

「はいっ」

それが何か訊こうとする気力が湧かず、ただ「そうですか」と漏らした。

「こう兄様は雨が好きですか?」

「…私は、」

苦手ですね、と言い掛けて。

 

『貴方の気持ちは晴れたかしら?』

 

ふいに蘇る、百合の問い。答えは是。

本当に?

だったら、どうして胸が痛んだ?

認めたくない。解っている。認めたくない。解っている。認めたく、ない。…認めたくないだけで。

そう、解っている。

胸が痛んだ理由だって、本当は…解っている。

嘘を、吐いたからだ。

嘘を吐いてはいけない人に。

晴れるどころか、日増しに影っていく気持ちを止めようも無く。

今、何をしている?吏部は?主上は?

 

『評価じゃない。知っているんだ』

 

裏切り者はどっちだ。

何一つ告げもせず、逃げるように。

気持ちに蓋をして、考えないようにしていたのに。

溢れそうになるものは何だ。

…駄目だ。それ以上のことを考えてはいけない。

迷うな。もう迷っても、誰も助けてなんてくれない。

 

『絳攸様の、強い思いはなんですか』

 

『紅家次期当主にもっともふさわしいのはお前だと私は思っている』

 

『楽しかったね、絳攸。でも、それだけではだめだったんだ』

 

『行きたいなら、勝手に行けばいい。お前の人生だろう』

 

『絳は紅よりなお深い真紅。攸は水の流れる様を意味します』

 

頭が痛い。気持ちが悪い。吐きそうだ。

 

突然足を止めた絳攸に世羅が不思議そうに振り仰ぐ。

「こう兄様?どうしたの?お腹がいたいの?」

「―――っ」

絳攸がうずくまると、それに驚いた世羅がその肩に触れる。

「こう兄様!?」

今は同じ目の高さにある世羅の大きな瞳に涙が溜まる。

何とか呼吸を整えて「大丈夫です」と言い掛けた絳攸の耳に、さくりと草を踏む音が届く。

次いで聴こえたのは少し呆れたような、苦笑いを含んだ声。

よく通るその声の持ち主を自分は知っている。

 

「また、迷ったの?本当に君はどこでも迷うんだね。君が宝鏡山なんて行ったら確実に遭難死だよ。や、意外と一発で辿り着けるのかな」

 

目線を上げた先に、一人の男が居た。

青みが勝った黒髪を上げず、後ろで一つに括ったものを横に垂らして。服装は常の格好からしたら恐ろしく地味だったが、その鉄色の瞳も口元の笑みも貴陽に居た時と何も変わっていなかった。

そう、自分が貴陽で最後に会ったのはその男だった。

 

「…………楸瑛」

 

絳攸はその男の名を呟いた。













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セーガ君も、覆面さんも、はっくんも、常春さんも出せました。絳攸様LOVEのはっくんを書くのが楽しいです。絳攸贔屓なので今後セーガ君の扱いが酷くなったらごめんなさい、と先に謝っておくことにします。
うちの絳攸様は少女なら手は繋げます。「少女でも女性は女性!」とか言いません(笑)
08/1/17

戻る/続く